[豊頃] 二宮 尊親(上)
二宮尊親(出典①)
二宮尊徳の「報徳仕法」
今、二宮尊徳の再評価がすすんでいます。報徳思想は、開拓時代の北海道の精神的な支柱となっていました。理由は二つあります。一つは、疲弊した農村を立て直した尊徳の思想が極寒豪雪という苛酷な北海道の環境を克服する助けになると考えられたこと、そしてもう一つは、二宮尊徳の直孫が北海道に渡り、豊頃のまちを拓いた事実です。尊親の北海道開拓を紹介する前に、二宮尊徳についておさらいしましょう。
■河川氾濫 一家離散の窮地から
白石小学校の二宮金次郎像
二宮尊徳は天明7(1787)年、足柄平野の栢山村(小田原市)の農家の長男として生まれました。
農家ではありましたが、二町三反(2.3ヘクタール)の比較的裕福な地主で、金次郎という幼名を与えられ、恵まれた幼少期を送りました。
ところが寛政3(1791)年、酒匂川の氾濫により、田畑が流され家運は急落します。家の再建に奔走した父は家老で死亡。長男として金次郎は懸命に残された母を助けました。この頃の重い薪を背負いながら読書を欠かさなかったという逸話が銅像になりました。
金次郎母子の懸命な努力にもかかわらず、再び大雨が田畑を襲い、最後の土地まで流されてしまいました。ここで一家は離散、16歳になった金次郎も叔父の家に引き取られます。
■菜種油を自作して読書
(出典②)
「百姓に学問などいらぬ」と言う叔父を尻目に隠れて金次郎は学問を続けました。菜種油で明かりを灯し読書をしていると、叔父から油がもったいないと取り上げられましたが、畑の隅で菜種を育てて読書を続けたといいます。
19歳になった金次郎は独立し、実家の再興に精力を傾けます。故郷に戻り小作を続けるのでは、家業復興はできないと考え、市中でさまざまな収入源を見つけ、人手に渡った田畑の買い戻しに尽力しました。
そうした収入確保の一つとして村名主の岡部家に奉公に入りました。ここで実績を積み、文化9年、26歳で小田原藩の家老である服部家の用人になりました。服部家の子供が藩校に通うお供をしながら、漏れ聞こえる講義に聞き耳を立て漢学に触れたといいます。
金次郎は働いた金で少しずつ田畑を買い戻していきました。自分では耕さず小作に委せることで小作料を受け取り、これを用人仲間に貸したりしながら、財産を殖やしていきました。
金次郎32歳の時、金次郎の才能を見抜いた当主服部十郎兵衛は、借金で火の車だった服部家の財政運営を任せます。これが金次郎出世の糸口となりました。
■金次郎から尊徳へ
金次郎は服部家の帳簿を分析し、手早く服部家の負債を整理、財政再建の道筋を立てました。5年で1000両の借金を返済し、300両の余剰を産み出すまでになりました。
この仕事が小田原藩中で評判を呼び、藩主大久保忠真は荒廃した分家・宇津家の所領下野国芳賀郡桜町(栃木県二宮町・現真岡市)の再建を託します。
桜町領は公称4000石となっていましたが、実質1000石に満たないほど荒れていました。藩主忠真は藩の財政改革を委せようとしたのですが、家臣の反対が強く、荒廃した桜町領で実績を示せば家臣も納得するだろうと考えたのです。
文政6(1823)年、忠真から名主の格を与えられた金次郎は、すべての財産を処分し、退路を断って桜町領に向かいました。多くの評伝はこの境に尊徳としています。
二宮尊徳画像(出典④)
■人心一新
(出典⑤)
桜町領は戸数147戸・人口730人の寒村です。尊徳は着任した日から、家を回って指導を行う巡回を始めました。寝る間を惜しんで家々を回る尊徳の姿に村民も少しずつ感化されていきます。
お金に困っている人には無利子で資金を貸したり、荒れ地を開墾する報奨金を出したりと、財政面でも施策をすすめました。これによって救われた人の中には無利子であるのに借入金以上の金額を返済する人もいました。尊徳はこれを積み立てさらに支援の輪を広げました。
百姓出身である尊徳に従うことを嫌う人たちの抵抗にも遭いました。特に小田原藩から上役として派遣された豊田正作はことごとく尊徳の仕事を妨害します。困った尊徳は3カ月間消息を絶ってしまうのです。突然尊徳がいなくなったことで村民は不安に陥り、存在の大きさを改めて実感しました。
このとき、尊徳は成田山にこもって断食修行を行っていました。3カ月後、村に戻った痩せ細った尊徳を見た村人は涙を流して詫びたといいます。このことが藩主の耳に入ったのでしょう。間もなく豊田正作は小田原に呼び戻されました。
民心は一新し、尊徳の指導に従った結果、目標の2000石を達成し、報徳金1200両を宇津家に収めるまでになりました。
■飢饉から救った報徳仕法
(出典⑥)
桜町領で尊徳の名声を一躍高めたのが「天保の飢饉」への対処です。
