夢にまで見た開墾地を手に入れるのには500円もの大金が──。無一文の秋月運平は金を工面できるだろうか。兄に見捨てられ入植地に置き去りにされ、運平に助けを求めたおちかの運命は──。開拓文学の最高峰辻村もと子『馬追原野』衝撃の最終回です。
石狩平野の中央をただひとすじ貫いた単調な道は、深い車の轍の跡に雪解水を残して流れるともない春の雲を浮かべていた。
明治二十五年の早春の或る日青い馬にひかせた一台の荷馬車が、この人影もない凸凹道をガタリ、ゴトリと北に向かってすすんでいた。
手綱を握って、巧みに、このひどい深い轍の跡に車輪を急激に落とさぬように加減しているのは、五十の上を幾つか出たと思われる髯面の大男で、眉も髯も黒々と濃いくせに、ひどく頼りない小さな目だけは気の弱い善良な性質を表わしている。
小森虎熊太(こゆうだ)と、馬鹿に立派な名前を持った運平の相棒であった。この小森は、関谷が東京で鉄道荷馬車をやっていた頃からの知人で、曽ては、時の農商務大臣佐野常民の駅夫をしていたという男だった。
だが、風采はなかなか立派なくせに、馭者などという道楽商売からは容易に堅気になれず、勿論妻子も持たず、流浪のはてに関谷の居候をしていた小森は、いよいよ運平が年来の望みを達して、幌向原野に入地するときいて、自分も一緒に連れて行ってくれ、馬の世話でも、開墾でも食事のことでも出来ることは何でもすると、たっての頼みで運平は先ず彼を同道することにきめた。
馬は、運平が馬追時代からの馴染みの青で、関谷が格安に譲ってくれたものだ。馬車の上には、プラオ、ハロー、唐鍬、鋸、斧、鉈などの農道具一切と、最少限度の所帯道具がつまれ、僅かなプラオのハンドルのすきの部分に足を入れて、その上に積みかさなった鍋や鋸を落とすまいと注意しながら、運平は荷馬車の後に乗っている。
それは、秋月運平の生涯に記念すべき、彼の開墾地入りの第一日の光景であった。
馬車は勿論、農具から所帯道具まで、すべて古道具商をした経験のある関谷が一緒に行って、出来るだけ値切って買った古物であったが、立派に開墾の目的を達せられるはずのものばかりであった。
運平は、幌向原野の松下の売地を下検分して帰ると、すぐ、その足で交渉にかかった。運平の見たところによると、土地の三分の一は湿地で排水に大分金がかかるから百円ほどひいてくれというと、官吏の松下は、土地の状況を知らぬ様子で代金五百円を易々と四百円にまけてくれた。
運平は、すぐに事情を話して関谷から手金としての百円を借りうけて契約した。もはや逡巡してはいなかった。土地をみて、確実に成功する見込みがつくと、彼は速決速断で実行に移ったのだ。
運平は次の日、小田原の兄にあてて、土地を買ったから、新助氏に六百円借りて送ってくれるように、という電報をうった。
秋月は石橋をたたいて渡る細心な男だが、こうと、自信がつくと、ずいぶん思いきった突飛なことを平気でする男だった。いったん信じたことは、あくまで万難を排して突進して行く勇気を持っていた。
彼は、その彼のひととなり見込み、今日まで学費を出してくれたり、何やかと世話をしてくれた新助か、この当時としては莫大な六百円の金を異議なく送ってくれると信じ切っていた。
見込みがなかったら、恥ずかしいと思わず帰っていらっしゃいと、渡道を前にしていってくれた新助は、見込みがなしに、六百円の金を運平が送れというはずがないのを知っているであろう。彼はそう信じて疑わなかった。
金は運平の確信どおり送りとどけられた。松下氏との売買契約は成立した。だが、表だって貸下地の売買は出来ぬから、公正証書により、貸下期間中は秋月運平が代人となって開墾し、成功して所有権の付いたとき無償売渡すという契約であった。
