北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[旭川市・永山町] 永山 武四郎 (上)

 

永山武四郎

永山武四郎(出典①)

 

好評の屯田兵シリーズ、第3弾です。そもそも屯田兵とはどのような組織でしょうか。その組織・団体を知りたければまずは創業者を知るべし──。屯田兵の創業者は言わずと知れた永山武四郎。旭川には永山町というまちがあります。永山武四郎からとった名前ですが、今回はその『永山町史』から「永山武四郎小伝」を3回に分けてご紹介します。
 
札幌のまちは島義勇が円山に登って「五州第一の都」を創ることを誓ったことから始まりましたが、北海道第二の大都・旭川は永山武四郎が近文山に登って「北都を設定すべし」と言ったことから始まりました。永山武四郎は旭川の草分けの人でもありました。
 

■会津戦争で初陣

永山伸社祭神の一柱として、また北海道屯田の生みの親、育ての親として、分けてもわが永山町の開祖として、至誠高潔、赫々たる功労者として、深く町民の尊敬して止まない永山武四郎将軍。
 
将軍は薩摩の人で天保8(1837)年4月14日、鹿児島市薬師馬場町85番地で、父清左衛門の子、5人兄弟のうち4番目として生まれる、幼にして武芸を藩の指南番大山某に学び、槍術は梅田九衛門についてその奥義をきわめる。明治初年、会津の戦いに出陣する。
 
将軍は文武両道をかね備えた傑人で、その一度戦陣に臨むとよく敵をはかって勝ちを制すること神如しであった。その会津に出師したのは31歳の初陣であったが、すでにすばらしい才能を発揮して、偉功を奏した。先に大兵を差し向けて破ることのできなかった天険石莚の堅塁を一気に破り、16橋を越えて先鋒に攻め入ったのが実に将軍であった。
 
これより将軍はようやく軍部に重きをなして、明治4(1871)年軍大尉となり、召されて近衛の御親兵(近衛師団の前身)の第3大隊1番小隊長を仰せ付けられる。当時ともに小隊長を拝した者に後の陸軍大将西寛二郎や西南の役に戦死した別府晋介らの俊才がいる。
 

※西 寛二郎は、日本の陸軍軍人。教育総監、遼東守備軍司令官、軍事参議官等を歴任する。官位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。
※別府晋介は、陸軍軍人。少佐。薩摩藩士。西郷隆盛とともに下野。私学校創設に尽力。西南戦争で転戦、鹿児島の城山で西郷の自刃を介錯し戦死。
 

■新天地を北海道に求める

しかし、たまたま政府で軍兵制を英国式によろうとする者とフランス式をとろうとする者との二派に分れて議論沸騰し、互いに譲らなかった。ことに鹿児島はすでに英国式で訓練を受けていたので、将軍は熱心な英国式主張論者であったが、フランス式主張者が多数を占め、激論のすえ、互いにその可否を事実に示すために英仏両式の対抗演習を試みようということになり、英国派ついに破れて将軍の主張また用いられなかった。
 
主張に破れた将軍はそのまま黙々として職にとどまるを潔よしとせぬ。政府もまた将軍の意を察して将軍に判士長(後の軍法会議長)の栄職をふりあてたが、あくまでも信念に一貫、実行の士であった将軍は断乎これを受けなかった。
 
これよりさき将軍は世界の大勢、ことに口シアの南侵を察して北方守備の急務を説いていたのであるが、ここにおいて意を決して本道の開発に自らあたり、活動の地を新天地に求めようとした。
 
政府もつとに本道守備の完成を期して篠原国幹※を派遣しようとの意見もあったときであったので、ただちに将軍を開拓使八等出仕として北海道に派遣させたのであった。時に明治5(1872)年9月。
 

※篠原国幹は、陸軍少将。薩摩藩士。戊辰戦争では各地を転戦。1873 年(明治6)西郷隆盛と下野。西南戦争で戦死。

 
この時英国式を主張して破れ、征韓論を用いられなかった鹿児島藩出身の名士は、一派は故郷に帰り、一派は海軍に去り、さらに一派は北海道にその新天地を求めたのであった。
 

征韓論の図

『征韓論の図』征韓論を巡って西郷隆盛を初めとする参議の半数が辞職。官僚600人が政府を去った(出典②)


 

■屯田兵創設を建議する

思うに実行の人は時に独断断行。ために過失を招くことがある。西郷隆盛はよく将軍を知るの人、将軍のまさに出発しようとするとき、家村住義、また将軍の補佐役として同行することになる。隆盛は住義を招いて云う。
 
「君が北海道まで行って永山を補佐するというなら、功はこれを人に譲れ、過失は己れこれを受けて自分の責任とせよ」
 
と。西郷は一世の人傑、なお将軍を重んじ、その過失なからしめようとするかくの如しである。将軍在道30余年、為すところ一つの過失のなかったのも決して偶然ではない。
 
将軍は明治6(1873)年11月、幹部と諜って開拓使次官黒田清隆に兵務を兼管せしめることと、開拓使貴族中から兵卒を募集すべきことを岩倉内務大臣に建議する。
 
明治8(1875)年3月、准陸軍少佐となり、この年12月、黒田清隆が特命全権弁理大使となって朝鮮に派遣せられたのに随行して翌9年4月帰朝。
 

■屯田兵を率いて西南戦役を戦う

明治10(1877)年2月、将軍にとって生涯を通じての苦境に追いこまれる。
郷里の大先輩であり、心に最も深く畏敬する西郷隆盛を中心とする西南の役が勃発し、しかも人もあろうに将軍にその討伐の大命が降下したのである。将軍の胸中察するに余りめるものがある。
 
