[豊頃] 二宮 尊親(下)
二宮尊親(出典①)
尊親の牛首別原野開拓
明治29(1896)年、二宮尊親自ら北海道にわたり、現在の豊頃町二宮に入植地を定めました。当時この一帯は厳しい湿地帯でしたが、尊親は開拓のもっとも厳しい10年間、現地で入植者と衣食住を共にし、報徳の教えを説いて励まし、開拓を成功に導きました。二宮尊徳の「報徳仕法」が北海道開拓で成果を挙げたことで、尊徳の思想は北海道開拓の理想となりました。
■シシュベツ原野の発見
祖父・二宮尊徳、父・二宮尊行の志を継ぎ、北海道において「報徳仕法」の理想を実現しようとした二宮家三代目・尊親、現在の豊頃町二宮に入植したのは明治29(1896)年7月29日です。
道内を広く探索し、十勝に狙いを定め、この日、原野を見渡せる小高い丘に登って入地を決定しました。地元ではこの日を「探見記念日」として記念し、報徳訓の唱和と尊親の法要を今でも行っています。
以下『豊頃町史』(1971)は次のように入地の模様を伝えています。ここにもアイヌの協力があったことは覚えておきましょう。
開拓事業の成否は、経営地の選定に支配されるところが大きいと考えた尊親は、移住地の探検のため、明治29(1896)年7月、探検隊を組織して北海道へ出発した。一行は社長の二宮尊親をはじめ、社員の大槻吉直・小倉精宗・大槻太郎・札幌農学校出身の大槻由巳等である。
宮城県の岩沼から青森に到着、函館を経て室蘭に上したが、ここで2班に別れ、1班は由仁・栗山方面、他の1班は札幌に出て、北海道庁殖民部と打ち合わせた。
調査班の報告で、石狩・空知方面はすでに開拓が進んで適地がないことが判り、石狩を越えて上川に入り、富良野平野を調査したが、鉄道布設の見通しが悪く、物資輸送の困難が懸念されたので、さらに日高に足を向けたが、ここでも適地を見つけることが出来なかった。
悩んだ一行は十勝に入ることを決意し、襟裳岬をまわって十勝河口の大津に着き、大津移民世話所に滞在することとなった。
ここで開拓地選定について世話所の人と話し合い、十勝川をさかのぼって幕別付近に上したが、思い悩んでいた一行に案内人はすでに開拓に従事していた晩成社の依田勉三を紹介した。依田は慶応義塾在学中に報徳と二宮尊徳のことを聞いていたので、この来訪をよろこび、語り合って再会を約して別れた。
一行は再び丸木舟で十勝川を下り、日没となって大津に上したが、宿でアイヌのトカンという青年に紹介され、彼からウシシュベツ(牛首別)に肥沃な未開の原野のあることを聞き、トカンを案内人として再び馬でウシシュベツ原野へ逆戻りした。
茂岩の駅逓で馬を預け、徒歩でウシシュベツ川ぞいに奥地に入っていった。ここで彼等はすでに明治26(1893)年から下ウシシュベツに入地していた富山県人の1人、中川勇作の家を訪ねた。中川勇作の家は現在の渡辺商店の所にあたり、当時は松本与譲・神垣徳之助・神垣嘉太郎・港三平などが入っていた。
尊親が登って入賞地を定めた円山(出典①)
中川に会った彼等は、神垣徳之助の家で休み、さらに進んで丸山を発見し、これに登った展望と、草木の繁茂状態から、肥沃の程度を推し測り、ウシシュベツ原野を興復社の事業地と定めたのである。
大津に戻って移民世話所と打ち合わせをすまし、船で室蘭に直行して、ここから札幌に出向いて長官に会い、1500ヘクタールの土地払下げ手続きをして帰郷した。
この帰郷報告によって移住が決定し、興復社農場の事業開始となったのである。[1]
■開拓の推進
移住地を定めると、尊親はすぐに福島に戻り移民団の募集を始めました。この移民団は報徳の理想に基づいたもので、その特徴は「移住民規約」によく現れています。
第1条 本社の殖地に移住し農業に従事せんと望むものには2戸につき原野5町歩を配当し、うち5反歩は風防薪炭林に、同3反歩は宅地に、同2反歩は排水畦畔等の除地と見倣し、残4町歩は貸下年限中4ヵ年以上6カ年以内において墾成せしむるものとす
第2条 前条を皆墾成し、報徳金を完納の義務を終了したる者へは、配当地全部の所有権を譲与す
第10条 開墾料は反別に応し給与すといえども、平均1反歩に付金3円を標準とす
第12条 本事業費の償還を目的とし、報徳金と称し、開墾地1反歩につき3年目より2カ年間は金50銭、以後13カ年間は金70銭の割を以て向15カ年間徴収するものとす [2]
こうした拓植農園は移民を小作として募集し、開墾成功後も農園が開放されるまで小作料を徴収されるものですが、興復社農園では「報徳金」を完納すると土地を譲渡するという極めて異例な規約が盛り込まれました。これこそ「報徳仕法」の精神を示したものです。また小作料に当たる「報徳金」も全道から見ると安価でした。