運平はついに土地を手に入れた。しかしそれは、北海道に渡って来るとき、彼がいろいろ調査して知った、国有未開地処分法による無償貸付を受けて、事業成功の暁、国家から無償で付与される土地ではなかった。
彼は自ら盗泉の水を飲むと、自嘲したが、当然無償なるべき土地を四百円の金を出して買った。そういう一抹の不愉快さはあったものの、官の指示を待ったのではいつのことか、わからず、たとえ貸下げられたにしても、極めて小地積しか手に大らないことを思いくらべれば、四百円の金は決して惜しくはない。百町歩といえば、彼の生まれ故郷の一村分くらいあるのだ。
この未開地を自分の手で開き、自分の手で耕作出来る、と思うと、彼は、あたかも一国一城の主にでもなったかのような生甲斐を感じた。
自分は、日本の国土を百町歩だけ増加させると同じ仕事をするのだ彼はそう思った。それが天子様のためだというのなら──そういって、頼りにする息子をこの北辺の地に手離してよこした母よ、運平は、きっと立派にあの未開地を耕して国の富源に変えるであろう。
荷馬車の上でガタリゴトリと揺られながら、運平は、遠い南の山脈を越えて、母に今日の自分のよろこび、決意とを伝えるおもいで、ぬるんだ春の空を見やるのであった。
札幌から岩見沢へ十里近い道のりであったから、幌向太をすぎると、陽はもはや傾いて、荷馬車と人の影を道端の枯草の上に落としはじめた。馬追の山が紫にかすんで、それにつづく夕張岳は、まだ瀬戸もののように雪が光っている。
運平は、ふと、おちかのことを思い出した。ポケットに手を入れてみると、先日の手紙が、くしゃくしゃになって入っていた。あれから一月近く、運平はまったく昼も夜も新しい土地のことだけに没入していたために、おちかのことは折々心にかかりながら、忘れるともなく忘れていた。
まだ名前もない幌向原野の一隅の土地に根を下したら、そうだ、さっそくおちかを引きとって、炊事のことでもやらせよう。秋月はそう思うと、なごやかなまなざしをして、馬追の山影を見やった。
岩見沢に着くと、前もって手紙をやっておいたので山形権四郎が来ていてくれた。杉山のところでは、お民が今日明日に出産しそうなので出て来られないから、よろしくとのことだと、山形は例の重い口調で語った。
ここは仙吉の新しくひらいた関谷支店の商先であった。仙吉は相変らず頭に油を光らせながら、帳場に座っていたが、運平が馬車から下りて店に入ると立って来て愛想よく迎えた。
「いよいよ本望を達せられましたな。いや、全く、御同慶の至りです」
彼は、もみ手をしながら、すっかり板についた商人らしい態度で火鉢の火をあらけた。
「おい、お茶を持っといで──」
仙吉が奥に声をかけると、大丸髷に結ったお千代が、女房気取りで番茶を盆にのせて運んできた。
「いやあ、こりあなかなかいい女房振りだ。お千代さん、女っぷりが一段とあがりましたよ」
運平にお世辞をいわれて、仙吉はすっかりやにさがっている。
「また、なんです、秋月さん。なんでも入用のものがあったら店から持って行って下さい。馬追じゃあすっかりお世話になっちゃって、だが、おかげで私も落ち着きましたよ」
仙吉は満足そうなおももちで巻煙草に火をつけた。運平はどうかこのまま仙吉が、この仕事をやりとげてくれるようにと、心ひそかに願うのだった。
岩見沢から今度の開墾地までは一里半あるのだから、遅くならぬうちにと、秋月達三人は仙吉の店を出た。
当分のお菜にと、お千代が塩引きを一本車の上にのせてくれたのも、秋月はこだわりのない心で感謝した。
去年の春、六人のトワタリたちを連れて、雪解けのひどくぬかった道を歩いてから、幾度も通りなれた夕張道路であった。今度の開墾地は、そのとき、一行六人を休ませて、男たちには一杯のモッキリと、女たちと自分は、色の黒い餅を食ったあの釣橋のそばの茶店から北にひろがっているのだ。
