北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[旭川市・永山町] 永山 武四郎 (中)

 

永山武四郎

永山武四郎(出典①)

 

翌明治19(1886)年3月から2年近くをかけて、アメリカ、ロシア、中国と大視察旅行を行った永山武四郎は帰朝すると屯田兵の司令官に命じられました。そして視察の成果を活かして、屯田兵制度の大改革を実施します。
これまで北海道史ではケプロンやクラーク、エドウィン・ダンなど開拓史が招いたお雇外国人技師の影響はたびたび語られますが、永山武四郎が2年に渡り世界を視察し、その成果を北海道開拓にもたらしたことの影響はもっと語られてよいでしょう。屯田兵制度の改革を成し遂げた永山武四郎は、屯田兵本部長のまま第二代北海道長官となります。『永山町史』掲載の「永山武四郎小史」その2回目です。

 

■平民屯田を導入する

明治20年、ロシア外遊中の永山武四郎(出典②)

今まで士族のうちから募集していたのを、これより族籍を問わず、一般志願者中より採用することとする。それで明治23年と4年との間で、はっきりと士族屯田と平民屯田と分れるようになる。 これはすでに士族授産の問題が下火になったことと、奥地の開拓には農業経験者の方がとくに有望と見られたからである。
 
この平民屯田の最初が明治24年入地の永山屯田であり、美唄の騎兵、光珠内の砲兵、茶志内の工兵屯田であって、25年には東旭川に、26年には当麻に兵村がおかれ、しかもその給与地は土地こえ、兵またつとめて、中でも永山はなかばは平地草原で、開墾率は全道兵村の第一、用水路を造って水田を計画することも率先した。[1]
 
さてこの村名永山は開拓に縁故深い永山武四郎将軍の姓によるものであるが、将軍自らの命名ではなく、実に全国にもその例をきかない明治天皇のご命名であることは特記ねばならぬ。
 
明治21(1888)年九月、将軍は明治天皇に拝謁、本道屯田兵村の本道警備開拓状況と将来における計画を言上、上川地方の広大にして重要なる地域であり、大兵団をここに設けたい計画を述べ、この地まだ村名もなく、目下考慮中の旨をつけ加えたところ、天皇はしばらく考えられていたが、「お前が力を尽くす村だから、お前の姓を取ってナガヤマ村と名づけるがよい」との仰せられた。
 
将軍はいたく恐縮したが、綸言、辞退によしなく、それよりこの地方をばく然と永山と称えていたが、明治23(1890)年、いよいよ三村に分けられるに及び、その中心地を永山村とし、神居古潭より仲居村、忠別を意訳して旭川村として、ここに上川最初の三村が誕生したのである。[2]
 
こうして岩村通俊によって基礎づけられた上川平原の開発が同じ大志を抱く将軍の屯田設置と相まって急激な発展をとげ、わずか土人の草小屋が石狩川沿岸に点在していただけの上川の地が8年後の31年には人口3万人に遂する。
 
 

永山神社(明治45年 出典③)


 

■何千名の家族の運命を担った

わが国の屯田兵設置は大成功裡にその任を終えたのであるが、これが経営は実に容易ならぬものがあった。わが国でかかる多数の兵員を移したことは始めてであり、兵員を移して訓練することは比較的容易であっても、自営自活をたてまえとする屯田兵制であるから、1人前の兵士であるとともに、1人前の百姓でなくてはならない。しかも集団として育ててゆかねばならぬ。
 
一家の経済を確立させるとともに、また村の生活をもはからねばならぬ。屯田兵を士族から取ることを原則としたころは、かって人一倍自負心に強い人々で、しかもかっては同僚であり、時としては維新の戦に敵とした士官にはややもすれば反抗しようとする。
 
