北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[豊頃] 二宮 尊親(中)

 

二宮尊親(出典①)

 

 

興復社の創設──報徳思想こそ北海道開拓者精神

 

明治維新の動乱により二宮尊徳が打ち立てた「報徳仕法」の本拠は福島県相馬へ移ります。そして3代目二宮尊親の代になって北海道豊頃へと移るのです。どうして北海道へ!? ──その経緯を明治38(1905)年の二宮尊親自身の講演から届けします。二宮尊徳の報徳思想こそ北海道開拓者精神の神髄です。
 

二宮尊徳の直孫・二宮尊親による豊頃町開拓の前段として、前回二宮尊徳を生涯を簡単に振り返りました。小田原に生まれた尊徳は栃木県で地域再生に功績を挙げ、再生手法を「報徳仕法」として定式化し、日光や相馬で実証しました。
 
尊徳の事業は2代目の尊行に受け継がれ、幕末の動乱により、尊行が福島県相馬に拠点を移したことから、報徳仕法の本拠も福島県相馬に移ります。明治4(1871)年、2代目、二宮尊行が相馬で亡くなると、3代目の尊親が二宮尊徳の意志を受け継ぎました。
 

今回紹介するのは、明治43(1910)年3月に発行された『報徳教大意』という書物に掲載された二宮尊親の講演録の一部です。この講演について同書はこう述べています。
 
二宮尊徳先生の令孫たる二宮尊親先生は、祖父の意志を継ぎ、今や北海道十勝国に於いて、興復社と言ふを経営し、その社長として済世救民の事業に従事して居られます。其の事業の大要は、先生が去る明治三十八年二月二十二日、東京神田の学士会に於いて講演されたのが、最も要領を得ておりますから、此処に其の筆記を載せる事としました。[1]
 
相馬にあった「報徳仕法」の本家が明治になって「興復社」という結社となり、さらには北海道に移った経緯が、尊親自身の証言によって詳しく述べられています。
 
なお再録にあたって明治の文言調を現代人にも読みやすく言い回しを改めたことをお許しください。
 
お読みいただければ、二宮尊徳の興復社ならびに北海道開拓が、二宮尊徳の意志を継ぐ事業であったこと、北海道開拓は報徳仕法の集大成であったことがご理解いただけると思います。
 
 

■幕藩の仕法を県に引き継ぐ

この興復社はいかにして起こったのかというと、旧中村藩より伝わったもので、中村藩では報徳の仕法を27年間執り行ってきました。
 
この中村藩は、もともと荒廃を極めた国でありましたが、この仕法を行い、荒地を開き、領民を撫育したため富裕の藩となりました。
 
このような顕著な功績があったため、この仕法を廃藩とともに破棄するのはまことに遺憾であるということで、新しい県庁においても執り行ってほしいと申し送りをし、仕法に関する書類と残金を当時の県に引き継ぎました。
 
県庁でも主務官庁に申請して許可を受け、勧業課に復興係というものを置きましたのは明治7(1874)年の頃であります。
 
中村藩で行われたときは、いわゆる分度法によって基礎を定められていましたがゆえに、資本金の出所はほとんど無尽蔵でありましたが、磐前藩ととなってからは、そのようなわけにはいかず、従来の残金をもって行いましたが、幕藩時代のように完全な仕事はできず、ただ土地の開墾を主に行いました。開墾費を年賦返済の方法で貸与して私有地で開墾を行わせたのです。[2]
 
相馬藩には、二宮尊親が本拠を置いた福島県相馬藩の他に、茨城県森谷市にあった相馬藩もあります。区別する意味で本拠のあったまちにちなみ、福島県の相馬藩を、相馬中村藩、または中村藩、茨城県の方を下総相馬藩または守谷藩と呼ぶことがあります。
 
なお相馬中村藩は明治になって中村県となり、さらに磐前県となり、合併によって現在の福島県となりました。
  

 

■官業から民業へ──興復社の創設

そのようなことでしばらく事業を行いましたが、その後まもなく磐前藩は福島県に合併となりました。その時に中村藩より磐前藩に引き継いだときと同様にしてもらいたいと申し送りをしましたが、時の県令は
 
「今日、県の統廃合とか、係官の交代とかいろいろな変遷があって、藩政時代とは異なり永続が困難になってきている。あえて引き継ぐと初心を失うかもしれない。今日の状況ではむしろ県庁の官営よりは結社として民間で行う方が良いだろう」

