[旭川市・永山町] 永山 武四郎 (下)
永山武四郎(出典①)
屯田兵の産みの親、「永山武四郎小伝」の最終回です。北海道開拓の歴史が語られなくなったので、知る人も少なくなったでしょうが、永山武四郎は明治天皇の離宮を旭川につくろうとしたのです。内閣に取り上げられ、いったんは今で言う閣議決定までいたりました。結局は実現しませんでしたが、この過程で旭川のまちが大いに発達しました。そうしたことから永山は旭川の開祖とされています。
またこの「永山武四郎小伝」は町史の編者が武四郎の親族から直接聞いた臨終の模様を詳しく伝えています。まさに巨星落つというべき最後でした。
■旭川に北京を設定すべし
明治21(1888)年七月来道の桂陸軍中将を案内して再び上川に入り、近文山から今度はさらに半面山に至り、その岩村についで上川の州発、北都の建設意見を述べ、屯田兵大部隊の設置案について最後の決断を促す。
この年の九月、将軍は三度目の上川入り。近文山登山。大いに期するところがあったらしく、11月14日付で、時の内閣に北都の建設と離宮地の決定を求める大文章を提出している。けだし人心のなお奥地への関心がうすく、これが開拓のおくれるのを憂えて、これを促進しようとする政治的含みであった。その一節に、
今この一大障害を除却し、人民を誘導して、以て富源を開通し、国力を発達せんと欲せば、北京を北海道に設定し、天下の人心を北海道へ帰属せしむるに若くはなし。
其の設定すべきの地を選ばんとするならば、石狩国上川郡を最も可なりとす。(中略)しかるに一両年を期し、兵を置き、地を開き、また漸を追うて室蘭鉄道を延長し、神居古潭の険を越え、上川平原に入る。
これを北見網走に及ぼし(中略)都下炎熱の候、竜篤この地に巡視せられ、至尊玉体の御健康をまもらせたまひ、また親しく拓地植民の事業、経営のてん末状況を叡覧あらせらるる時は、人民の感情さらに深きを加へ、粉骨砕心、もっと至仁の恩旨に答え奉るべきのみならず、天下民心の帰趨するところ、大いに定まり(中略)それ上川の地たる、前すでに述べたる如く、四通八達、いわゆる天府の地にして全道を控御するに足る云々──
今上川神社前に歌碑となっている「上川の清き流れに身をそそぎ、神楽の岡にみゆき仰がん」の歌も、この9月27日、旭川入りの時の作である。
■上川離宮の場所は神楽岡に
この全くの未開地上川に離宮地設定という前代未聞の謂願が、時の政府の認めるところとなって、翌明治22(1889)年12月28日、内閣より次の示達を受ける。
北海道石狩国ちkちk上川郡の内に於いて、他日一都府を建て、離宮を設けらるるにつき、夫々計画施設すべし。
明治23(1890)年、神楽岡をその予定地として選定。付近一帯の美林1万500余ヘクタールを世伝御料林と定める。このことがひとたび伝わると、案の条、民心ようやく安定し、開拓の業大いに進む。
■上川離宮に札幌反対
さて離宮地は御苑を合せて33万平方メートル。その他は農地・森林地とし、神楽岡を中心として離宮の設置計画が進められたが、その後種々の反対意見もあり、明治26(1893)年には北垣長官のもとで、札幌より反対意見が提出され、長官もまた上川に離宮を設するに反対した。
上川は全道の中心であり、一大農園を起こす見こみあるというに過ぎない。目下の情勢ではただ広漠の原野たるのみで、2、3の屯田兵村を除くのほかは、牧農の見るべきものなく、交通は不便で、原野のほかに鉱物・良材等を出すの見こみなく、河川は5ヵ月間凍結して通ぜず、鉄道が開通しても冬は雪のため通ぜず。こういう条件下の上川に離宮の設置は不適当で、その上、上川に離宮を設置するときは、これまで苦辛経営の札幌はたちまち衰退し、ことに明治25(1892)年の大火以来、委靡振わざるにあたり、札幌はたちまち惨状救いがたきに至るであろう
と述べ、むしろ札幌の近郊月寒・平岸・真駒内方面に設置せらるべきであるという意見書を草したもので、この問題は結局、うやむやのうちに実現されず、久しく沙汰やみとなり、大正10(1921)年8月、ついに世伝御料林を解除して普通御料地に編入、村と個人に払い下げられたもので、かねて上川神社で借りでいた地域は13年10月、神域に編入せられる。