運平は、あの時、川辺で見たおちかの赤い半幅帯を思い出した。山形に彼女のことをきいてみようと思ったが、何だか妙に言い出し憎かった。
石狩平野は、今も去年と同じに、人影もなく渺茫とひろがっている。夕陽にかすむ、樽前、恵庭、札幌岳の姿も同じたたずまいであった。
だが今、運平はこの未開の土地に、大きな愛情と、肉親へ持つようなしたしみを感じていた。もはや、ここは知らない他国ではなかった。第二の故郷という強い愛着が、心を満たし、不安や心細さは微塵もなかった。
「秋月さん。関谷の親方は、馬追を抵当に入れて金を借りなすったというが、ほんとでごわしょうかなあ──」
馬車の後から二人で並んで歩いていた山形が、なにかためらった後でいった。
「さか──僕は、そんなことは聞かんが──」
と、運平は答えたが、では、やっぱりいよいよ関谷は船を買うのだな、と思った。馬追の開墾地を担保にするとは、さすが運平には言えなかった関谷の心が思いやられて、秋月は、いくらか頬笑ましい気もする。だが、他人のことながら、あの土地を人手に渡すようなことにならねばよいがと、運平は不安な面持ちをした。
「先日も私のところへ来なすったときに、今年は自分もあまり来られんし、秋月さんも自分の仕事を初めなさるから、うんと、小作を入れて、やろうと思っている。杉山さんと二人で出来るだけ、めんどうを見てくれといって行かれたんですがなあ──」
と山形は、なにか解せぬもののある様子だった。
「関谷さんは、もっともっといろいろな仕事をされる積りらしいんですよ。あの方は僕などとは違って百姓のことだけ考えている人じゃあない。まだまだあの人は、どんなに偉い仕事をなされるかわかりませんよ」
「そうですかなあ、儂(わし)などには、とても、関谷の親方の考えはわからんが、とにかくなんでがすなあ──いつも何か考えとられる人で、いいと思われると、どんどんその方にすすまれる方でがすからなあ」
運平は、山形にその後の馬追の様子を、なつかしげにいろいろと尋ねた。だが、何よりもききたいおちかのことには、なぜかすなおに触れられなかった。
「鈴木はどうですね? 落ちつきそうですかい?」
「そう──まあ、鈴木のことだば、何とか、あそこで小作をつづけそうでがすが、堀井は何でも、室蘭の方に行って、船の荷下し人夫をやっとるということですが──あのう、なんでがす。秋月さん──おちかが死にましたよ」
山形権四郎は、少しためらった後でぼっそりと憤ったようにつけたした。
「ええ? 死んだ? おちかが──ほんとですか」
秋月の声は思わず調子がはずれてうわずったものになった。
「三月の終り──いや、四月の初めでがしたかなあ。夕張川の氷が解けはじめて、方々にぽかりぽかり穴があくようになってからでした。間違えて川へはまったんじゃと、岩隈ではいっとりますが、なあに、岩隈にいびり殺されたんでがすよ。かわいそうなことをしました。御承知のように、雪解けの川に入ったんじゃあ死骸も探しようがありませんでなあ───」
運平の目には、氷にとざされた夕張川の水底を、赤い半幅帯が流れてゆくのが見えた。おちかが死んだ。多分、山形のいうように自殺であろう──運平は、ポケットのなかに残ったおちかの手紙を握りしめた。
救ってやろうと思えば救えたものを、土地のことで夢中になっていた自分は、彼女の最後のつつましい希望まで打ちすててかえりみようともしなかった。おちかを殺したのは運平自
身かもしれない。
「雪解頃の川には、ぽかりぽかり大きな穴があきますでな、そのくせ、一帯にまだ厚い氷が張りつめている。あれに落ちたんだば、見ていたからって助けられませんでなあ──」
山形はそばにいながら、おちかをみすみす殺したことを、何か運平に謝ってでもいる様子である。