しかしそれはまだ軍律で押し通せるとしても、いちばん困ったのは経済の面であった。1から10まで手を取るようにしてかまの使い方からのこぎりの目立まで教えねばならず、指導者自身も自信のないことばかりである。とにかく大小を腰にしたり、袴をつけてでなければ畑にも出られない連中相手である。将軍はこの辛苦のまっただ中に何千名の家族の運命を担っていたのである。
 

■先陣にたっていばらの道を踏み分ける

よいと思うことは何でも試みた。そして何度でも改めた。北海道には野桑が多い。屯田兵の家族に長い冬季の副業をというので、養蚕を奨励し、各兵村に大養蚕室がもうけられて共同飼育が考えられた。教師が派遣され、当局も熱心に指導したが、これ不成績でついに失敗に終わる。
 
このときなども氏はその不振原囚をただすと、養蚕教師は飼育者の怠りとし、飼育者は教師の罪という。そこで将軍は自らその原因をたしかめようとして部下とともに自ら試み、30余日、夜の目も寝ずに経験して、どうしてこれが適しないかを見極わめねばやまなかったという。
 
今日本中いたるところに栽培され、野生している西洋ワサビも、そのアメリカ帰りのおみやげで、粕づけの奨励に広く植えつけさせたものであるという。
 
その他、入植地の選定、村落の構成、土地の配分、家屋の形式、営農の法式など、あらゆる拓地殖民の問題は屯田兵によってまず試験され、その経験が付近の農家の模範となったといってもよい。しかも将軍が常に陣頭に立って、いばらの道を分けたのであった。
 

永山武四郎の手による「屯田兵本部経費管轄ノ義ニ付内陳」(出典④)

 

■屯田兵本部長と道庁庁官を兼務する

明治21年6月岩村通俊の退官のあとをおそって将軍が屯田兵本部長の本職のまま道庁長官の兼任となり、ここに兵政と民治を一手に収めるや、ここにいよいよ開拓と軍備との完成を図る。
 
その就任の挨拶がふるっている。すなわち「本道の開拓は内部よりせねばならぬ。ことに上川の開拓をもって急務とする。海岸地方の如きは、従来の方針に従い、問接に指導誘掖(ゆうえき)すればよい。この方針に反対するものは、よろしく去るべきである」と。その決意のほどを察することができる。
 
将軍は面積広大、人口稀薄の本道開発には中央の貴顕富豪の力をまって農場組織によることの勝れているのを察して、長官として次の勧告文を送っている。その本道開発に至るところ農場の開かれているのを見れば、屯田兵制度とともに開発促進に対するその功績の多かったことを知ることができる。[2]
 

屯川兵本部長兼北海道庁長官永山武四郎、公爵 君ニ禀ス
 
北海道ノ地タル所謂沃野千里、季候亦人間衛生上ノ最良地タリ。下官北海道ニ在ル実ニ十余年、拓地殖民ノ業ノ起サザルベカラザルヲ知ル已ニ旧シ。
 
又咋年欧米各国ニ遊ビ、至ル処拓地植民ノコトヲ諮問目撃セリ。今其一二ヲ挙ゲテ我北海道ノ為ニ例セント欲ス。
 
米国今日ノ人口繁殖シテ物産ノ興隆ヲ為スモノハ、欧州各国ノ人民大西洋ノ険ヲ渡り、毎年三十四、五万乃至四十万人以上ノ移住民アリテ、其移り来ルモノハ自己ノ資産アル者ニ非ザレバ、豪族巨室ノ誘掖スル者ニシテ、移着スルノ後、皆農エノ業ヲ開キ、物産ヲ興セリ。是米国ノ富強ヲ為ス所以ナリ。
 
又露国酉比利亜ノ殖民ヲ見レバ、人民生活ノ度甚ダ低キノミナナラズ、気候極寒ニ、地味痩羸ナレドモ、千辛万苦シテ民ヲ移殖シ、荒蕪ヲ開テ農業牧畜ノ業ヲ起シ、終ニ東洋ノ沿海ニ港ロヲ開キ、露国開進ノ疾歩、人ヲ驚スニ至レリ。国威ノ伸張、物産ノ興隆、拓地殖民ノカニ依ラザルベカラズハ東西轍ヲ同クセリ。
 
