北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[湧別町・北海道厚生連] 庄田 萬里(下)

 

庄田萬里

庄田萬里(出典①)

前回は上湧別の庄田萬里医師が医療器機、医薬品、病院経営に関わる権利財産の一切を寄付することで厚生病院の開基である「久美愛病院」が開設されたと紹介しました。では、だれがどのようにして「久美愛病院」をつくろうとしたのでしょうか。「久美愛病院」の運営母体は「保証責任北紋医療利用組合聯合会」、この組合が戦後に北海道厚生連、すなわち北海道厚生農業協同組合になります。それは農民の手で病院をつくろう──というとんでもない挑戦でした。屯田の開拓者精神が原野から医療に向かったのです。『上湧別町史』(1968)からお届けします。

 

■農村に病院を──熊沢助三郎立ち上がる

大正末期から昭和初期における農村経済恐慌は全国的に深刻を極め、救農臨時道議会が開催されるほど緊迫した空気であった。経済更生の方策として農山漁村に対する政府の援助の手も差しのべられたが、その根幹として産業組合の強化拡充が叫ばれた。
 

熊沢助三郎

熊沢助三郎(出典②)

産業組合が充実すると共にその利用施設として医療施設が認められたが、この計画を樹てる府県町村は微々たるもので、北海道は皆無であり、全国としても岩手県、青森県、秋田県の東北地方と東京で賀川豊彦(キリスト教社会事業家)の主唱する中野組合病院が有名であった。
 
上湧別村の当時の医療現況も他町村同様で、農家のだれかが病気をすると札幌市立病院まで出向いて入院したので普通農家は、この医療費捻出のため田畑を他人に売払い、裸の状態になるのが普通であった。こうした実情を目の前に見て、農村に何とか病院を、と考えたのが時の産業組合長熊沢助三郎であった。
 
昭和8(1933)年農村医療問題について理解深い、酒井農林主事補が網走支庁に赴任したので、初めて医療利用組合が病院を経営している府県の実情を聞かされた。そしてこの年東京赤坂の三会堂で開かれた全国医療利用組合協会大会に出席した熊沢夫妻はつぶさに全国の情勢を聴き、これより夫婦そろって農林省、医師会等への陳情が何回となく繰り返された。また、地元では北湧医院庄田萬里との話し合いも進められ同医師の全面的な協力も約東されるに至った。
 
この庄田萬里物語は(更新が止まっていて申し訳ありませんが)「オホーツクの幻夢」と同時代の物語です。大正後期から昭和初期にオホーツクを襲った農村経済恐慌については「【第1回】4度の大冷害─水稲壊滅」をご参照ください。
 
 
熊沢助三郎こそ久美愛病院をつくった人物であり、北海道厚生連の創始者とも言える人物です。この連載は「熊沢助三郎物語」でも良かったのですが、熊沢助三郎については別なかたちで紹介したいと思いましたので、今回は庄田先生を立てました。熊沢は、大正12(1923)年から20年間にわたり、全国の国鉄、私鉄に枕木を納品して〝北海道の枕木王〟の異名で一世を風靡した実業家です。オホーツクには大変な人物がいたのです。
 

■病院設立認可申請書を北海道庁に提出

紋別郡管内14か町村の産業組合を一丸として保証責任北紋医療利用組合聯合会々長熊沢助三郎の名で、病院設立認可申請書を北海道庁に提出したのが、昭和10(1935)年3月20日であった。しかし当時の社会情勢は産業組合が拡充強化の波に乗った時代であった反面、反産業組合運動も織烈を極めた。この病院建設申請も安易に許可される空気ではなかった。
 

本多政雄(出典③)

会長を引き受けた熊沢も町民ともども熱心な運動を続けたが指導監督の立場にある北海道庁では、許可する方針はなくいたずらに日時を費すばかりであった。再三にわたる地元関係者の陳情も、採択されるでもなく、さりとて却下されるでもなく、担当官の書類の中にうずもれているだけであった。かりに当時の産業組合課が許可する方針であったとしても、医師会と連携する衛生課の合議がない限り、農林大臣への上申をするわけにはいかない状況にあった。
 