■開拓の推進
この他「移住民資格」「出願手続」「携帯金取扱方」「旅行心得」「土地配当手続」「給与品渡方手続」を定めました。第1期移住は明治30(1897)年4月8日に開始されました。移住戸数は明治30年から37年の7年間で152戸となりました。
その後、明治34(1901)年、第5期までの定期募集による集団移住と、後継移住、さらに半期移住、小作、分家その他の入地者も加わってこの地区の開拓が進んだ。
尊親が指導した興復社事務所(出典②)
このようにして、興復社が計画した移民は5カ年でほぼ目的を達し、それぞれが「番組」に所属し、配当地を受け、自立農家を目指し、あるいは自家配当地の開墾に、あるいは「番組」の協同作業、農場あげての公共施設造成に汗を流すこととなったのである。
この開墾の計画を達成するために、最も移住者を苦しめたのは、1330ヘクタールを上回る貸付地の8割以上を占める湿地で、この一面に密集する谷地坊主を野焼きした後、これを切って除き、その後でなければ鍬(くわ)やプラウを入れることができなかった。
そのほかに宅地、農道や仮配当で自然に開いたものなどが、203町8反7畝4歩があり、明治41(1908)年末までに、合計843町8反7畝4歩が開拓された。この間12年を要したが、ほとんど人手と馬で行ったことを考えれば偉大な成果であったといえよう。[3]
■住民の教化
「報徳仕法」は経済と道徳という二方面から地域再生を行うものです。豊頃でも尊親は先頭に立って村民の教化に当たりました。「芋コジ」と呼ばれる「住民集会」がその舞台です。「芋コジ」は二宮尊徳がそのまま豊頃に引き継がれたものです。『豊頃町史』は「牛首別報徳会60年史」から引用して「芋コジ」の模様を次のように伝えています。
入植者の開拓小屋(出典③)
二宮尊親は、興復社農場に成立した移住民による社会集団の団結と、農民の心構え、農業技術を向上するために、毎月例会を開催せしめた。例会は、他の農民集団とはいささか異なった気風を持たせ、きわめて近年までそれが受けつがれてきている。
尊親先生曰く集会は「芋コジ」なりと、その意は土イモを洗うとき、桶に入れて掻き回せば、一個づつ洗わなくてもみな清浄となると同じく人も一人一人に教えざるも、寄り合って説話を聞き、また互いに談話を交換せば、自然に智恵を進め、土芋の清浄となるにひとしい。しからば集会は精神修養の一義として、まことに軽んずべからざるものあり。
また曰く、土地の開墾よりも心田の開墾は急務なりと。その方法はいかにせば可なるか。容易にその道を得ず。まずもって移民、平常に注意すると同時に、一面にはるる「芋コチ会」を開きて、修養につとめんと計れり。
しかるに目前に横われる土地の開墾を置いて、頻繁に集会を催すことはいきおい行われ難きをもって月一回にとどめ、晴雨にかかわらず、農繁を問わず、持続し来れり。
会合の場合は出席者の配列は、力農篤行者を上席となし、以下組ごとに席を設け、規律正しく着席し、社長始め事務員出席して、もっぱら報徳教育、農業談話または一般の道徳・経済・日常の心得等につき、その場合に適したる事項につき講演し、終て協議にあたるを常とす。
かくのごとき趣旨にてこの集会は開かれつつあるも、心田開墾は一つの成化事業にして、土地の開墾よりも至難なるはもちろん、わずか月一回の集会にすぎざれば、よく事理を解する者、ただ義務に出席するもの多きはまた怪むに足らざるなり。
しかれども毎月怠らずよく出席するものは、その志賞するに足るをもって、去る三十八年より毎月無欠席者にはその精勤を賞して鎌二枚を与うることとなし、合せて他の奨励となせり。
興復社はまた、力農篤行者の表彰も行い、農民の励みとした。表彰の方法は毎年1回の表彰式であるが、投票により1票につき25銭の割合で、票数に応じてを与えるほか、報徳訓掛軸1幅・鎌2枚・ホー2丁を添え、1番から3番までを当選として表彰した。
羅災救済として、焼失の場合は1戸稲黍(いなきび)半俵(後に金1円に改む)を組合員から出し合い、組外から1戸20銭(後15銭)を助成した。
疾病や水害にも労力奉仕、報徳金延期、救助金を出すなどの扶助を行い、東北地方の凶作にも、福島県相馬郡に義損金を贈ったりした。[4]
■住民組織「牛首別報徳会」
尊親の指導に対して入植たちも応えました。ぬかるみの湿地帯を見事な畑地に変えるだけでなく、「牛首別報徳会」という住民組織をつくり「報徳精神」を永遠に伝えていくことをかたちで示したのです。
