北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部


 
 

 
今年は例年よりも早い雪解けであった。
 
まだ藻岩颪が吹きぬけてゆく広い通りに片よせられた残雪は、うず黒く痩せていって、冬中の夥しい馬糞が、よく固まらない道路の表面で泥水に交り、少し乾きかけた部分からは、ゆらゆらと陽炎が立ちのぼっていた。
 
街にはまだどこか未成年者のような整わぬものが感じられたが、未来の逞しい発展を予測されているらしく、自信ありげに幅広く区画され、石狩平野を渡ってくる土の匂いが、そのまま吹きぬけてゆく気配であった。
 
町といえば、ちまちまと神経のゆきとどいた何々小路とか、何々横町とかいうようなものばかりの内地の都市を見なれた秋月運平の目には、この新開地の主都の風貌は大ざっぱすぎて、当分のあいだ馴染めなかった。
 
三月も終りに近ずくと、さすが日光は日光らしい温度をとりもどし、あっけないほど早く路上の雪は消えていったが、まだ、ときおり、はっとする冷たい風が暗く長かった冬の名残りを思わせるのであった。
 
だが、走りの鰊を売る声が、北国訛の甲高い調子で街上の景気をあおりたてるにしたがって、街のざわめきは潮のように烈しくなってきた。
 
日に日にトワタリ達(内地から移住してきたばかりの人々)の数が増した。彼等は、それぞれに生まれ故郷の方言をまる出しに、服装もまちまちだが、みな一様にキョロキョロと落ちつきなく何か探しものをしているまなざしであった。
 
それらのトワタリたちを相手に、南一条の四丁目を中心にした商店街は、盆と正月を一緒の賑いを呈し、商人たちは、なかば馬鹿にした調子を露骨に出して新来の客をおだてあげ、出来るだけ財布の紐をとかせようとかかっていた。
 
街の落ちつきなさが加わるにつれて運平の気持はいらだった。ぐずぐずしていると、これ等のトワタリたちに追いぬかれてしまいそうな焦躁であった。
 
 
 
運平が、まだ十三歳の春、はじめて文明開化の東京に丁稚奉公に出るとき、神奈川県の郷里の祖母はいったものだ。
 
「運平よ、東京は生き馬の眼をぬくというぞい。お前、巾着の紐をようく結わえておくだあぞ─」
 
隠居所の仏壇の抽出から某の小遣を出してくれた祖母の半纏姿は今も運平の目に残っている。
 
だが、生まれて初めて東京に出たあの当時の、いつも胸もとをキュッと合わせているような緊張もこの新しい土地の激しさには及ばなかった。
 
秋月運平も、もう二十二歳の若者であった。
 
東京の漆器問屋の丁稚奉公は半年ばかりでよしてしまったが、その逃げ帰った理由を祖母にたずねられると、運平は勝気な瞳を光らせていったものだ。
 
「俺(おら)あ、年越蕎麦一杯食わせてもらって、ひとりひとり御主人の前にいって、御馳走様でしたって、手をついてお辞儀をするのなんかいやなこんだ。
 
なぁ、お祖母(ばあ)──それに、商人なんて一日中店に坐って火鉢にあたりながら、いつ来るかわかんねえお客さんを待っているだあ。俺あそんな気の長えこと性に合わねえやな。
 
俺あなぁ、お祖母、やっぱり百姓になるだ。百姓といっても、俺ぁ家(ち)みてえな三反や五反のじゃあねぇ。もっともっと大きな百姓になるだ。うんと学問をしてよ」
 
運平はそれから烈しい百姓仕事の合間に文字通り寝食を忘れて好きな学問をつづけていた。
 
その真摯な努力と頭の良さに惚れこんだ小田原の本家の主人が、見かねて東京の農林学校予備校に入学させてくれたのは憲法発布の翌年で、運平二十歳の春であった。
 
だか、翌明治二十三年農林学校は農科大学に昇格した。その当時、この昇格に対する世論は、徒らに学問尊重に陥り、農学を実地から遠ざけるものだと盛んな反対があり、学理よりも実地、学問よりも実業が大切だという議論は若い運平の心をひどく動かした。
 
