北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[北広島]
和田 郁太郎

(中)

 

 

 

■広島県根室移民団の悲劇

和田郁次郎が北海道開拓を目指していた頃、同じ広島県から根室を目指す177戸572人の大移民団がありました。この移民団は悲惨な境遇をたどりました。
 
先遣隊として80余戸が明治15(1882)年9月7日に、広島港を出発しましたが、途中、船内でコレラが発生してしまいます。このために下関と兵庫港に停泊せざるえなくなり、根室に入ったのは10月も半ばでした。
 
当時は北海道の気候風土もよく理解されていなかったのでしょう。10月からでは農業はほとんどできません。この移民団は、極度の貧困者ばかりを集めたもので、広島県の棄民政策とも言われました。一冬をすごす資金などあるわけもなく、移民団は到着と共に路頭に迷ってしまいます。
 
次は、この移民団に対して春までの食糧を拓植予算で面倒見てもらうように根室県令が農商務卿西郷従道に当てた上申書です。
 
過般渡航規則により広島県より80余戸当管内に移住致候ところ、本年9月7日県地発足、途中不応の時疫に罹り、馬関あるいは兵庫港に停留し、50余余日を経てさる10月中当根室港に着せり。
 
しかるにいずれも赤貧にして、日計の費用だも有せし者なく、季節はすでに遅れ、ただちに農業に就かしめ、糊口の策を与ふるによしなく、拠りなく弥壮者はそれぞれ土木等に使役し来候振合にこれあり。
 
規則等を了知せず、単に当地に来着せば、座しながら衣食に差し支えなきもののごとく心得違い侯よりの義にして、すでに本年10月、御省番外御達も有之候次第に候得共。
 
右移住民の内別記8戸の者どもは、故山を去てより、途中時疫に感染し、夫妻に死別し、為めにわずかに有する所の物は衣類その他を問わずすして消費し、かつ13歳以下の小児3、4人を一手に養育するをもって貧苦日に迫り。
 
目下、衣食に啼くも救済する親戚故旧なく、この状態をもって来る極寒に送はしめば、飢寒立ちどころにいたり、傍観に能はざる実状に有候問、格別の御詮議をもって植民費の内より、来春すなわち来る16年5月までの6ヶ月間、1人1日玄米5合づつ御憮救相成候様、この段至急上請候なり。[1]
 
これに対する西郷従道の答えは
 
願之趣難聞届事 [1]
 
という非情なものでした。根室県は緊急に市街地道路工事などを起こして仕事を与え、米などを貸して急場を救おうとしましたが、移民団の中から死者も出るなど、凄惨な状態に陥りました。
 
この事件は拓植事業の大きな教訓となりました。すなわち、心構えのない貧困者を開拓地に送り込んでもだめである、ということです。よく、北海道民は〝食い詰め者〟の子孫という誹りを受けますが、食い詰めものでは開拓という厳しい試練を乗り越えられなかったのです。
 

■郁次郎の計画は嘲笑の対象に

この広島県移民団の惨状は中央政府でも問題となり、北海道に移住したい願う人たちは厳しく審査されることになりました。郁次郎たちの移民団はちょうどこの移民政策の転換点にぶつかったのです。事件の当事者である広島県です。県庁は郁次郎の開拓団を厳しく審査しました。郁次郎は「手記」でこう述べています。
 
明治15(1882)年11月、広島県民根室地方へ数10戸移住せり。
 
彼ら積雪の業に馴れず、特に無資力者のために餓死したるものあり、あるいは死に至らずとも官庁の救済を受くるなど、非常なる困難をなせるあり。
 
これがため根室県庁は広島県庁に対し、渡航者に御注意の照合ありしがために、広島県庁は渡航者に対し一層厳格なる取り調べを要するにいたり、容易にこれが認可を与えざるめ場合となり。
 
事情種々練述の末、後れてようやくわずか18戸の認可を得て、細江一これを率いて同年5月13日、移住地に至る。[2]
 
郁次郎の手記は素っ気なく述べていますが、実際には移住計画は崩壊寸前に追い詰められました。
 
以下は『広島村史』(1960)に引用れた大正7(1918)年編さんの「功労者事蹟綴」から紹介します。郁次郎本人から取材した記録です。
 
15年6月初めて北海道に赴さ渡烏後志の山野を跋渉し、地の能く、一大団結移民を容るべきものを相す。後さらにらに歩を胆振、日高、十勝の各国に脈じ、ついに札幌に出てようやく夕張郡札幌郡内に、良好な原野を発見し得たり。
 
