当別までの道をつくる
戊辰戦争の責任を問われて禄を失った仙台藩岩出山支藩伊達邦夷(史実では邦直)主従は、北海道開拓に再起の望みをかけます。
移民船に追従するはずの貨物が途中で失われるという事故も起こりますが、家老の阿賀妻謙(史実では吾妻謙)は、石狩の開拓使番屋の工事を主従が請け負うことで資金を確保しようとします。
しかし、これは土木工事を請け負う業者の領域を脅かすことであり、棟上げ式の日に一門の松岡長吉は恨みをいだいた大工やトビの連中に襲われました。二本差しを持つ身として反撃することもできましたが、長吉はじっとたえてされるがままになりました。
暴行が止んで助けられた長吉は家老の阿賀妻謙に「みっともなく負けました」と言いますが、阿賀妻は「刀を抜かずに済んだ。勝ったのはおぬしだ」と褒めました。
工事をやり遂げた邦夷主従は、いよいよ当別開拓に向かいます。しかし、相手は人跡未踏の大原生林。まずは拠点までの道をつくらなければなりません。さらには、そのために測量をしなければなりません。
そのための踏査のために阿賀妻は再び当別原野に向かいます。
(九)
きり開こうとする彼らの道を、立ってそこから指さすならば、あちら、——海に背を向けた東南の方角に穿たれる筈であった。まことに文字通り、穿つのであった。幾重にも突兀(とっこつ)した山々のため、指ざす彼方は模糊とした想像であり、語って聞かされた状景はなかなか実感となって浮ばなかった。
だが、こうと決定したからには、しゃにむにそこに辿りつかねばならぬのである。年処を経たオンコの珍しい巨大なのが一本、あたりの濶葉樹のなかにそびえ、緑というよりはむしろ、重くくろずんだまッ黒なときわ葉を密生させ、すッくと原野を睥していた。さきの踏査の日は、雨にうたれた彼らがその下に駈けこんだ。
そこだけぽこぽこと乾いた土を見たものだ。鳥肌立つまで濡れしょびれていた身体は、恵みの温気によみがえった。その土地の肥膏さに力づけられ、そういうときにあたって、降りつづく雨から庇ってくれたこのオンコ樹は、天の加護でもあろうかと思われた。
人間の往来するあちらでは数年来のさんざんな労苦があったが、枝をひろげたオンコ松のからかさは、その根もとに太古からの落葉や小枝を積みかさね、ふわりとする自然の褥(しとね)で迎えてくれた。
腰をおとして一服いつけたときに、既にもう、踏査に来た阿賀妻らの心には、この土地だけという決意が出来ていたのであろう。思えばようやく、彼ら家中の気持もこの心がまえに近よっていた。この方向に通路をきり開こうというのは、一つにかたまったあの日の——故郷を捨てた日の意志を新たにしたものでなければならない。
削った白い標木に、矢立ての墨をたっぷり含ませて、筆も折れよと書いたのである。
「旧仙台藩伊達邦夷貸付地」
月日は記さなかった。当時それはまだ官有地であった。しかし、それから幾ばくも経たないで、予定の通り彼らの手にはいった。今回そこまでこの路が通じたならば、まッ先に書きこむべきは日附けであろう。その日が彼らの新たな日のはじまりなのだから。
そんなに鮮やかに目に残っている目的の地ではあったが、どこをどう行けば無難であるかに就いては、これと云って自信が無かった。あの日はやたらに、草原と山峡を一図に歩いて行ったに過ぎない。そしてその責任は自分に無かった。扈従(こじゅう)して行きついてしまったのだ。