しかし将軍はついに私情のために大義を誤ることはなかった。明治10(1877)年4月9日、大隊長としてまだ創業期の琴似・山鼻の屯田兵を率い、熊本県下に出兵。別動第2旅団に編入、日向の人吉より進むに向うところ必ず破る。
 
敵はたまたま岩瀬の険により、壁を深く、塁を高くし、前面竹の堅柵を設け、死力をつくしで固守しているとのうわさするものあり、将軍は左右の止めるのも顧りみず、単騎敵陣深く接近、敵弾をおかしてその軍伽を偵察し、戦略胸中に定まって帰営後、ただちに軍容を整えて驀進、堅塁を抜く。その豪胆勇武、軍中驚嘆せぬものはなかった。
 
「百姓部隊」として軽視されていた屯田兵をしてその勇名をはせしめたのも、この戦勝のおかげである。
 
その将軍の従車中、兵員を率いて小樽出港より、幾多の激戦場にかけめぐり、やがて札幌に凱旋するまで、日夕したしんでいた酒杯をしりぞけ、一滴も口にしなかった。
 
「この身はこれ一個の永山の身体でなく、国家にささげたる身体である。酒のために病魔に襲われるようなことがあっては何の面目あって軍職に尽さんや」
 
というのであった。戦役中は一日としてわらじを脱いだことなく、小心よくよくとしてあやまちのないようにつとめたという。
 

 

この時、永山武四郎は掘基を司令官とする屯田兵派遣部隊の第1大隊の大隊長で陸軍准将佐だった。永山の指揮する屯田兵は明治10年4月23日熊本県百貫石港に上陸。「別動第二旅団」に編入され、八代から人吉の西郷軍を伐てとの命を受けて、6月4日、人吉の西郷軍を降伏させ占領。ここを拠点に球磨盆地を掃蕩した。(参考:北海道屯田倶楽部>西南戦争https://tonden.org/wiki/i 出典③)

 

■近文山で旭川開拓を誓う

明治10(1877)年12月、准軍中佐となり、翌11年10月、屯田事務局長となる。明治12(1879)年5月、ロシアのコルサコフに出張。コサック兵屋の構造や防寒装置を研究して帰る。
 

近文山国見の碑(出典④)

明治14(1881)年6月、准軍大佐となり開拓使権大書記官をかねる。明治18(1885)年5月、陸軍少将屯田兵本部長となる。
 
この年8月、司法大輔岩村通俊一行とともにアイヌのあやつる丸木舟で石狩川をさかのぼり、神居古潭の険を越えて露宿。7日、近文山に登って国見。始めて上川大平原を眺めて、これが開拓と兵団を置く決意をかためる。
 
翌明治19(1886)年3月、荒城少佐、栃内大尉を随行、米・露・清3国に出張。これらの移民兵制やコサック兵の駐屯状況及び満州の寒地農業の実際を視察する。翌21年2月帰朝。
 
この紀行は21年発行『周遊日記』上下2冊に収められている。当時の世界の大勢を知る重要な文献であるとともに、文章また華麗。惜しいことにはすでに希少の書。容易に手にすることがむずかしいことである。
 
帰ってからはその長所を取入れて屯田兵制の大改革を行ない、屯田兵の増加をはかり、明治26(1893)年までに25個中隊の案を定め、屯田兵本部を司令部として将軍は司令官となる。
 
この段で興味深いのは、西郷隆盛が野に降った「明治六年の政変」で、政府を去った薩摩藩士たちは地元に戻る者と海軍に行く者、そして北海道に渡る者に分かれたというところです。すなわち、明治10(1877)年に西南の役で挙兵した者たちと北海道で開拓の指導者となった者たちとは志を同じくする者たちだったのです。
 
小史でも書かれていますが、かつての仲間を伐つことになった永山武四郎の胸中はいかばかりだったでしょうか? この時の強い無念が武四郎をより一層北海道開拓に駆り立てたものと考えられます。(続く)
 

 

 


【引用出典】
『永山町史』1962・旭川市・338〜341p
【図版出典】
①北海道立文書館
②国立国会図書館デジタルコレクション>征韓論之図 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307937?tocOpened=1
③延岡市観光協会公式サイト「延岡と西郷隆盛」の図
https://nobekan.jp/lastsaigo/
に管理人が「北海道屯田倶楽部」の「屯田大百科事典」https://tonden.org/wiki/
西南戦争を参考に永山武四郎関係地名を追加
④旭川市公式サイト>学ぶ・文化・スポーツ> 文化・芸術・歴史・施設> 旭川市の文化財など> 史跡等表示板 国見の碑 https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/329/348/353/p000196.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。