当時、凶作冷害は人智の及ばぬことと思われていました。一日も欠かさず天候や作況の記録を取り続けていた尊徳だけは、凶作の到来を予知することができたのです。夏のある日、農家で提供されたナスが秋ナスのような味がすることを不審に思い、作物の生育状況を調査したことがきっかけだったといいます。
「天保の飢饉」は多数の餓死者を出す甚大な冷害でしたが、事前対策をすすめたことで桜町領のみは飢えに苦しむ人を出さずに乗り切ることができました。このことが尊徳の名声を高めました。桜町で尊徳が用いた再生策は「報徳仕法」と呼ばれ、飢饉の続いた江戸後期、農村の希望となるのです。
■小田原仕法に取り組む
(出典⑦)
藩主忠真の期待に応えた尊徳は、天保7(1836)年、小田原藩に呼び戻されました。天保の飢饉で甚大な被害を受けた藩の再建を任されたのです。
この時、忠真は江戸表にあり、小田原の家臣たちは主君からの連絡が無いことを理由に尊徳の着任を認めるかどうかの評定を延々と続けていました。尊徳は
領民が餓えで苦しんでいるのに主命がないからと評定ばかりしているのは不忠である。もし評定をつづけるなら断食しながら続けるが良い。私も共に食を断ちましょう。
といったと言われます。家臣たちは折れるしかありませんでした。
尊徳の小田原仕法は天保8(1837)年から弘化3(1846)年まで10年にわたりましたが、忠真が途中で亡くなったこともあり、十分な成果を挙げたとは言えません。反対派の抵抗に怒って桜町領に戻ることもありました。
■幕臣へ抜擢
(出典⑧)
そんな様子を見ていたのが、江戸幕府の老中、水野忠邦です。
天保13(1842)年、尊徳56歳の時、突然呼び出しを受け、幕府の直臣として勘定奉行所に出仕するよう命を受けます。百姓の出としては異例の抜擢です。正式に二宮尊徳と名乗るようになったのはこの時です。
そして任されたのは幕府の直轄地(天領)である日光山領の再生。尊徳は桜町領と同じように全戸の巡回からはじめ、灌漑設備を整備して新田開発を進めようとしました。しかし、尊徳も人の子、年に勝てず、病床に就くことが多くなりました。
尊徳が病気がちなため、幕府は息子の尊行を「御普請役格見習」として実務を委せました。安政元(1854)年のことです。翌安政2(1855)年、尊徳尊行が拠点を置いていた現在の栃木県日光市で尊行の長男、豊頃町の開祖・尊親が誕生します。
孫の誕生に安心したのか、尊徳は、安政3(1856)年10月、70歳で息を引き取りました。生涯を終えるまでに直接手をかけた、または助言を与えた「報徳仕法」の村は600に達するといいます。
■高弟富田高慶、相馬仕法に取り組む
(出典⑨)
現在の福島県相馬市にあった相馬藩は実石高16万の豊かな藩でしたが、天保の飢饉で財政破綻を招き、参勤交代にもいけないほどの窮状に立たされました。藩主以下家臣一同が再建の頼みとしたのが「報徳仕法」でした。藩士には尊徳を尊敬し、弟子となって教えを請う者も多かったのです。
日光領の再生に取り組む尊徳は多忙を理由に断り続けますが、相馬藩はねばり強く要請を続けました。弘化2(1845)年、尊徳もついに折れて、相馬藩に残る過去180年分の帳簿をつぶさに調べて再建策を練り、弟子の相馬藩士・富田高慶を福島に向かわせました。尊徳は一度も相馬に入りませんでしたが、長年の蓄積によって再生手法が確立していたのです。
富田高慶の才覚もあり、相馬藩は改革に取り組んで10年で借入金8500両を返済。その後、日光にいる尊徳へのお礼として毎年、日光領冥加金を送ります。再建の実務を取り仕切った富田高慶も家老に取り立てられました。
■2代目尊行、相馬に向かう
慶応3(1867)年10月、15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上。官軍と幕軍が分かれて戦う戊辰戦争が始まりました。
戦乱が日光領に及ぶ気配を見せると、二宮尊行は家の存続と尊徳の残した膨大な資料を守るため、尊親ら家族、弟子たちを富田高慶のいる相馬に向かわせました。
維新後、尊行も相馬で家族に合流しますが、明治4(1871)年に亡くなります。こうして二宮家の家督は17歳の尊親が継ぐことになりました。[1]
【参照出典】
・豊頃町「報徳のおしえ」推進会議編『報徳の教えシリーズ1 やさしい『報徳のおしえ』」2009・豊頃町教育委員会
・豊頃町「報徳のおしえ」推進会議編『報徳の教えシリーズ2 二宮尊親に導かれて」2010・豊頃町教育委員会
・笠松信一『報徳のおしえQ&A』2008・豊頃町小・中学校連携教育推進会議 等参照
【画像出典】
①・豊頃町「報徳のおしえ」推進会議編『報徳の教えシリーズ2 二宮尊親に導かれて」2010・豊頃町教育委員会・口絵
②③⑤⑥⑦⑧⑨『二宮尊徳報徳画訓』東京浩文社・1939
④報徳福運社「報徳博物館」公式サイト>二宮尊徳と報徳 https://www.hotoku.or.jp/sontoku/