[北広島]
和田 郁太郎
①
■移民団、崩壊の危機
明治17(1884)年5月13日、広島県からの最初の移民を迎えました。今の歴ではGWも終わった頃。本来であればもっと早く来住し、開墾作業に入る予定でした。それでも、郁次郎は移民を指揮して開墾作業に取り組みます。郁次郎の周到な用意によって、相当面積を開墾することができました。
これにおいて地を各戸に割り渡し、この年は4万8000坪の水田を墾し、排水兼用水溝2500間を拓く。[1]
郁次郎は何の疑いもなく、入植初年から水田を開きました。同地の先覚、中山久蔵の成功を見たのでしょうか。しかし、寒地稲作に適した品種はこの頃まだ開発されていませんでした。当時の品種は寒さに弱く、少しの寒さでしおれていきました。
しかれども、当年天候数々激変し、孕穂の時、強霜激しくいたり。この年全く凶作に属し、稲米の収穫皆無に帰す。[2]
広島県庁から審査を受けたといっても、移住民は決して豊かではありません。入植1年目の収穫をあてにしていましたから、壊滅状態に陥った水田を見て呆然となりました。
しかしして、8月さらに7戸の移民を加へ、前後合せてに5戸に逹し、貯積の雑穀わずかに1戸1石に満つる能はず。同胞もまたみな貪民ー銭の貯へなし。全村あい見て茫然なり。[3]
根室での失敗は広島県で広く知られるところで、この地に来た者たちは、根室のような失敗は起こらないと郁次郎たちに説得され、信じた者たちです。実の入らない水田を見て〝騙された〟と思ったはずです。女たちは泣きだし、男たちは逃げ出す──そんな様子が語られています。
森林地を覆い、蚊虻多し、ゆえに昼問、なほ蚊張を要し、飲食その共内に弁ず。婦女の困難もって推すべし。今や全村餓俘に頻し、金穀全く欠乏す。婦女は憂苦して故国を想い、男子は本地を捨てさりて、他に出稼を希企するに至る。[4]
■郁次郎、踏みとどまる
入植1年目にして、広島県移民団は崩壊の危機を迎えました。郁次郎の気持ちが少しでも落ちたら、たちどころに四散してしまっただろうと『功労者事蹟綴』は述べています。
もし一歩を誤るあらんか、積日の刻苦経営全く水泡に帰し、この地もまた四離分裂して再び興すべからず。氏もまた、懐中わずかに10円に満たず、その苦酸知るべきなり。[5]
郁次郎は逃げませんでした。すぐにも故郷に帰ろうとうする移民団にこの地に留まるように説得しました。
しかもなお、屈嬈(くっとう=ひるむ)せず、あるいは慰安し、あるいは威嚇し、百方尽粋して、まず男子をして薪炭を焼かしめ、女子をして炭俵を製せしめ、もって冬季の業とす。[6]
明治18(1885)年の冬、郁次郎は、移住者を原木の切り出しや木炭製造などの山仕事に就かせます。これが奏効しました。当時、札幌は道都建設の真っ最中で木炭や原木は高く売れました。
しかるにこの年、炭価騰貴してわずかに全村の糊口をつなが得たりといふ。氏また自ら良材を伐採し、これを札幌に商い、わずかに利潤を得たり。[7]
ビジネスマンとして一級の才覚を持つ郁次郎は、自身の事業としても製材業を行いましたが、その収益もすべて開墾事業に注ぎ込みました。費用を倹約し、当時札幌までの往復は1泊が当たり前だったのを日帰りで済ませました。
すなちこれを全村の費用に供し、もって衆心を鼓し、明治18(1885)年に至るまでの間、氏最も冗費を謹み、札幌に至るの時、なお夜を徹して往来し、常に旅籠宿泊の料を節したりと。そのため人またもって想見すべし。[8]
■稲作の成功 広島村の基礎を築く