少々長いのですが、カコミにこの「牛首別報徳会」の設立趣旨を掲げます。ここに書かれている言葉、一字一句が、我らが父祖から受け継いだ北海道の開拓者精神です。じっくり読んでいただくことを期待します。
郷土の開拓に復興社は報徳の道を基本理念として、事業の遂行と指導にあたったが、移住民相互に報徳の精神を永遠に伝えると共に、協力一致と自治独立の気を養うため、明治35(1902)年7月20日に「牛首別報徳会」を組織した。この報徳会は、興復社の傘下にある移住民の自主組織である。
【牛首別報徳会設立趣旨】
我ら故国にあるや、家産豊かならず、生計常に乏しく、父母を安らんずるに足らず、我子を育するに足らず、前途安危存亡を期すべからず。
惨雲常に覆い、苦雨縷々降り、進まんと欲して進むを能わず、退かんと欲して退く能わざるの時に、復興社おいて北海道に殖民地を設けられ、薄貧の窮民を移して将来自治独立の民たらしめんとの盛挙に際会せり。幸いにその募集に当り、渡道するを得、爾来給与に教導に扶披誘導の恩少なからず。
今や初期の移民、年を閲すること六星霜、配当せられたる未開墾地は全部耕し、収穫は年に多きを加え、昔の困難ほとんど一夜の夢と化し去り。
ここに初めて愁眉を開かんとするにいたるは、まったく本社教養の恩来に外ならず。深く我らの感銘して忘るべからず。
しかし、退いて考察すれば、等しく本社の恩恵に浴して、その成績同じからざる者あり。これすなわち我らの勤惰驕倹によるものにして、貧富は天にあらず、人にあるの実証にあらずや。
しかのみならず、同水を飲み、同風に浴するものの、その窮状を見て救わず、その不徳を聞きて誡めず、袖手傍観、自利これ事とし、あい助け、あい誡めざるときは、何をもって同胞の義務を尽くしたりとなさんや。いわんや常に数導したまうところの報徳の道は終身服膺して忘るべからざる教訓なるにおいてや。
しからばこの教訓をして永遠に伝へ、各自をしてともに発達せしめんと欲せば、よろしく一致協力してあい勤め、あい行うにあらざればあたわず。我らいずくんぞ興起せざるをえんや。報徳会を起して規則を定め、一はもって我らの幸福を進め、一はもって本社の恩顧に応うるところあらんとする。[5]
■ 尊親の離道
尊親は明治40(1907)年、北海道を離れて福島に戻りますが、よくある本州にあって資本を投下し、小作料だけを受け取る不在地主ではなく、最も苦しい入植から10年を入植者と共にし、その成功を見届けての離道でした。
この報徳会は、興復社の傘下にある移住民の自主組織である。はじめは興復社事務所の一部で事務を取り扱い、以後、積み立て、貯蓄が盛んになり、明治40(1907)年に事務所兼集会所ということで、興復社から不用の役宅の払い下げを受け、敷地も町歩余の貸し付けを受けて事務所を建てた。牛首別報徳会は、昭和7(1932)年6月で満30年の期間で満了となった。
同年6月20日に第2次報徳会を創立することとなった。この第2次報徳会創立に先立ち、昭和3(1928)年より法人組識認可への運動をはじめ、昭和11(1936)年法人許可がおりるまで、9年間を第2次に設立した報徳会が、その事業を引続き行なっていたのであった。もちろん法人組識となっても、経済・産業・文化等の活動は従前以上に活発に行ない、今日なお続いているのである。
この間、指導者二宮尊親は、明治40(1907)年4月、福島県中村に転住し、牛首別報徳会には管理者を置いて経営していた。そして大正11(1922)年2月16日病没したが、彼の影響を受けた報徳会は経済活動の上では、土台金備荒貯蓄、積穀金、小作料、貸付、推譲金などを運用し、産業振興では共同販売、小作関係、牧場、林業、水利組合の結成などを通じて努力して来た。
この地の開発は、移民の自発的団体としての、牛首別報徳会の活動が併行することによって確実にその成果をあげ、さらに財団法人牛前別報徳会へと移行し、今日に至るまでその組織が一環して地域社会の向上に大きな役割を果たし続け来たのである。開拓と農村集落生成の過程を、きわめて鮮明に残している類例少なき地帯といえよう。[6]
3回にわたって二宮尊親の豊頃開拓をお伝えしましたが、これは北海道開拓の神髄とも言うべきもので、これだけではとうてい全容をお伝えできません。筆者の勉強の深化も含め、いろいろなかたちで紹介していきたいと考えます。よろしくお願いいたします。
【引用参照出典】
[1]『豊頃町史』1971・豊頃町・295~296P
[2]豊頃町「報徳のおしえ」推進会議編『報徳の教えシリーズ2 二宮尊親に導かれて」2010・豊頃町教育委員会・16P
[3][4][5][6]『豊頃町史』1971・豊頃町・293~309P(要所抜粋)