店の中にはまだストーブがたいてあって、むっとするような温気に、渋い皮革の匂いが交り、そこら一ぱいギシギシするような新しい皮製品がつまれていた。
「ほう、秋月さん。今日も道庁へいってきなすったか。貴方の熱心には驚きますなあ」
ストーブの台の上に足をのせて、火鉢なら股火鉢という恰好で客と向き合っていた関谷宇之助は持ち前の幅の広い声で運平を迎えた。
顔一面の薄痘痕の中に、坐りのよい大きな鼻、心持ち目尻の下った上瞼のたるんだ目、黒ずんだ厚みのある唇の端をさげて大きく結ぶと、何か一癖ありげな面構えになる関谷宇之助は、支那人のように大柄で風雪の中を悠々と歩きまわって、ここまできたという風格を備えていた。五十余歳の今日までその青年期を御一新の急速な世相の移り変りの中にさらしてきただけに、噛めばガッチリと歯に当るものがありそうではあったが、一見商売上手な市井の馬具商にもなりきっている。
向き合っていた男は、一目でトワタリと知れる顔色の悪い三十五六の男で、ひどく皺の多い顔に、気の弱そうな小さな目をせわしなくまたたかせていたが、入って来た秋月を見ると、卑屈な様子で身をかがめて席を譲ろうという気配をみせた。運平はそれを制して、手近な三本足の腰掛をひっぱって来て腰を下した。一本、足の短いのがあるとみえて、腰掛は運平が体を動かすたびに板敷のうえでゴトゴト嗚った。
「そうそう、もうこんなものが咲いていましたよ」
運平は懐から新聞包みを出した。紙がじっとり湿ってぷんと土の匂いがした。
「福寿草ですか、どっからとって来ました?」
受け取った関谷は紙包みを開いて見ていった。
「昨日江別までいって来ましてね、帰りの道々退屈しのぎに取ってきました」
「貸下地ですか?」
「ええ、別に目当てがあったわけじゃあないんです。戸長役場で貸下地はありませんかって尋ねたら、妙な顔をしていましたよ。あの辺は屯田兵の割当て以外には、そんなところはないという話でした。もっとも、例によって、誰それ貸下地という棒杭だけは方々に立っていましたがね。そのくせ、一鍬だっていれてないんですよ」
「ありゃあ馬鹿なことをしたものです。五年に出た土地売貸規則の条例不備のおかけですよ。土地の投機をしようというやつには、もってこいの規則ですからなあ──」
関谷は太い銀の鉈豆煙管にきざみをつめて、厚い唇に持って行きながら、小僧に茶をいいつけた。
「何しろ、千坪一円から一円五十銭という払下価格ですからねえ」
関谷はつづけるのだった。
「早い話が一万坪の土地がわずか十五円ですよ。この些少な金を投じて莫大な土地を買い占めておけば、あなた、他日必ず値が上がりまさあね、これほどいい投資はない」
「だが、期間中に開墾しなければ上地申付くるというでしょう?」
運平が囗をはさむと、関谷は、にやりと笑って吸殻をストーブの上に叩き落とした。
「それがあなた、十二か月乃至二十七か月以内にその事業に着手せざる時は土地を返還させるというんです。これが、抜け道に利用されたんですな。
早い話が、期間中に一万坪の中の一坪か二坪を開墾して播種しておけば、残りの九千九百九十何坪は幾年放っておいても規則に抵触しませんや。そのうえ払下げの価格を上納すれば私有地で、売買自由というんですからなあ」
なるほど世の中のからくりというものはうまく出来ているものだと、正直な運平は感嘆と憤慨を一緒にするのだった。
運平には、何年も土地に一物の作付けもせず、値上りを待つという人の心持ちが理解出来ず、それこそ、日本の国土を私利私欲のために利用する国賊だとしか思われなかった。
運平の郷里などでは、山の上から、川の縁まで、およそ畑になりそうなところは、一坪でも半坪でも空地にして放ってなぞはなかった。寸尺の土地も百姓にとっては宝石のように尊いものであった。
「そのことが、大分世論の非難を受けたので、十九年の土地払下規則になったわけですが」
と関谷は申しわけのようにつけ加えた。明治十九年の規則というのは十二条に分かれた細密なもので、そのような法の不備に乗ぜられるすきはなさそうだったが、こんなことを聞くと運平は不安を感じないわけにはゆかない。
その条例によれば土地の貸下期限が定められ、貸下げられた土地は適当な坪数に分け、一年毎にその割当てた坪数だけは開墾しなければならず、一年間にその割当てだけ事業が成功していなければ、残りの土地は返還させることになっていた。そして、規定の年限中に全部開墾が成功したとき、初めて素地代一坪一円の価格で払下げられるというのであった。