我北海道ノ如キハ地味ノ膏腴ナル、気候ノ湿和ナル、西比利亜卜日ヲ同シテ論スベカラズ。是ニ移ル者モ亦大酉洋ノ険ヲ冒シテ米国ニ度ルノ比ニ非ズ。
 
官亦多年之ヲ奨励セザルニアラズト雖、国帑限アリ。千里ノ沃野一期ニ成功ヲ望ムベカラズ。一年ヲ遅緩スレバー年ノ物産興ラズ、十年ヲ延滞スレバ十年ノ国益ヲ損ズ。国威ノ伸張、物産興隆、何ノ日ヲ以起ラン。豈ニ痛感ノ到ナラズヤ。
 
熟々考レバ、公ノ如キ名望貴ク資産余アルノ貴族ニ於テ、旧臣士族ノ旧里ニ彷徨スル輩ヲ誘掖シテ、適意ノ地ヲ選ビ、移住開拓セシムルノ奨励アラバ、初ニ資金ヲ要スベシト雛、後巨多ノ所有地、若クハ貸地税ヲ徴スルヲ得テ、所得財産卜為スベキノ方法ナキニ非ズ。
 
然レバ之ヲ公ニシテ国家ノ為ニ荒蕪ヲ開キ、遊民ヲ駆テ良民タラシメ、之ヲ私ニシテハ名誉卜資産ヲ永久ニ保ツヲ得ベシ。
 
此挙ニシテ下手セラルルアラバ、官亦之ヲ奨励検束スルノ道ヲ設ケ、其志願スル所ニ随フベシ。或ハ屯田兵ニ編成シテ北境ノ干城タラシメ、或ハ製造所ヲ設ケテ農芸ノ事業ヲ助クベシ。実ニ一挙両得、官民協和ノ良法卜調フベシ。
 
其之ヲ実施スル順序方法ノ如キハ、別ニ詳悉スベシ。請フ下官徴意ノアル所、諒察奮励セラレンコトヲ熟望ニ堪ヘズ。願クバ何分ノ費報アランコトヲ。
 
明治ニ十一年十ニ月 [2]

 
最後の引用文は改行を増やして読みやすくしたほかは『永山町史』に掲げられたものそのままです。『永山町史』には出典が書かれていないので、原文を探し出せていませんが、全体に北海道への深い愛にあふれています。少々長く明治の文語で堅く感じられますが、ぜひじっくりと味わってください。永山武四郎の人となりが時を超えて伝わってきます。
 
特に「公ノ如キ名望貴ク資産余アルノ貴族ニ於テ、旧臣士族ノ旧里ニ彷徨スル輩ヲ誘掖シテ、適意ノ地ヲ選ビ、移住開拓セシム」という言葉には、維新によって禄を失った者たち、西南の役で朝敵になってしまった郷里の侍たちへの思いが込められているように思います。「自今以往ハ貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン」と言った初代長官岩村通俊と対比してみるとよいでしょう。
 
永山武四郎といえば多数の犠牲者を出した中央道路の開削を命じた張本人として、北海道の歴史研究者の評価はとても低いですが、近年やたらと評価されている松浦武四郎よりも、はるかにこの北海道を創りあげるのに功績のあった人物です。本来であればこの北海道で武四郎と言えば、旅行作家である松浦よりも、永山が思い浮かばれなければなりません。
 

 

 


【引用出典】
[1]『永山町史』1962・旭川市・338〜341p
[2]『永山町史』1962・旭川市・192p
[1]『永山町史』1962・旭川市・341〜344p
 【図版出典】
①北海道立文書館
②札幌公文書館 http://archives.city.sapporo.jp/Culture/
③旭川市立図書館 
④札幌中央図書館 デジタルライブラリー

http://gazo.library.city.sapporo.jp/shiryouInfo/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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