北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[北広島]
和田 郁太郎

(上)

 

 

 

札幌の隣まち北広島市は、広島県からの入植者によって拓かれたことから「広島」の地名が与えられたことはよく知られるところです。もちろん、いつの間にか広島県人が集まっていたということでありません。札幌の東に広がる大密林に入植地を定め、広島から多数の入植者を組織し、多数の困難を乗り越えてまちを創った開拓者がいます。和田郁次郎──、北海道の歴史を語るとき、この名前を忘れてはなりません。
 

■芸州剣士、刀を捨てる

和田郁次郎は代々芸州浅野家に使える武士でした。明治維新で活躍した志士たちの多くが下級武士の出身で、剣によって身を立てようとしたのと同様に郁次郎も剣に励みます。
 
氏は弘化4(1847)年7月21日をもって、旧広島藩沼田郡段原村に生る。山田賀津平氏の三男たり、世々芸州候浅野家に仕ふ。元より徴録の身、兄弟7人あり、幼名を徳蔵と称し、維新の頃、和田氏の遺跡を継ぎ、郁次郎と改む。幼にして岐峨、15歳の時すでに身長5尺8寸を計り、駆幹大人を圧す。
 
当時、家貧にして兄弟多く、文武の技を師に学ぶに能はずといえども、功名の情緒ついに禁ずるを能はず。かえって国老近藤某の家に士奉公をなし、もっぱら武を講じ、成年の時すでに貫点流一派の免許をうく。[1]
 
人並み優れた体格の持ち主で、浅野家の剣豪として頭角を現します。このあたりは坂本龍馬を彷彿とさせます。しかし、明治維新の年にようやく二十歳。維新の動乱に身を投じるには若すぎました。
 
せっかく身につけた剣も太平の世には無用の長物。士族の中には時代の変化に付いていけない者も多かったのですが、郁次郎はきっぱりと剣を捨てて新たな道を歩みます。
 
爾来、立志ようやく時運に循還し、職を藩庁に奉じたりしが、明治4(1871)年、藩を廃され、県を置かるるにいたり、世運一変し、なお武の風全く地を掃ふ。
 
氏、生来文筆を習はず、自ら望んで筆の吏を断つ。すなわち、剣を捨て、職を解き、決然、心を実業に傾く、その家に帰隠するや、自ら鋤鎌を携へ、田園を耕し、歳月踏星、もっぱら業に励む。
 
その風ほとんど昔日長剣を帯せる人にあらず。人皆もって異とすこの6年間、また意を工事に潜め、間暇あれば金具、鍛冶、指物、筆笥、裁縫、その他傘骨等の製造に従事し、孔々貯蓄を旨とす。
 
当時、君ひそかに期するところあり、資産ようやくなる頃、その家宅田園一切の資財を義弟勘之助に譲り、自ら潔くし退隠、別に家を設け、明治12(1879)年に初めて妻を迎ふ。時に年30有歳。[2]
 

■北海道開拓を決意

郁次郎は手先が器用だったのでしょう。小間物細工をビジネスとして成功を収めます。しかし、30歳の歳に伝来の田畑をすべて義理の弟に譲ります。隠居と書いてありますが、結婚して妻を迎えることと隠居は不釣り合いです。
 
おそらくこの時に北海道移住を決意していたと思われます。北海道に移り住むには広島に田畑を必要ありません。開拓の困難を共に乗り越えてくれる伴侶こそ必要だったのでしょう。
 
これより明治14(1881)年に至るまで、君専ら業を西洋傘商に転じ、純益千有余円を余す。
 
この年初めて北海道移住をもって一身を興すべく、また国益たるべきを覚知し、ついに団休移住の議を創記す。
 
まずその実況を視察し、利害得失を考究せんと欲し、同志両三輩と共に函館県庁に対する添書を広島県に請い、15年6月初めて北海道に赴く。渡島後志の山野を跋渉し、地の能く、一大団結移民を容るべきものを相す。[3]
 
明治の北海道開拓は起業です。起業には資本が必要。郁次郎は当時珍しい西洋傘のビジネスを起こして開拓資金を蓄えました。郁次郎がそのまま西洋傘を続けていれば、ビジネスを大きくし、今にもつながるような大きな会社を興していたかもしれません。しかし、郁次郎はその道を選ばす、北海道開拓にアンビシャスを燃やしました。
 

■渡道準備を中止せよ!

ここからは昭和47(1972)年の『広島町の歩み』掲載の和田郁次郎本人の手記によって紹介します。北海道に渡った郁次郎ですが、すぐに北海道の現実にぶつかります。
 
北海道拓殖にな志する明治14(1881)年、本道の事情を探知し、同15年郷里広島県下において同志者を募り、同県令より函館県令に宛たる添書を得、同志者の河野正次朗なるものと共に同年5月、郷里を出足し、同年6月8日着函。
 
直ちに前に得たる添書を同県庁に提出し、かつ意思のあるところを陳述して、速やかに土地下渡し方請願におよびしに、渡島国尻岸内檜山郡ウヅラタゼ、瀬棚郡利別原野及び磯谷郡尻別村、渡島国尻岸内村トドホッケ等の6か村の中につき選定すべき下命ありしが、その時にいたり同行提携者の河野正次郎ゆえありて、各実検の労を避けたり。
 
よって自分は、単身函館を出発し、所々にて土人を雇い、案内せしめもって漸く2ヶ月余にして思所の実倹を終えたり。
 
しかるところ願うにいずれも風強く、ために樹木小枝総て傾き、見渡すところ農作地として適する杏やと疑惑の念をいだき、まず函館に帰り、はなはだ見込の薄きを河野正次郎と協議の上、郷里にある移住同志者へ通知し、「自分共の帰郷するまで渡道準備を中止せよ」と打電せり。[4]
 