 

富田高慶(出典①)

という趣旨の相談が、中村藩で主任として事業を取り仕切っていた富田高慶氏のもとにありました。
 
冨田氏は
 
「報徳の道は貧富を論ぜず、貴賤を分かたず、何人にも行えるもので結社として行うことも難しいことではないが、中村藩で行ってきた興国安民は、結社した人々が相互に行う方法ではなく、上より下に臨みて行う方法であるから、これを人民相互の法に変えるのは難しいだろう」
 
という意見でしたが、
 
「県庁の意志が既に決まっており、また時勢を鑑み、結社として行うのもやむを得ない。ただしこれを行うためには県庁の保護を仰がなければならない。その確約されれば着手するだろう」
 
と返答しました。
 
県庁も諒としたので、結社の請願書を出し、明治10(1877)年8月に許可を受け、これまで取り扱ってきた残金及び帳簿類の一切を県庁より引き受け、これと同時に有志より出資をいただき、富田氏を社長として「興復社」を組織しました。[3]
 
この経緯について『豊頃町史』は次のように解説しています。
 
(富田高慶たちは)廃藩置県によって(継続が危ぶまれた)この制度の継続を国に申請し、さらにこれが採用にならない場合の第2案も用意して願い出たが、双方とも許可にならず、国は「行いたいのであれば、官費に依存せず、下の方で考えて実施したらよいであろう」とのことであった。[4]
 
福島県の県令は尊親らの立場に立って結社をつくるように助言をしたのですが、実際には当時の明治政府にそのような余裕がなく中央ではねられというのが真相のようです。
 
一方このことについて「渋沢栄一デジタルミュージアム」が『渋沢栄一ものがりー6・渋沢栄一翁と西郷隆盛さん」でこんなエピソードを紹介しています.
 
西郷さんが、ある日、大蔵省の役人であった栄一翁の家へやってきました。その頃日本は今まで大名が治めていた藩を廃止して現在のような県というしくみに変わりました。
 
「今日はお頼みがあってまいった」と西郷さんが言いました。「何でしょう」とたずねると西郷さんは「相馬藩(現在の福島県)に二宮金次郎が指導した興国安民法というのがあって藩の財政の立て直しに努力している最中である。ついては、このやり方が成果をあげているので、藩がなくなって県となってもこれを存続できるようにして欲しい」というものでした。
 
興国安民法というのは、収入の少ない年を基準としてお金を使い、あまったら収入を増やす為に使用するという方法です。つまり収入を考えて支出を考えるということです。
 
当時、大蔵省も渋沢栄一翁も収入を考えて支出を考えるという考えでした。
けれども西郷さんたちは、その考えとは反対に入ってくるお金を考えないで、政治をするのに必要だからお金を出せと大蔵省に要求してきていました。
 
そこで栄一翁は西郷さんに言いました。「いつも西郷さんがやっていることは興国安民法の考えとは反対なのに、今日は相馬藩のめんどうをみてくれというのはおかしいではございませんか」と。
 
すると西郷さんは「いや、そのとおりだ。私は今日頼み事があってきたのに渋沢さんにしかられてしまった」といって帰っていきました。[5]
 
渋沢栄一が西郷隆盛をやり返さなければ、豊頃というまちはなかったかもしれませんね。
 

■興復社事業の困難

このような時代ですから、幕藩時代のようなことはできません。磐前県の時に貸し出ししたものは11郡わたり、あれこれの関係上、磐城県の仕方に倣い、開墾料を給与して報徳金を徴収することといたしました。
 
最初村では猜疑心をいただき、山師的事業ではないのかとの評もありましたが、月日が経過するのにしたがい、猜疑心は氷解して、人気大いに高まり、資本の不足を招くほどになりました。
 
県庁においてもこの状況を深く察せられ、1万5000円を無利子で貸し下げられたので、大いに力を得てついに1400町歩の開墾を見るにいたりました。
 
もっともこの時代は事業に忙しく、教化のことが行き届かず、加えて時世の変遷やあれやこれやで開墾人の中には納金を延滞するものが出てりました。
 
中村藩の時とは違い、資本金も限りあり、循環法によって取り扱っておりましたから、納金が延滞すれば自然と資金を巡回させることができなくなるのであります。
 
しかるに年々延滞は多くなり、事業はますます困難に陥り、やむを得ず一時事業を中止して事後を講ずるにいたりました。
 
この事後策に関して富田氏は非常に苦心しましたが、考案中、病気を得て亡くなりました。[6]
 