毎年開催された全道産業組合大会にも、大会決議として「医療利用組合連合会の設立促進」がなされ、気勢はあがっても実現にまでいたらない状態で、いたらずらに関係者をいら立たせるのみであった。
 
地元町村では、本腰を入れて運動しなければ、と考えて、上湧別産業組合本多正雄理事を北紋医療利用組合の主事に嘱託した。本多がこの職についてから、病院設立運動に示した情熱は病院歴史の一頁に永く記録されるべきものがあった。本多は、その後昭和26(1951)年道会議員当選と共に厚生連会長を勤めるにいたった。
 
本多政雄も関口峰二の無二親友として「オホーツクの幻夢【第6回】富美原野の開拓 始まる」に登場します。父は日本蚕糸学会会長、母は正銀頭取の妹といったサラブレッドなががら北海道開拓にロマンを持ち、上湧別に入植しました。すぐに地域の青年リーダーとして頭角を現し、熊沢助三郎とともに久美愛病院設立に奔走しました。戦後に北海道厚生連の初代会長になっています。
 

■農民に病院が運営できるのか

ともあれ、当時の役所関係にはこの問題に理解の深い人もまた多かった。なかでも網走支庁の酒井主事、道庁の富永主事、農林省の蓮池事務官等は協力的で、蓮池事務官などは「何を北海道庁はやっている。農林省は道庁から申請があれば1時間で許可の方針だ」との言葉を聞くほどであった。
 
これに慰められ励まされて陳情運動に拍車をかけたのだが、道庁に行くと途中の何処かで停滞して「目下審議中」と霧消され、誠に雲をつかむような運動がゆるみなく永年続けられた。道庁にすれば「農民に果たしてこの難しい病院経営が出来るだろうか」との危慎もあった。この時農林省から道庁に対し、前代未聞の公文書が農林大臣名で舞い込んだ。
 

貴管下、絞別郡上湧別村信用購買販売利用組合外11組合により、北紋医療利用組合聯合会設立の認可申請書が提出後、相当の日時を経過して今日におよんでいると聞くが、関係者の陳情、当省に対しても数度に及んでいる。もちろん許可の可否については貴庁独自の見解だけで却下もできないことであるから、申請書について具体的検討の上至急可否を上申されたい

 
との主旨のものであった。この公文書によって道庁も産業組合課長を中心に協議を重ねられた。農林省のすこぶる強気なのがうかがわれるので、却下するにしても一応農林省に伺いを立てなければならない。この時、道庁よりの回答は次のようなものであった。
 

北紋医療利用組合聯合会の設立につき申請があるが、財政並に経営的見地から目下関係者と協議中であるから、今暫らく上申を待たれたい。

 
こうして日時を経た富永主事の書類の中には、斜網・上川からも許可申請が出され、帯広も設立の機運があったので、最も条件の悪い北紋を許可すると他の組合は無条件で許可しなければならない状況であった。
 
近代病院という大事業の経営をわずか15の産業組合で維持すること、特に上湧別の場合はバスも通わぬ遠隔地であることによって、道庁が慎重を期せざるを得なかったのももっともなことであった。
 
文中に同じように病院組合を作りたいとして斜網、上川、帯広の地名が出てきますが、今日、北海道厚生連の大病院が網走、旭川、帯広にある背景です。上湧別の久美愛病院の直接後継は現在の「ゆうゆう厚生クリニック」ですが、久美愛病院の本流を受け継ぐのが「遠軽厚生病院」で、今も厚生連の本家の扱いとなっています。2万人程度のまちにあれだけの大病院があるのはこうした歴史です。
 

■病院の赤字はこの私が一人で引き受けます

ところがこうした時、折も折、岩手県知事石黒英彦が北海道庁長官に発令された。北海道農村保健運動史上、特筆すべき事態であった。前述の通り岩手県は全国でも有名な産業組合経営の病院の発達した県で、県下全病院を統合して農村各種保健、医療運動を実践した知事であったからである。
 