運平は学者や官吏になりたいのではなかった。運平の野望は大きな百姓になること以外にはなかった。
 
かといってささやかな自作農の四男に生まれた彼には作るべき土地は故郷にもなかった。北海道の広い土地、広大な未開地が呼んでいるのは、自分のような若者だ、と運平は考え至った。
 
時世の波は、運平の成長と共に、封建的なものを目まぐるしく打ち破って、新しい社会機構へと移って行こうとしていた。ぐずぐずしていると、その浪に追い越され、猫の額ほどの郷里の田畑を分け争いながら、一生うだつのあがらぬ貧農の生活をしなければならぬのは目に見えている。
 
明治二十四年の早春、運平は学校生活にも見切りをつけて、新しい建設の波浪の中に身を投じた。
 
北辺の処女地にこそ、自分の多年の夢を実現する世界があろうと、青年らしいひたむきな期待をもって横浜から海路を北海道に渡った。
 
新しい社会機構への荒々しい足音は、比較的歴史の蓄積を持たぬ北海道ではことに烈しく、それは、まるで肉体的にさえうずくように感じられてくるものがあった。
 
 
 
秋月運平は、そんな潮流に似たざわめきの中で、一か月近い日を無為に過してしまったという苛立しさに、もはや、じっとしてはいたたまれぬ思いであった。
 
生唾をぐっと呑み込んで、顔をあげた運平の目の前を、海老茶色の馬車ががらがらとすぎていった。
 
運平の目には、早春の日光を受けて輝くばかりなその車体が、そのままひとつの勢力として写った。
 
車の上に悠々とステッキを構えている山高帽の男はいわずと知れた道庁の官吏であろう。そして、いましがた、運平がうなだれて出て来た道庁の赤煉瓦の建物から、時を得顔に揚々と馬車を駆り出したものでもあろう。
 
運平は、この一か月のあいだ、お百度を踏むように道庁に通った。土地の貸下げを願うためであった。
 
北海道は、明治十九年県政が廃され、道庁設立を契機に、新しい拓殖計画の第一歩として、殖民地撰定法が設定された。
 
いままで無計画に移民を入れていたのを改正して、官自身が農耕其の他に適する地質を調査し、渡道者に土地を割り当てて貸し下げ、開墾させるというのであった。
 
十九年の当初には、道庁の技師内田瀞、十河完道等が、熊におびやかされ、もの凄い虻に悩まされながら原始林を切り開き、河川沼湖を渡って困難な測量の結果、江別川、野幌山間も平地三百万坪、夕張川の左右「マオイ」「フリヌプリ」、山下の原野およそ五百三十万坪、幌向川沿岸約六百五十万坪を撰定し、つづいて二十二年、即ち運平の渡道した二年前には、石狩、天塩、後志、釧路、根室、北見の諸原野、ほとんど全道の原野の調査を完了し、これによって農耕牧畜適地、二十八億六千六百八十万坪の撰定か終わっていたわけであった。
 
すでに、十九年に撰定された部分は貸下げも開始されていて、運平の知人で、この札幌に馬具商を営んでいる関谷宇之助なぞも、マオイ原野に数十町歩の貸下許可を受けていた。
 
明治維新後の北海道の移民、拓殖政策は官自らが主体となり、旅費の支給、衣食住の給与等極端な保護施設によって必要な労働力の吸集に努めていた。
 
しかし、その結果は期待通りにはゆかず、官の保護に馴れた移民たちのなかには、保護期間が終るとともに流亡するもの続出し、そのうえ、明治十一年頃のインフレ政策による物価騰貴、十四年の紙幣減縮方針による不景気の影響あり、また十六七年の凶作あり、拓殖事業は一時停頓の状態にさえたち至っていたのであった。
 