■事業を北海道に移す

富田氏の没後、不肖私が跡を引き継ぎましたが、微力にして難局にあって何事もできず、また延滞金の整理をしなければ他日の発展も期しがたく、もっぱら延滞金整理に従事し、おいおい取り立て、その結果ようやく事業に着手すべき機運に向かいました。
 
この時、北海道に事業経営の議が起こりました。
 
当時、内地の有りさまはどのようなものかというと、土地はすでに開け、人口は年々増加、中堅以下の農民はますます土地を得るのが困難となり、荒地を開墾しようとしても、もはや良い土地はないという有様でした。
 
しかるに北海道は、人は稀で、土地はつとに開け、人口は年々増し、軍事上においては北門の●●といい、経済の上ではわが国の富庫といいます。事業を北海道に移して、この地を開拓するのが最良の方法であるというのでありました。義は決し、明治29(1896)年、現地探検となり、私どもは北海道に向け、出発しました。
 
すなわち興復社は、単に北海道における開拓事業のために設立されたものではなく、また好奇心に駆られた営利的に始まったものではないということを申し上げておきます。[7]
 

■道徳と経済の衰貧復興

本社の目的は、1に家なり、1に村なり、1に郡なり、1に国なり、その衰貧を復興し、その富盛を保持するということが目的でありまして、この目的を達するには、善行を奨励し、汚風を矯正し、勤勉に務め、奢侈を戒めなければなりません。これがすなわち報徳の事業であり、道徳と経済の教えの必要ある所以であります。
 
本事業が、窮民を救済し、荒地を開発し、もっぱら衰貧復興のことを目的とするのは、先代(二宮尊徳・尊行)の興国安民の遺教を継承するためです。
 
福島県にあったときは、貧民多くまた荒地多く、ゆえに村々の荒地を開墾して、資産の不足を補うことを急としました。
 
北海道は未開にして、人まれなるゆえに、土地を拓いて貧民を植え付けました。さらには貧民を救うために土地を拓き、今日は土地を拓くために貧民を移すという姿になっておりますけれども、窮民を救済し、荒地を開発していくことは、我々と目的を異にするものではありません。[8]
 

■社会の徳に報いる

しかし、これだけが我々の目的ではありません。
 
富盛を保持せんとする人も、衰貧を復興せんとする人も、報徳の心がけにてやらなければなりません。
 
われわれがそのようなことにあたり、その世話人となって、これを行うのは先代の遺業とはいえ、これがわれわれの報徳であり、すなわち特に報いる勤めと心得ております。
 
人間は独立独歩といいますけども、それはその人の思想とか主義とか言うべきもので、社会は分業により成立し、各自が孤立することはできません。何人も必ず様々な社会の徳によって棲息するものであります。
 
ゆえに何をやるにもその社会の徳に報いる勤めと心得てやらねばなりません。この社会の徳に報いるのに、我が徳行を持ってなすというのは報徳の教えであります。
 
徳行といっても特別難しいことではありません。道を踏み、義により、我が本分を尽くすということにすぎません。
 
その心得を持って勤めれば、富める者はその富を維持し、貧しき者はその貧を免れる。その目的を達するにはこの心遣いが必要と思います。[9]
 
二宮尊徳の「報徳仕法」とは、桜町領や日光、相馬など、飢饉で荒廃した村を富裕な村に生まれ変わらせた地域再生法、地域経済の振興政策であるとともに、尊徳自身が救貧から幕府の直臣へと出世したことに重ね合わせた人生哲学=道徳でもありました。
 
二宮尊親が北海道で開拓に従事したことで「報徳仕法」の道徳は、北海道開拓者精神を形成する主柱になったのです。
 

 

 


 

【引用参照出典】
[1]市川傳吉『二宮先生 報徳教大意』1910・大学館・105p
[2][3][6][7][8][9]同上106-114p(一部略)
[4]『豊頃町史』1971・293
[5]渋沢栄一記念館『渋沢栄一デジタルミュージアム』http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/index.html
【画像出典】
①相馬市公式サイト> 市の組織> 教育委員会> 生涯学習課> 文化> 相馬の歴史> 御仕法> 御仕法 推進した主な人々https://www.city.soma.fukushima.jp/shinososhiki/shogaigakushuka/bunka/1/goshihou/880.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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