■決意を固めた出会い

北海道開拓を決意した郁次郎は、事前調査として明治14(1881)年に広島県知事の推薦状を手に来道します函館県知事が薦める入植地を検分しますが、樹木の枝がすべて同じ方向を向いていることから、風の強さを予想して辞退。この時、準備を重ねてきた郁次郎の決意が大きく揺らいだようです。
 
時に河野正次郎長男某は、以前より札幌に居住のところ、面会のため来函せり。聞くに札幌方面にて良好の箇所あるをもって、よって両人相携えて8月末、四海岸通り各所より小樽を経て着札す。
 
河野は同所に滞在せしめ置き、自分はかねて聞きおよびし当時有名な農業地たる有珠郡紋鼈村を実見せんと思い立ち、南海岸を経て同所にいたり、実見して初めて本道農業に見込みあるを悟り、同時に移住の決心をなせり。
 
これより南海岸一円を経て、再び着札し、百事心に描きつつ、河野正次郎と共に札幌を出立して故郷広島に帰る。時に10月中旬なり。[5]
 

■月寒村に1万坪

郁次郎が北海道開拓への決意を高めたのは、有珠郡紋鼈村、すなわち今の伊達市に入植した仙台亘理藩・伊達邦茂主従を直接訪ねたことにありました。家老の田村顕允から励ましと貴重な助言を得たのでしょう。決意を新たして、故郷に戻り、移住の準備を進めます。
 
帰郷の上、移住同志と共に再度準備を整え、明治16(1883)年4月、本道融当期を待ち、移住同志の、中谷川杢衛門、細江一の両人をもって渡道者取締人となし、自分は移住地の位置決めの義務を帯びて、単身郷里を出発し、(河野正次郎は移住を断念中止)着札の上、その筋の順序を経て決定せしは、石狩国札幌郡月寒村内の現在の地所なり。
 
当時の方法たるや最初3ヶ年間内において移民100戸を移住せしめ、進んで一村を形成すべきを目的をもって、南は島松川を境として北はシフンベツ川境とし、予定地請願せしところ、仮に1万坪の許可を得。
 
続いて移住者来道の上、追願することに内願し、まずその旨を郷里同志者に報知せしに、取締人の内、谷川杢左衛門はすでに6月下旬、同志者の内壮丁者4人を率いて渡道せり。[6]
 

■先に寒地稲作の父が入植

入植地をどこにするのか──開拓を成功させる最大の要素です。明治16(1883)年、郁次郎はこの任務を帯びて単身、北海道に渡りました。そうして見いだしたのが現在北広島市と呼ばれる土地です。当時は札幌群月寒村に含まれていました。
 
この当時の北広島の様子を『北広島の歩み』は次のように紹介しています。
 
広島村は開拓使庁の当初、野幌官林、島松官林、輪厚官林といった地域となっていて大曲、輪厚、松島などは地理上の地名に過ぎない時代であった。

中山久蔵②

明治4(1871)年、初めて札蜆開拓本庁の下に国、郡区が定められ、次いで明治9(1876)年9月、全道に大小区制をしき、札幌郡には第一大区を設けた。第五小区には豊平村(当時、現在の盟平神社を中心とした地域であった)上白石村、平岸村、月寒村がこれに屈し、連合戸長が置かれた。本町が広島村独立の公示までの明治27(1894)年2月までは札幌郡月寒村(後の豊平村)に属していた。
 
広島村が月寒村時代、当時の室蘭街道沿線には明治14、5年まで人家は稀に認めるだけであった。れより先、明治6(1873)年月寒村島松には中山久蔵がひとり稲の試作に奮闘していた。[7]
 
こにに登場する中山久蔵は寒地稲作の父です。久蔵は兵庫県の出身ですが、北海道開拓を志して苫小牧に入植。稲作の適地を求めて千歳川をさかのぼり、この地に水田を開いていたのです。久蔵はあくまでも水田試作のための居住で、大規模な開拓を目的としたものでありません。北広島の地のほとんどはうっそうたる大森林でした。
 

■3年間に100戸の入植計画

この地に可能性を見いだした郁次郎は、3年で100戸を入植させる計画を立て、明治17(1884)年、雪解けから開墾が始められるよう、先遣隊を率いて北海道に渡ります。北広島の入植は中山久蔵ば最初ですが、本格的な開拓を行ったということで、和田郁次郎が北広島の開祖となっています。
 
爾後翌17年3月、融雪期にまでに内壮丁者は相当の日給にて雇い、自分および谷川を合せて6人、雪中といえども問断なく移住用の小屋掛けその他の準備をなせり。
 
小屋の形状は、梁行2間半の桁行9間の物6棟および梁行3間半桁行4間のもの5棟、以上11棟をいずれも柾葺きとなし建設す。
 
また、季節の到るを持って種物籾種10石、馬鈴薯40俵、ほか雑穀種35種、これを代金70円にて買い入る。
 
かくして移民、数10戸を待つに足る準備そなわるや移民渡航予定は同年3月中のところ、明治15(1882)年11月、広島県民、根室地方へ数10戸移住せり。[8]
 
郁次郎が北海道で入植地を探していた頃、同じ広島県の移民団が根室に入植しました。数百キロ離れた同県移民団が郁次郎の移住計画に影を及ぼします。
 
 

 


【引用参照出典】
[1]『広島村史』1960・548p
[2]同上
[3]同上・549p
[4]『広島町の歩み』1972・45p
[5]同上・46p
[6]同上
[7]同上・31p
[8]同上・46p
①『広島村史』1960・541p
②同上・537p

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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