■御料林の制度を設ける
将軍は勇猛果敢な軍人であったが、単なる武人ではなく、政治家としても大きい治績を残す。北海道の御料林といえば、全道9カ国にわたって62万1000ヘクタール余、農地3万440ヘクタール余の盛況を来し、年々の収入昭和12(1937)年700万円、12年800万円、そのため皇室の御料を豊かにし、至るところ美林が開拓に伴う濫伐からまぬがれ、本道の重要な林産資源となっている。
はじめ将軍は皇室のご財産の心淋しいのを慨嘆して、本道に豊富な土地山林を御料財産に編入することを思い、その旨を宮内庁に、林木適地を御料林とすることを建議して納れられたのたのである。
■札幌に露清語学校を建てる
将軍ははまた常に日露の早晩衝突すべきを知り、ロシアを視察してその国情に通じ、対露政策に関し貢献するところも多かったが、日消戦争後、遼東の還付せられるや、将軍の卓見ますます鋭く、その門に出入する中野源次郎に諭して、名を対露貿易の研究に託し、露語研究所を札幌に設ける。全国における露語研究の最初である。
ついで将軍の卓論は参謀本部を動かして北海道に露語学院を與すの議となり、中野を校長とし、露国より女教師2名を招き、さらに清国より教師1名を招いて札幌露清語学校の基礎を作る。当時の在校生徒200名余、第7師団の将校下士卒が盛んにこれを研究する。
同佼は故あって明治32(1899)年に閉校したが、軍人は依然として独習していた結果、口露の役に自他の師団で多くの露語通訳を要したが、独り第七師団のみは、現役予備役軍人で露語を解するもの多く、通訳を募集する必要がなかった。将軍の優れた先見達識といわねばならぬ。
■健全なる精神は健全な身体に宿る
明治28(1895)年12月、軍功によって男爵を授けられ、翌29年5月、新設の第七師団長となり、10月には中将に任ぜられる。
明治33(1900)年4月、休職、63歳。36年11月、貴族院第1条第4項によって貴族院議員に任ぜられる。将軍は常に言う。
健全なる精神は健全な身体に宿る。国民たるものは、常にこの言を奉じて自重自愛以て国家有事の日に備えておかなければならぬ。まして軍人は、国家にささげたこの身、健康を損じては国家の干城たるお役にたたぬのみならず、ついには不忠不義の汚名を千歳に残すようになる
永山武四郎像(永山神社)
と、将軍自らすこぶる衛生を重んじ、暴飲暴食を戒めた。従って平素極めて健康であった。
明治37(1904)年3月、議会出席のため、長女勝子の嫁ぎ先の野村弥三郎(東京鉄道局長)のもとに滞在する。この時すでに上京前から胃がんで、食物をのみ下すに困難を感じて、ようやく肉汁・牛乳・鶏卵の類をわずかに用いていたのを、開院式にあの窮屈な大礼服に威儀を正し、人力車で登院、無事大任を果たして帰るや、もう立つことはできなかった。
食べ物もついには乳も卵も困難となり、一杯の汁物を飲み下すに2時間余も費すようになる。しかし、精神力はますます明快で、少しも平生と異ならぬ。かえって注意の周到なことは平素に倍するかと思われる。
■私利私欲を求めず
将軍の経歴と才腕、それに鹿児島藩出身という背景をもってすれば、どんな地位でも財産でも得られたはずであるが、将軍の潔癖なばかりのその清潔さは、国のため人のためには心を傾けて骨を折るが、自分のためには地位を利用したり、利欲を求めたりすることは全くなく、それで晩年は清貧そのもの、病床に親しむようになっては、月々の店屋払いも滞りがちになるのを「子供らに借金を残すのは相すまん」と誤るようによく言っていた。
病床中、知友の誰それが将来のこと家族のことを考えで、北海道に土地払下げの運動をしてくれていることをつとに聞いて「自分の地位を利用してお国のものを私することになるではないか」と非常に怒られた。
病中親交ある海軍軍医総監の高木兼寛が脈をとっていたが「永山の病気は薬よりも、毎日の新聞号外を見せてやる方がよい」と言っていた。胃がんで治る見込みがない上に、将軍が日露の時局を憂え、皇軍の連戦連勝を報ずる号外に元気づいていたからであろう。
永山神社