しかれども、時すでに冬天に向い、旅費また欠乏を感じ、永く探検に便ならず。ために思を割いて国に帰る。
 
これにおいてまず調査せる各般の視察につき、移住の甚だ有望なるを陳述し、遊説を本国資産家に試む。
 
しかれども、当時、かつて広島県民無謀の移住を企て、厳冬の時をもって歩を北海道に移すために、流離顚沛の惨を演ぜし後を受け、県民皆、北海道到底望みなきを誤想し、県庁もまた深くこれの原因を研めず、慢に移住を阻隔せんと欲するの時期なりし。
 
これをもって氏が異常の企画もまったく嗤笑の間に買はれ、ほとんど顧みるものなきに至れり。
 
後、わずかに谷川左衛門門、細江某の二人を得るに及び、ついにまず窮行の実を挙げんと決定し、自ら産を傾蕩して北海道に向へり。[3]
 
郁次郎は、道内を探査し、北広島の原生林に有望な土地を見つけ、さっそく広島県に戻り、有力者を訪ねて協力を求めましたが、同時期の根室移民団の失敗が県内に広く伝わり、郁次郎の計画は前進するどころか、嘲笑の対象になってしまったのです。
 

■数々危地に陥って志ますます堅く

そこで郁次郎が考えたのは、徹底した事前準備を行って前途の不安を無くすことです。
 
明治16(1883)年4月、郁次郎は同志三人と再び北広島の原生林に入りました。この模様を伝える「功労者事蹟綴」は一級のドキュメンタリーです。少々漢字を改め読みやすくはしましたが、語感は残しました。今は失われた漢語の迫力に育次郎の苦闘を思い描いてください。
 
同志この時、合わせて四人。意を決して予定地に入る。来りて見れど荆棘地を埋め、老樹鬱蒼として昼なお暗く、かつて人跡の探るべきなし。
 
東、室蘭街道を去る2里半、北、江別街道を隔てる3里余に過ぎずといえども、アイスもその慮を結ばず。氏毫も以て意に介せず。ひそかにおもえらくこの地、地域広く、深林多く、水利ありて平原なり。もって万戸を移すべし。
 
半年、前後8回の探検を試み、常に単身その地利を究む。あるいは途を失して溪流に陥り、あるいは日暮れて帰るに由なく、もしくは飢餓、もしくは熊狼、数々危地に陥って志ますます堅く、数月ついに調査を終る。
 
これにおいてまず地積1万坪を予定し、3年必ず100戸を移すの成算をもって許可を北海道庁に受け、16年10月、意を貫徹し得て、直にこれを在広、細江氏に報じ、移民を募集せしむ。これにおいて氏、後継移住者の準備をなさんと欲し、12月23日をもって目的の地に移す。[4]
 

育次郎が踏査した当時の面影を今に伝える野幌原生林①

 

■徹底した準備で移民団を迎える

8度にわたって密林に分け入り調査を重ね、この地が将来有望であることを改めて確認した郁次郎は、道庁に届出をすると共に、翌年からの移民の受け入れのために開墾予定地に住居を移します。12月末の石狩平野、すでに真冬です。郁次郎は同志2名を頼んで小屋組みに出かけました。その道中も一大冒険でした。
 
谷川氏、寝具を荷い、村上氏、米を負い、氏味噌、鍋の類を搬ぶ。行くこと数里、たちまち群狼の襲うところとなり、3人殆んど色を失し、またいかんともともするに能はず。わずかに身を脱して河辺に避け、一生を得たりといえども、糧食ために過半を失う。当時の凄惨もって想ふべし。
 
この夜寝るにところなく、わずかに木を折り、葦を刈り、茅屋を結んで雨霧をしのぐ。悲しいかな、仮寝、暁に破れ目醒れど、時すでに極月の下院を半ばし、飛雪粉々積んで尺余に達す。
 
撩乱たる六花、蓋し、君等をして言はしめれば、将に鋒鉾に近からんや。天地禮々として方途を弁ぜず、かつ米塩の永く支ふべきなし。すなわち恨を呑んで帰途に決す。
 
しかし空しく帰るに忍びず。氏自ら疲労をこととせず、千歳川に境界標を立てんと欲し、さらに里余を徒渉し、そのことを果す。帰れば積雪すでに途を設し、全く目標を失す。
 
特に二孤よく人に馴れたるものあり、道にあたりほとんど氏を誘ふものの如し、すなわちともに跳を踏み、僅かに旧地に達し、同僚に会す。けだし冥助かな。[5]
 
結局12月の探査では入植の拠点となる仮小屋を組むことができませんでした。年が明けた明治17(1884)年1元旦、一人を加え4人で原野に出発します。
 
積雪を踏み、森林を過ぎ、唯敢為と神助とを以て、札幌に帰れど、年すでに暮れ、玆に空しく新年を迎へ、17年1月1日、再び勇を奮い、予定地に向う。
 
このとき、松田某を加へ、前後4人を算す。すなわち1俵の米、ー樽の味噌、またこれに叶ふ用意をなし、再び非常の困研をなし、新墾地に至り、盧を結ぶ。その間の閲歴、奇談、若しことごとく明記するにおいては日も足らざらん。[6]
 