帰りはこれはまた、憂愁と疲労のつらなりであった。野山の鳥獣をとらえ、その肉を裂いて喰った何日かであった。見覚えのあるのは谷川の流れだけであった。山の姿は眺める位置によって随意に変ってしまう。人間の足で踏みつけた草の茎や葉は、見るまにぴんとはねかえる。夏の草はありッたけの精気で伸びしげっていたのだ。
それにも拘らず、一度往復した大野順平らが最も地理に通暁していなければならぬのであった。むろんそれに相違ない。
「戸田どの、ご助力を願いますぞ」
「なんの、なんの、心配無用——」
ひからびたような老人は何の苦もなくそう答えるのであった。この人もまた今のところ、あの少年のように活気に溢れていた。しかも、とにかく彼は、この路びらきに関する限りは先達でもあった。大野順平のかげにかくれるようにして歩いていたが、口だけはいよいよ健在になった。
もっとも、全く彼がそう云う口調で聞かせたくなる通り、前回の踏査と云えば、それは実に海の底をさぐるように漠然とした頼りない気持であったものだ。しかし今ではちがっている、——おぬし等はただ、大野どのやそれがしに充分信頼して、あたえられた命令を果せばよいのである。
雑木の混った熊笹のやぶを南にまっ直ぐにおりて、そこに流れる最初の谷川にぶっつかれば、即ちシラッカリの沢に辿りついたことである。これが第一の行程であった。
小屋係りはその渓流のほとりでとっつきの仕事をはじめねばならない。道路係りはその地点までを幅六尺に刈り分けねばならない。そして運搬係りのものと云えば、彼らは谷間に進められた屯所に向って、草屋根の草いきれもはげしい仮小屋に、器具や材料や、わけても糧食を肩にかついで運ぶのであった。炊事係りは手をひろげてそれを受け取りながら云った。
「そう、そう——腹が減ってはいくさが出来ぬ、ッてな」
配置された部署について——その部署の機能に最善の注意をはらう心構えは、おのずと、戦場にあると同じ緊張をかき立てる。又これこそ彼らの新たな戦場にほかならぬ——と、問わず語りに胸にひびく惻々たるものもあったのだ。
槍のかわりに草刈り鎌を揮い、ふりかぶるのは刀ではなくて鉞(まさかり)であったり、銃をかつぐ肩には駄荷をのせていても、心はこの一挙手一投足に清冽な熱情をこめていた。
生と死におのれの片足ずつを托して自若たらんとするこういう日のために、彼らは、幾代とない遠い昔からそう躾(しつ)けられ、そう鍛えられ、また自らも意識して鍛えて来た。
しかも千古斧鉞を知らぬこの山々は、敵に迎えても不足はなかったのだ。
「しかし、えらく、なかなか、繁ったものじゃ」
そう云って、戸田老人は熊笹のなかに姿を没した。曲った根に足をとられて転げたのだ。やりきれんとは決して云わなかった。弱音は吐かなかったが先頭をきることだけはあきらめた。
笹を刈り分けるべき彼の鎌は白い刃を向けてあぷあぷしていた。多年のあいだ風雪をくぐって生きた熊笹である。それが密生し、根と茎とを参差(しんし)させ、すき間もなく原野を蔽うてつづいていた。
地は熊笹に占有されて、人間はそれを刈り取って、彼の意志する一条の路をつくろうとするのである。地に足のうらをつけて歩くことだけは全くあぶなげのないことを知っていた。だから先ず、熊笹の層になったこの繁みをむしり取って、その底にある地をむきだそうとおし寄せて来た。
笹はさからうようにぴんぴん跳ねかえった。薙ぎはらいにかかる鎌の刃を斜め横にすべらした。強靱な野生の笹は、むざんな刃こぼれの損害でむくいてその鎌に抵抗した。到底それは、年若い高倉祐吉などの力に及ぶものではない。六十間を単位にして、それを歩幅ではかった大野順平は、刈りひろげる継ぎ目と何番目かのそれを指示しながら、老人と高倉に向ってはこう云った。
