北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[湧別町・北海道厚生連] 庄田 萬里(上)

 

庄田萬里

庄田萬里(出典①)

 

新型コロナに負けるな! 北海道──ということで急きょ2回に渡って連載した「開拓地の医療編」ですが、今日明日の話題提供で一区切りです。
医療の前に屯田兵の話題をお届けしましたが、その屯田兵と拓植医療がオホーツク湧別で出会い、生まれたのが、私たちがよく知る厚生病院なのです。
道内各地で病院を展開する北海道厚生連は昭和14年9月に上湧別で開院した北紋医療利用組合聯合会久美愛病院から始まりました。この久美愛病院のなりたちに湧別屯田の名医、庄田萬里先生が深く関わりました。開拓時代、私たちの父祖がいかにして地域医療を確保しようとしたのか、大いに勉強になります。
北海道草分けの人々──ちょっと変則ですが、厚生連の草分けとして庄田萬里をお届けします。
 

■厚岸太田屯田の兄とともに

本町開基以来70年の永きにわたってこの湧別原野に生涯医師として医療業務に精進した庄田萬里の功績は余りにも大きかった。明治3(1870)年12月10日、新潟県高田市西城町1丁目に生まれ、岡島小学校高等科を卒業して、小学校準教員の資格をとり、教員をしていた。ところが兄が北海道屯田兵を志願し、一家移住することになったので、萬里もその家族として明治23(1890)年厚岸郡太田村に渡った。齢このとき21才の夏のことであった。
 
しかし、根室屯田は気象条件も悪く、北海道屯田唯一の不成功地であったといわれている。開拓はされたものの分家のめどは立たなかった。こうしたとき日清戦争が始まって従軍衛生兵(看護卒といった)募集があったので、これに応募し、雇人となって和田村の四大隊本部に勤めたが、戦地に出征しないうちに戦争も終わってしまった。
 
※厚岸の太田屯田の名簿を見ると新潟県出身の兵屋番号45・庄田稲美が兄と思われます。農耕に不向きな根室、厚岸の屯田は大変な苦労を重ねました。「またこの苦しい兵役の義務が履行できなくて、給与地の没収処分をうけた者は、太田屯田で29戸に達している。これば屯田兵制度上、最大の没収をうけた和田屯田の54戸につぐものであり、その苦るしさを物語っている」(『厚岸町史 上』219p)と伝えられています。
 

■湧別屯田の衛生兵になる

北見屯田移住によって明治30(1897)年、北海道屯田兵は大隊編成の改革が行なわれ、和田村の四大隊本部は北見国野付牛に移されることになった。大隊長小泉正保以下全部員が移転したので、本部員であった萬里も四・五中隊付の着護卒として湧別に移ることになった。
 
明治30(1897)年5月10日、厚岸の海岸から近畿丸に乗船し、根室と網走に泊って、5月13日の朝湧別浜に着いた。第一陣の湧別屯田が移住する半月ほど前のことであった。湧別屯田現役中は官舎に起居し、軍医の監督の下に薬剤の調合、治療の補助勤務に従事していた。
 
戸主である長男だけが屯田兵と認められましたから、次男である萬里は屯田兵では無かったことになりますが、軍隊としての屯田兵部隊の衛生兵として、開墾の義務のない屯田兵になったようです。厚岸太田屯田は最後の士族屯田で、生まれた住所は高田城の門前ですから庄田家は代々高田藩の家来だったと思われます。
 

■兵村の支援を受けて医師に

昭和12年頃の庄田萬里

昭和12年頃の庄田萬里(出典②)

兵村現役解隊後、軍医の帰隊によって湧別は無医村となることから、兵村では村医養成が相談された。一般の要望によって明治34(1901)年4月。東京慈恵医大に入学した。自分では獣医になるべく勉強していたが軍医に馬も人も勉強には変わりないから、医者になるように勧められての決心であった。
 