また経営上予測される赤字の点については、熊沢助三郎も「自分には資産が80万円ある。病院の赤字はこの私が一人で引き受けます」と言い切っていた。
 
石黒長官は着任して間もなく、産業組合課長以下課員を集めて審議会を開き、担当課をして北紋医療組合の設立を許可する旨の上申を農林省に出すことが決定された。申請書が提出されてから4年間の歳月が流れていたので、内容もほとんど書き換え「誠に時宜に適した計画である」旨の長官の副申を添えて農林大臣に上申された。
 
石黒英彦は明治17年、広島県生まれ。東京帝大卒業後文科省に入り、その後、奈良県知事、岩手県知事を歴任。北海道長官は昭和12(1937)年~昭和13年(1938)年と短いですが、北海道神宮境内に開拓神社を設置した人物です。短い任期でしたが、オホーツクにおいて大きな功績を残したことになります。
 

■庄田萬里、一切の病院施設を寄付

湧別に住む人たちにとって、上湧別に綜合病院ができたということは、全く大きな恩恵でもあった。この病院は、紋別郡の紋別・上渚滑・滝ノ上・興都・下湧別・雄武・西興部こ遅軽.渚滑生田原・白滝・上湧別12町村と、常呂郡佐呂間・留辺蘂を合わせて14町村の産業組合で病院をーか所建設しようとしたものであるため、どの町村も自分の村に建てたい。それが不可能なら近くの村に建てたいのが人情であった。
 
このため各町村の誘致劇が活発化したが、人口密度も低く、交通の便もよくない上湧別に選定がなされた。全く世人の常識を破って決定された裏には次のような理由があった。
 
第一に庄田萬里の経営する北湧医院が全面的に協力を約束したことである。当時組合病院の設立は地元開業医の反対がどこでも強かったので、当局もこのことを一番恐れていたし、神経も使っていた。上湧別ではこれと反対に開業医が一切の医療施設を寄附して協力するということであったから安心して選定できた。
 
第二に組合病院設立の声をあげ、その許可に献身的努力を続けた熊沢助三郎が、上湧別に設立する了解工作を熱心に行った。
第三に地元上湧別住民が精神的に、また物質的に協力体制が強かった。
 
北海道で最初の農民による組合病院の場所として上湧別が選ばれたのは、やはり屯田兵村としての存在感が大きかったのでしょう。日露戦争で英雄になったことで屯田兵は大変な権威がありました。上湧別は屯田兵の地元への定着率が高かったといいます。前回紹介したように庄田先生も屯田兵の出です。枕木王熊沢助三郎の成功に屯田兵が関わっていたのではないか──現在の探求テーマです。
 

■久美愛病院開院

北紋医療利用組合聯合会の設立許可に次いで病院開設の許可手続が必要となった。これには具体的な設計書や経営計画書を作成しなければならなかったので素人では手がでなかった。道庁衛生課の親切な指導を受けて、ベット数35とし、平面図を添え申請書の提出をした。昭和13(1938)年8月23日待望の開設許可書(寅衛第一七五七号指令)が交付された。
 

久美愛病院

落成した久美愛病院(出典④)

 
昭和14(1939)年秋の開設を目標に、春2月、雪解けを待ち切れず除雪して基礎工事を始めた。時あたかも戦争最中でインフレと物資不足の兆しを見せていたので、あらゆる資材購入に困難を極めたが、この苦難を克服して昭和14(1939)年9月、延480坪(1584平方メートル)に及ぶ壮大な病院が落成した。
 
9月18日、村内各関係者200名を招いて盛大な開院式が上湧別小学校において行われた。熊沢会長から数年の苦労のにじみ出た式辞があり、庄田万里先生への感謝状、工事関係者への感謝状の贈呈が行なわれた。こうして9月20日、待望の診療が開始された。
 
この久美愛病院を開いた農民は、原野開墾の苦労を乗り越え営農を成功させた開拓者です。医療過疎という当時も今も変わらない現実に対して、国を動かして農民による病院組合をつくり課題解決に当たったのです。時代も背景も違う今と単純に比べることはできませんが、その開拓者精神を私たちも受け継ぎたいものです。
 

 


【引用出典】
『上湧別町史』1968・1320−1327p
【図版出典】
①②『北海道厚生連70年史 』2019・北海道厚生農業協同組合連合会
③④『北海道厚生連20年史 』1969・北海道厚生農業協同組合連合会 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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