「下るにつれて熊笹どももひどく肥えふとって、これでは見通しも奪われるかと思われる、高いところに目印しが欲しい、一足先に沢に出られて、そちらで火を燃して、狼火がわりに煙をあげることにして下さらぬか」
日なたの傾斜面は直角に陽を受けるかと思われた。隊長大野が云った通り、熊笹のやぶは二人の背丈を埋めて、風はそよとも動かぬのであった。熱気がうず巻いている、——二人は、そのもうもうとした空気のなかを両腕でかき分けて進んだ。
「おーい」と、うしろから木魂して注意して来た。
「気をつけろー、猛獣に気をつけろー」
藪をふみ渡る段取りになると、戸田老人はさすがに年の功を積んでいた。彼は、はじきかえす根曲り竹の上を、そのばねの反動に送られるようにすべって行った。
あとを追う高倉祐吉は半分は無我夢中であった。暑さと歩き難にくさのためにぼーッとなり、手に触れるものは何でも手あたり次第に縋すがりついた。漕こぐようにして身体を押し進めた。それでもときどき先導者の姿を見うしないそうな不安に駆られた。
「上から見ると、直ぐそばのように思いましたが——遠いですね」
「何じゃ、と?」と、戸田老人は足をとめた。
その間に祐吉は追いついた。
「もうはや、弱音を吐きおるな」
「ちがいますよ、鳥が鳴いていますので——うぐいすが」と少年は云った。
草をおし分けるばさばさという音が消えたので、谷間の静かさがごッと襲ったのであった。そのとき祐吉は小鳥の鳴き声を聞いたと思った。老人は言下に否定した。
「ばかなこと——鶯(うぐいす)とは何を寝とぼけとるのじゃ」
「でも、ほら?」と祐吉は耳を傾けた。
「うん?」
「鶯でしょう?」
「——らしい」と老人は首をふって、「ばかものめが」と罵りながら歩きだした。彼の硬ばった感受性にも時ならぬ藪うぐいすの鳴きごえが刺激をあたえた。鵜呑みにして埋めて来た哀しみが抉りだされるのだ。
「蝦夷のうぐいすめは季節の去就にまよっておるのじゃ、たわけもの奴が、碌なことはあるまいさ」
いたどりの白ッぽい花が見えて、その草むらを踏み分けると、下にはシラッカリの谷川があった。青いあちらの樹林からせせらいで流れて来て、そして再び、青い樹林の彼方に匐(は)いこむのである。時季によって溢水するであろう河原が、ごろごろと岩をさらして白く乾いていた。
戸田老人は荷を岩に置いて流れの上にうつ伏せになった。唇をつきだし、口を持って行って、冷たい水を吸いあげた。咽喉を通る水音がごくごくと聞えた。
それほど静寂であった——樹々の梢では蝉が鳴いていたし、うす黒い木蔭のあたりでは秋の虫がすだいていた。
戸田老人は右から左——と、四肢の一つ一つにそれぞれ順々に力を入れて腕をつき立て、後脚をひき、どっこいしょと立ちあがった。彼は濡れた口を手甲で拭いてつぶやいた。
「流れる水ほど清潔なものはありません。渓谷の清水ほどうまいものがあろうか、——おぬし、咽喉はかわきなさらんか? どれ一服」
彼は岩に腰かけて煙管を咥え、青い煙を吐きながら高倉祐吉を見つめだすのである。子の縁に薄い我が身を、ふッと思い浮べた。それは戦場ではなく病魔に奪われた。遺ったこの親どもに慰めきれない空洞を拵えた。やがて老いて、そして跡目のことも考えねばならなかった。
だが、そのとき吹き荒れたあらしの激しさは、足許を崩し、土台を埋没してしまった。時代の移り変りは、古い人間をそれだけ深く動顛させた。養子縁組どころの騒ぎでなかった。個人の事情は消えてしまって、家中は一統に、生きるか死ぬかの進退を即刻定めねばならなかったのだ。