「明治五年の売貸規則によって払下げを受けた土地にも、この規則が適用されることになりましたから、だんだんには、持ちきれずに売りに出す人も出来てくるでしょうなあ──そういうので、よい土地が出たらそれを買うのも方法なんですが」
と関谷はいった。しかし運平はそんな不正な投機者の食いものにはなりたくない。どこまでも官からの貸下げを待つつもりだと、むきになっていうのだった。
すると関谷はふと思いついたように、
「そうそう、実はな、秋月さん、あんたに相談したいことがあったんですよ」
「お前もまぁちょっと待つとって下さい」と後の方はトワタリの男に言った関谷は、馬具を買いに来た客の方に立って行った。大きな体が天井からつるさげられたバンドや鞍にぶっかりそうにゆったりした体の構えであった。
運平は、いつも、この人の前に出ると、自分はまだまだ青くさい小僧っ子だという感じがしてくる。
関谷宇之助の時につけ折にふれての話を総合してみると、彼は播州の生まれで、若い頃大阪に出て古道具商を営み、その後東京に出て、小田原、東京間の魚類その他の馬力運搬をやってみたり、谷本道之に献策して東京市街の鉄道馬車を創立させたり、いろいろの仕事に手を出してみたが、どの事業にも失敗がつづき、空手北海道に渡った。
渡道当時の関谷は、日雇働きをしたり、鰊場稼ぎをしたりして各地を廻り歩き、あるときは農家でもらった南瓜ひとって、三日露命をつないだこともあるといっていた。
関谷は、文字の読み書きも出来ない無学文盲な男だが、極端に無駄の嫌いな合理主義者であった。たとえば、彼がかつて東京の鉄道馬車を始めたとき、馬車はレールの上を走るのであることと、馬の走る速度に制限のあることとで、高価な馬は無駄であるというところから、買い集めた馬はほとんど大部分が片眼と跛であった。
また或るとき、房州の海岸に行って、筒袖の着物を着た二三人の女たちを見るとずかずかと近より、一人の女の腕を両手につかんで泣いて感謝したそうだ。関谷の持論の、日本人の着物の袖は無駄である。袖が有ると働きが鈍るし、襷をかけるのはさらに無駄を重ねるものだ。
日本人がみな筒袖を着れば織物何百万反かが節約出来、労働の能率があがるという熱心な説明は、関谷の店に出入りするほどの大で聞かされぬ者は無かった。
その半面に関谷には磊落豪放なところがあって事業熱が盛んな男であったし、他人を疑わず宏量な理想家でもあった。
文字の読めぬ関谷の大福帖は面白いものであった。人の名前もいちいち漢字では書けぬので、「ドジョウ」とか「タンゴ」とかあるいは「「ナタカ」とか「ドモリ」とかみな関谷自身のつけた符牒のようなものであって、ときには丸や三角や鋸の絵などまで書いてさえあった。
そんな帳簿と首っぴきで、関谷はある日、貸金の返済が期限までに出来ないといいわけに来た男の、くどくどと泣き言をいっているのを聞いていたが、やがて、いかにも面倒くさそうに、「ええい、もう何もいわんでいい、みんな棒引にしてやる」といって、持っていた証書にべたべたと墨をぬっているのを、秋月はあきれて見ていたことがあった。
だが関谷は、五十をすぎてとにもかくにも札幌に落ちつきどっしりと腰を据えた。北海道の農業は、機械と馬を使って米国風な大農経営を、というのが官の当初からの建て前でもあったので、関谷の見込み通り馬具商は時宜に適していた。家も店もおいおいには手狭になるような繁盛ぶりである。
やがて二人の所へひき返して来た関谷は、しばらく黙ってストーブの火をのぞいていたが、
「実はな、秋月さん、あなた馬追原野の私の土地へ行って見なさる気はないですか」
といった。
馬追原野とは「マオイ」山という小山をめぐる夕張川付近の平地で、明治十九年の最初の土地撰定によって関谷が貸下げを受けたところなのだ。
「儂は、あそこを一つ大農経営で合理的にやって見たいと思うんですがね。鈴木という人も二三日前に内地から来て、どこか小作に入りたいというのじゃが、こういう人たちが今北海道には沢山やってきとる。
儂はこういう人たちを使って、少し大がかりな耕作法をやってみたいと思うのじゃが、貴方も、どうせそうして貸下地を待っておいでのうちに、少しは実地に開墾の経験をなさるのも後で為になると思うのだが──どうです? ひとつ私のかわりに向こうへ行って働いてみて下さらんか」
利用されるというような、いやな気持はこの人の言葉からは感じられなかった。だが、何かひどく無気力に見えるこの鈴木という男と同格に扱われたという不快さが、秀でた運平の額をちょっと翳らせた。