だが、明治二十年前後に於ける兌換制度確立、銀行の金融改善等によって、産業界は漸く整理され、民間の各種企業熱が勃興の気運に向かい、資本家たちは、不況時代に流出した農村の労働力を北海道に移して開拓企業を営もうと意図しはしめた。
 
そこで、移民政策に行きづまっていた政府は、従来の国営的な開拓政策を放棄し、北海道の開拓事業を、これからの新興資本家達の手に譲る方針をとりはじめていたのであった。
 
「移民を奨励するの道多しと雖も、渡航費を給与して内地無頼の徒を招集し、北海道を以て貧民の淵薮と為すの如きは策の宜しき者に非ず、自今以往は、貧民を植えずして、富民を植えん。是を極言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を求めんと欲す」
 
というのは二十年五月、岩村長官が郡区長会議に於て行なった施政方針の演説であったが、運平はそんなことは知らなかった。
 
ただ、北辺未開の国土を開き、不毛の地をして沃土と化せしむるは、一人個人の利のみならず皇国に報ずるの所以にして、男子一生の本懐なり──といったような意気に勇躍して来た運平も、そう簡単に彼のような一介の貧乏書生に、広大な土地を貸下げてもらうわけにはゆかなかった。
 
 
 
運平は幾度となく道庁に足をはこび、貸下地の指示を願ったが、当局者の答えはそのつど冷淡な不得要領なもので
 
「貸下地は、まだ調査中でいずれ区画割が出来、開放する時がくれば官から発表するから」
 
というのが、毎度きまった答えである。
 
その発表がいつのことやら、気短な運平は、同じことをいわれるのを覚悟で一週間とたたぬ中にまた問い合わせに出かけてゆくので、当局者もあまりよい顔はせず、剣もほろろに追いかえされることさえあった。
 
そのくせ、中央政府の高官や知名の有力者、または道庁の官吏たちの紹介でもあれば、親切に貸下地の周旋をしてくれるなどという噂もあり、札幌で発行される北門新報は、道庁を伏魔殿と称し、明治十四年の官有物払下問題にからむ一部の人々の利権占有を非難攻撃もしていた。
 
また、つい最近運平は政談演説をききにいって弁士の武藤金吉が、
 
「北海道は日本の北海道であり恐れ多くも陛下の国土である。一人薩摩人の北海道ではない」
 
と絶叫したのも心に残っていた。
 
若い運平は欝勃と燃えあがる野心を抱き、目の前に石狩平野の一鍬も入れられぬ肥沃な未開地を見ながら腕を組んでいなければならぬのに歯がみをする思いなのである。
 
つい昨日も、運平は、春の陽ざしに追いたてられるように土の匂いをかがずにはいられぬ生まれながらの百姓の気持から、同じ目的を持っている瀬沼宗一という渡道以来の友人と、弁当持ちで江別まで歩いていった。
 
そして粗末な板囲の戸長役場に入って「今日は、この辺に貸下地はありませんか」と、まるで田舎の玉子買いが売玉子の有無をたずねるようなききかたをしたものである。
 
無論そんな役場でわかるはずもなく、士族あがりらしい老吏員は眼鏡ごしにうさん臭そうに二人をじろじろみて「そんなものはありませんよ」と無愛想に答えた。
 
何にともなく当り散らしたい気持をもちあぐんだ青年たちは、残雪の道を言葉少なく帰路に着いたが、やや傾いた春の日を浴びて、思いがけなく道端に花咲き初めた福寿草を採り採り札幌へ帰ってきた。
 
運平は縞の手織木綿の着物に白の天竺の大幅の兵児帯姿で、新聞紙につつんだ昨日の福寿草を懐に入れていた。
 
道庁の帰りに関谷宇之助の店を訪ねてみるつもりだった。
 
 

 
 

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