なんとか小屋組を終えた郁次郎一行は、春からの本体到着に向け、およそ3カ月の間、不眠不休でトドマツを切り出して、製材を蓄えます。
 
小屋すでに成るの後、氏等まず協心して、椴松の良材を伐採し柾を製す。後来移住民の用に供せんが為なり。
 
聞く、当時柾材の価値100石50円に価し、氏等製するところ、2月28日に至るまで楽に業に459を成功し得たり。その精励努力知るべきなり。爾来あるいは標坑の建立に、あるいは水源の探検に、もしくは伐材に数々を夜を徹して事に従い、九死に一生の奇談、数々枚挙に暇あらず。[7]
 
用材の準備を一応終えた郁次郎は、入植者がすぐに農耕ができるように、水稲の種籾と雑穀類の種を札幌の育種場から手に入れようとします。しかし、これまでに予想外に費用を使い果たしていました。しかし、育種場は前借りを許しません。郁次郎はまた大きな壁に当たってしまいました。
 
3月13日、ようやく夏期に向う。水田開墾の期至るをもって、氏まず札幌に至り、籾種10石、雑穀36種を札幌育種埸に予約し帰る。しかし、当時、各般の費用意外に出て、懐中ほとんど共資を弁ずる能はざるにいたる。
 
4月播種の期すすむにおよび全くその方策を失し、育種埸も官借を許さず。進退真に極まる。ここにおいて哀願苦訴。藤田某君の尽枠にて官借を許されたという。即ち、まず水田六反歩を開き、籾種5穀を播き、業務を始めて一段進む。[8]
 

■北海道移住に全財産を注ぎ込む

『功労者事蹟綴』によって紹介した郁次郎の準備作業を、『広島町の歩み』掲載の郁次郎本人による手記では次のように述べられています。
 
帰郷の上、移住同志と共に再度準備を整え、明治16(1883)年4月、本道融当期を待ち、移住同志の、中谷川杢衛門、細江一の両人をもって渡道者取締人となし、自分は移住地の位置決めの義務を帯びて、単身郷里を出発し、(河野正次郎は移住を断念中止)着札の上、その筋の順序を経て決定せしは、石狩国札幌郡月寒村内の現在の地所なり。
 
当時の方法たるや最初3ヶ年間内において移民100戸を移住せしめ、進んで1村を形成すべきを目的をもって、南は島松川を境として北はシフンベツ川境とし、予定地請願せしところ、仮に100万坪の許可を得。
 
続いて移住者来道の上、追願することに内願し、まずその旨を郷里同志者に報知せしに、取締人の内、谷川杢左衛門はすでに6月下旬、同志者の内壮丁者4人を率いて渡道せり。
 
爾後翌17年3月、融雪期にまでに内壮丁者は相当の日給にて雇い、自分およびび谷川を合せて6人、雪中といえども問断なく移住用の小屋掛けその他の準備をなせり。
 
小屋の形状は、梁行2間半の桁行9間の物6棟および梁行3間半桁行4間のもの5棟、以上11棟をいずれも柾葺きとなし建設す。また、季節の到るを持って種物籾種10石、馬鈴薯40俵、ほか雑穀種35種、これを代金70円にて買い入る。[9]
 
明治17(1884)年の70円を今の価値に換算すると437万円になります。郁次郎は西洋傘のビジネスで蓄えた資金をすべて北海道開拓に注ぎ込み、最後には資金も尽きましたが、藤田某君の仲介で種籾類の後払いが認められました。そして
 
五月、西村佐一郎以下17戸の移民、本地に来り力を氏等に合す。[10]
 
こうして明治17(1884)年5月13日、最初の移民団18戸が北広島の地に入りました。郁次郎は当初の計画は3年間で100戸を移住させるものでした。1年では33戸。しかし、根室の失敗を受けた県庁の審査は厳しく実際に認可が下りたのは半分以下にすぎません。広島県の審査が厳しく行われた結果、入地も当初予定よりも大きく遅れてしまったのです。
 

 


【引用参照出典】
 
[1]『広島町の歩み』・「広島町の歩み」刊行会1972・47-48P
[2]同上46P
[3]『広島村史』・広島村・1960・549P
[4]同上・549-550P
[5]同上・550P
[6]同上・550-551P
[7]同上
[8]同上・550-551P
[9]『広島町の歩み』・「広島町の歩み」刊行会1972・47-48P
[10]『広島村史』・広島村・1960・551P
①江別市公式観光情報サイト[えべつコレクション.JP]https://www.ebetsu-kanko.jp/archives/sightseeing/209.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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