「そうですか──おちかは死にましたか」
運平は気がぬけたように、ぽっつりといった。この希望にみちた出発の日に、どこか一カ所、穴のあいたような寂しさが心を暗くして、運平は物がいえなくなった。
春の陽が、朱色の円盤に変って燃えあがりながら地平線に落ちようとする頃、三人は目ざす新しい土地に着いた。
夕張道路を三四十間北に入った川べりに、小さな堀立小屋があった。これは一昨年、夕張道路開鑿の折に土工達の住んでいたもので、そのまま打ち捨てられてあったのは僥倖であった。
三人はここで馬をとめた。札幌から十一里の行程にも馬はさしてつかれた様子もなく、馬車からはずされると、川べりの雑草を食みながら、嬉しそうに高くいなないた。
とりあえず鎌で草を刈って小屋までの道を作り、秋月は堀立小屋の入口の莚を巻きあげて、なかにぐわんぐわんしている羽虫を追い出した。
拝み小屋の屋根の、ところどころの隙間を枯草でふさげば、どうやら当分の住居にはなりそうであった。
山形は、枯草をどしどし運んで新しい敷草を散らし、その上に岩見沢から買って来た莚を敷きかえた。小森虎熊太は、馬車の荷物を運び込んで、考え考え適当なところにおいている。
「まったく、好都合でがしたなあ、こんないい家があって──儂はまた、今夜は野宿か、それでなきゃあ、おそくまでかかっても、居小屋を作らねばならんかと思っとったんでがすがなあ」
と、山形権四郎は、自分のことのようによろこんでいる。
運平は、小屋の外に出て、これからの自分の仕事を目ではかるかのように、この未開地を見渡した。
木々はもう新芽を吹き出す前の、みずみずしい生気にみち、何か未開地特有なざわめきが伝わってくるようであった。空には淡くぬるんだ星の光が見えはしめた。秋月運平の目には心にせまるよろこびとも、悲しみともっかぬ不思議な感傷が涙になって湧き出してきた。
山形が小屋の中で火を焚きだしたらしい。しぶい煙の匂いが、はじめて、ここに人の住みついたということを語るかのように、野面を流れていった。
あとがき
大地の底から何かにつきあげられるような想いで、私はこの作品を書きあげた。それは地軸にひそむ生命の力が、私のか弱い体力と、貧しい創作力に絶えずはたらきかけていたような気がする。そして、いま、まるで夢から醒めたおもいで、自分の生み出したものを見つめる。
私は秋月連平の土への情熱と同じ情熱を父から受け継ぎ、それを、どうしたわけか文字に注ぎつづけてきた。
去年の春、この作品のモデルの父は、自分の開墾した土の上で他界したが、私に仕遂げなければならぬ仕事を残していった。
私は、ほとんど、女の幸福といわれるようなもののすべてを代償にして、大地の底から響く生命の声に耳を澄ましながら、この仕事をしとげたいと念じている。
初代の開拓者達の大部分は、いま、もはや土の下に眠っている。それらの人々によって、種を蒔かれた北海道の開拓事業は、次第に、歴史としての部分に入ろうとしている。
殆どが第二世の時代になった現在の北海道には、良かれ、悪しかれ、一つの新しい地方性がはっきりと形作られようとしている。
その父祖達が、内地各地から移入した種々雑多な文化、風俗、習慣、言語、そのようなものが混沌の中から、ようやく北海道としての一つの特殊な地方性を現しはじめているのだ。
私は生まれた土を愛する。この特種な新しい歴史を持った土地が、よりよい発展の道をたどるようにとは、いつもたえない私の念願である。
仕事は終ったのではない。これからが一層困難な仕事なのだ。
ともあれ、私は、この労作をとおして、ひとつの生きる方向を見出したおもいである。
謹んで、亡き父の霊にこのつたなき一篇をささげ、冥福を祈るとともに、いつも私を励まして下すった親しいお友達の方々に心からの感謝を捧げる。