——どうやら生きて行けそうな気がした。戸田老人はぷッと煙管を吹いて吸い殻を岩のうえに転がし、二服目をつめこみながら訊ねた。
「高倉どのはお気の毒なことをしたなア——おぬしもこれからが大変だ。舎弟は幾つになられた?」
祐吉はただうなずいていたが、その言葉は彼の耳を外れてどこかに消えて行った。彼は川っぷちの平べったい石に見惚れていたのだ。日向に白く輝いて、上にはとぐろを巻いた青大将が温っていた。
「十四かな? 五かな?」
「はア?——」
こツんと戸田老人は煙管をたたいた。その音に初めて気づいたように蛇は、鱗に包まれた鎌首をもたげた。小さなまるい眼で高倉祐吉の顔をのぞきこみ、口をあけないで赤い舌をちろちろと動かしていた。
「しッ——」と彼は土を踏みつけた。
「なんじゃ?」と戸田老人が云った。生気のない灰がかった眼で祐吉の視線をたどって、
「何じゃ、くちなわか、——くちなわが何じゃ、くちなわどころか、これから奥には、ひ熊もいれば狼もおる、群れをなして徘徊しおる」
青大将はもたげた首を振り動かして、悠然とあたりの藪のにおいを嗅いだ。いたどりの根もとにすっと伸びて行った。とぐろを巻いた長い身体が徐ろにひっぱりこまれて、岩角を越える黄味をおびた白い腹は、ぶきみな粘液をなすりつけているような気がした。さくさくと草刈る音におどろいた。——祐吉は我にかえってほッと溜息を吐いた。
ちらりと彼の脳裡に映ったのは石狩役所で見たレミントン銃であった。戸田老人は捻り鉢巻きをして熊笹を刈りひろげていた。
「枯れた枝葉を拾うて来なさい」と彼は命じた。
明るい日の下で燃える火は、ちょろちょろと——焔があるかないか見定めることも出来なかった。戸田老人はその上に熊笹を積みあげた。これら痩せ地にはびこる多年生の植物は強いあくどい油をその体内に貯えている、火が移りさえすれば際限なく燃えあがる——と、彼は自信をもってそう云った。
「よいか、よろしいか。——この方向を」と彼は彼らの歩いて来ただらだらな傾斜を下から見あげるのだ。
「刈って、刈り取って、どんどん積みかさねなさい。煙を絶えさせぬように濛々といぶすんじゃ、間もなく大野どの等も、小屋係りの衆ともどもここに見えられるじゃろう——身どもはその間、ちょいと川上の方を瀬ぶみしてまいる」
樹林はその渓谷を踏みしたがえてそびえ、見あげると、暗うつな色をたたえた木の葉は頭上になだれ落ちそうに繁茂している。群生した樹々は唯々、ひらけた空に向って、光を求めて争って伸びて行ったのだ。トド松は苔に喰い附かれ、蔦にからまれて立っていた。枝には紗をかぶったように苔が垂れ下り、サルオガセが灰色のかたまりとなってし噛みついていた。
それでも頑強なときわ葉で光線をさえぎり、それらトド松の間に散在する濶葉樹に対してたけだけしい勢いで対峙し、圧迫していた。較べると、アカダモのうすい葉は黄ばんではかなげな色に見え、ドロ柳の葉は心許ない白っぽさでめまぐるしいほど揺らめいていた。季節は彼らのところにいち早く訪れるのだ。
蔦の葉には赤らみが殖え、白樺の葉はぺらぺらとしてもはや褐色に変りつつある。
「よろしいか」と戸田老人は云った。
いや——と、そうは云えないのである。
「砥石はそこにある」
老人は流れの淀みを指さした。鎌の刃がこぼれたらそれで磨けと教えていた。
「はい」
「くどいようだが、火を燃しとるのじゃぞ、山鳥など射って来てご馳走しようから——」
彼は、岩に立てかけた自分の背負いごから頑固な火繩銃を取りだした。そして、木の下闇に吸われて行った。