■乃木はこれから戦場に行くから
病中、議会開閉式には、無理に大礼服で二人引きの人力車で馳せ参じたが、これが障っていよいよ寝た切りになってしまう。病父が重くなると、大山元帥や山県元帥などの大官がよく見舞に来られたが、ある時、乃木将軍が馬上から取り次ぎに出た三男の武美に「父君のお見舞に来たが、ご病気はどうか。乃木はこれから戦場に行くから」と言ってとうとう馬から降りないで行ってしまう。武美は今もその勇姿が眼前にちらつくという。
このころ重体の将軍の病床に、3月27日、広瀬中佐の旅順港要塞戦死の報がもたらせられる。将軍のもとには東京病院から付添看駿婦として太田、樋口の両一等看護婦がいたが、将軍は2人に「床から畳の上におろしてくれ」という。止めてもきかぬ。止むを得ず、そっと体を抱えて言う通りに下ろすと、畳の上で端坐合掌して
「武夫どん、よくやってくれやった。お礼を申す。おかも近くわいのところへ行くからあらためて礼をいうぞ」と至誠おもてにあらわれて暝目する。
■ついに長逝する 歳六十七
将軍は病中よく「わしは屯田の兵たちに、お前たちは北海道の土になれ、わしも共に北海道の土になるぞ」とはげましてきたのに「今、東京で死ぬわけにはゆかぬ、俺は札幌に行って死ぬのだ」という。
ある日、高木兼寛軍医に「札幌まで持つかどうか」とただす。高木は脈をとってから「よろしい。明日出発するがよい」とのお許し、将軍は非常に喜んで久しぶりで風呂に入る。
ところが風呂がいけなかった。翌朝からは全く重態になる。将軍はがっかりして「俺の遺骸は札幌の豊平墓地に北に向けて葬れ。北海道の土となってロシヤからまもるであろう」と。
ついに重態となり、一滴の飲み物ものどを下らず、滋養胃ろうによってわずかに生命を保持する。
その重態に陥るや上聞に達して、15日、従二位に昇叙せられる。けれども平素の将軍の気性より見て、今この恩命を伝えては、感激の極、万一のことがあってはと数日秘して、その苦痛やや減じた時をうかがって伝える。
将軍は強いて身を起し、衣裳をととのえ、正座低頭。ことにうやうやしく、昇叙の辞令を戴くこと式のごとく謹んで拝読しえて、さて家族を身辺に招いて、無量の天恩を説き、「兄の盛輝の如きは落命の後に大命を拝したのに、自分は今生前においてこの恩命を抔する。千歳忘れてはならぬ。子々孫々互いに相誡めて誠忠を怠らず、天恩の万一に報い奉るべきである」と説き、おもむろに横たわり、目を閉じて昏睡状態に入る。
これより体力、日に日に衰えて、5月27日午後10時27分、愛孫恒子(勝子長女)を抱いたまま、ついに長逝する。歳67。
■汽車で遺骸を札幌に送る
今は万事休す。遺言により汽車で遺骸を札幌に送る。長男武敏は枕辺に、そして武美は足の方に奉仕して出発。大山、山県、野津、山本らの将軍が上野駅頭に見送る。
6月2日、札幌で葬政。各戸弔旗を掲げてこれを悲しむ。午前10時、旭川からも奥田町長や本田前町長が町を代表して参列。勅使として園田道庁長官ご下賜品を伝える。葬儀は神式により、儀仗兵1大隊、会葬者数干人。永山邸前より豊平橋畔に至る10数町の間は人垣を作る。
北海道歴代長官のうち、お墓の本道にあるものは将軍ただ1人である。
この臨終の詳細な記述は『永山町史』192pに「編者が36年1月、将軍三男で舷材慈恵医大名誉教授である永山武美についてただした」と書かれていますから親族から聞いた実話であり、貴重な記録です。(中)で紹介した明治天皇が永山村の名付け親であることも、編者が武美氏に尋ね「まちがいないであろうと承認せられる」としています。
戦前の札幌大通にあった永山武四郎像(出典⑤)
【引用出典】
『永山町史』1962・旭川市・344〜353p
【図版出典】
①北海道立文書館
②国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784778
③④旭川市立図書館
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch
⑤函館市図書館デジタル資料館 http://archives.c.fun.ac.jp/