学資は屯田兵村会計から奨学資金が毎月15円前後、明治37(1904)年4月まで続けられた。萬里は兵村民の期待にこたえて明治35(1902)年春、前期試験を首席で合格し、36年秋後期試験にも合格して、これで学科は終わった。37年5月からは臨床実習をして、晴れて明治39(1906)年8月帰村した。
 
兵村は軍医引上げ後、青山伊勢松が将校官舎に北湧医院を開業していたので庄田萬里もこれに加わり、村医の辞令を受けて医療に従事した。
 
明治44(1911)年に青木医師は遠軽に移り、庄田萬里は大正5(1916)年に庄田宅に個人で医院を新築し、北湧医院と襲名した。そして昭和14(1939)年、久美愛病院に合流するまで、永く本町の医療業務に力を尽した。隔離病舎の嘱託医、各小学校校医、種痘予防注射など一切が業務であった。
 
湧別屯田の設置は明治30(1897)年5月です。そして屯田兵は現役3年、予備役4年、後備役13年でしたから、湧別屯田は、明治33(1900)年に解隊しますが、予備役が終わる明治37(1904)年5月までは兵村組織が残っていました。この年に軍医がいなくなり無医村になることを見越し、兵村の人たちは非常に計画的に医師育成計画を実行したことがわかります。
 

■医は仁術なりを実践

庄田萬里は過重な仕事の中にあっても、村民の要望と援助に依って医者になった恩義を終生忘れることなく、「医は仁術なり」を身を以って実行したので、町民の信望厚く「庄田先生の診療を受けて死にたい」という信仰的な願いは、湧別原野一円のものとなった。外来患者も毎日50人から100人に及び、入院患者も絶えることがなかった。往診もすこぶる広範囲で渚滑、白滝、佐呂間にも及んだ。
 
最初の乗物は飯豊獣医から買った小柄な道産馬で、大正5(1916)年ごろから自転車、大正末期にオートバイ、昭和10(1935)年にダットサン自動車と村内文化の先駆げをなした。往診の求めに応ずるため毎晩1時ごろまでいろりで煙草をふかし「敷島」の吸いがらが列を作るのが通例であった。
 
資産が出来てからも、その私生活は誠に勤倹質素なもので、麦飯を常食とし、すべての面にぜいたくはしなかった。診療も熱心であったから村民の誰が、どこが悪いのかすっかり請んじていたほどであった。また、医療代の集金もゆるやかで、生活に困っている者には催促もしなかった。物慾を離れた崇高な生活は真の医者であった。
 
庄田萬里は「開拓入門講座」で紹介した「拓植医」でした。多くの拓植医が頻繁に移動する中、名医の誉れ高い庄田先生は終生湧別に留まり、体が動かなくなるまで地域医療に従事しました。
 

■久美愛病院に一切を寄付

庄田翁銅像除幕式

庄田翁銅像除幕式(昭和14年出典③)
存命中にこれだけの銅像が建てられいている
いかに村民から敬愛されていたかがわかります

昭和14(1939)年久美愛病院がその向かいにできると機械器具はもちろん、医薬品の一切、未収金の6万円までも寄付し、うち貧困者の2万円は取り消にして、残金を当座の運営資金に当てるようにと申し出て、みずからもこの病院の医師として昭和30(1955)年3月85才の高齢まで診察を続けた。
 
昭和14(1939)年、町民はその徳を偲び、庄田萬里の銅像を建立(戦時中銅回収のため石像となる)し、また、昭和29(1954)年には本町最初の名誉町民に推戴された。昭和39(1964)年11月26日、94才で天寿を全うしたが、町民はこれに対し町葬の礼遇をもって送った。
 
ここ出てくる「久美愛病院」が「北紋医療利用組合聯合会久美愛病院」であり、北海道厚生連の前身です。後編は「久美愛病院」がつくられる経緯を紹介します。
 

 


【引用出典】
『上湧別町史』1968・1329−1332p
【図版出典】
①②『北海道厚生連70年史 』2019・北海道厚生農業協同組合連合会
③『上湧別町史』1968
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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