入植2年目、広島県入植団は1年目の失敗に懲りて水田を広げようとはしませんでした。それでも既存の田んぼにモミを播くと、よく成長し、はじめて米が実りました。これに勇気づけられて、翌年は田畑を広げ、そこそこの収量を得ると、入植者たちもほっとしたといいます。米ができることで広島村の基盤が確立しました。
壮年期の和田郁次郎③
この年、衆皆前年の不作に懲り、ほとんど望を水田に施し、開墾する者なし。止むなく籾を既墾の田に植え、幸いにして豊穣よく結実し、1反歩平均1石の収穫を見るにいたり。
翌19年は上田3石、下田2石を収納しえたり。これより移民ようやく堵を安じ、百事わずかに緒につき、広島村の基礎初めて確立す。[9]
郁次郎は、この成功に勇気づけられ、開墾地を広げます。広島からさらに移住者を呼び寄せ、耕地が足りなくなると、奈井江村に「第2広島村」を築きました。
氏自ら開墾せられし地積は7万8000坪の多きにのぼる。うち水田5万7000坪にして畑2万1000坪とす。かくして事業振々その歩を進め、予定の地10分の8の開墾に達し、なお移民を増加せしかば、明治26(1893)年、さらに空知那奈江村に70万坪を払い下げ、第二広島村を建設し、明治27(1894)年には81万坪を新墾し、戸数120戸を増すにいたり。[10]
郁次郎の事業を見守ってきた札幌県庁は、この成功を喜び、郁次郎が拓いた一帯に「広島村」の名前を与えました。
札幌県庁をさらに月寒村の一郡を割いて広島開墾に合し、別に一行政村府を設け名付て「広島村」となし、氏を選んで象徴たらしむ。逓信省また三等郵便局をこの地に開設し、氏をして局長たらしめたり。[11]
■寒地稲作の可能性を発信
今の「北広島市」につながる「広島村」の命名には、こんな逸話が伝えられています。『広島町の歩み』(昭和47(1972)年)からです。
北垣長官が酒匂常明を随員として広島開墾の状況を視察したのは、明治26(1893)年10月1日のことであった。
長官がこの地を正式視に至ったいきさつには、この間に和田郁次郎の開拓の状況報告がなされたであろうし、明治25(1892)年8月、農談会において水田開発について強調したこともあったというなど種類折衝の労が長官を動かす誘因となったものと考えられる。
是官は広島墾地の開拓の実況に感銘し、一村独立の資格を十分に備えていることを認め村名に開拓の中心人物である和田名をもって「和田村」としたが、和田郁次郎は、これを固辞し、この地は郷里広島県からの団体移住をもって一村を開拓する計画であったので、郷里広島の名をとどめたいので「広島村」としてもと申し出た。
長官はその意を認めて「広島村」としこれを公にすることを約されたのである。一村建設の功労を衆に分かち村名に個人の名を採らなかった和田郁次郎の謙譲の美がここにうかがえるところである。[12]
郁次郎が遠慮しなければ、今の北広島市は「和田市」となっていたのです。ここ言う北垣長官とは、北海道庁第4代長官・北垣国道であり、北海道の鉄道建設に功績のあった人物です。
明治25(1892)年8月の「農談会」とは、札幌農学校の演武場(すなわち時計台)で行われた討論会です。承知のように開拓使時代にホーレス・ケプロンの唱えた米作不適・麦食論によって、北海道では米づくりが抑制されていました。このと討論会は米作不適・麦食論の是非を問うもので、米作推進の立場から郁次郎が論陣を張ったことは、北垣長官の印象に強く残ったということです。
この農談会の議論は、北海道の方針転換に大きく影響を与えました。全国に冠たる北海道の米づくりで、中山久蔵が芽生えさせた芽を育て、経済的に米作が可能であることを示し、それを全道に発信したのが郁次郎でした。
大正時代の北広島④
■全北海道の開祖
北海道開拓の基盤をつくった人物と言え、その功績は1980年代以降、北海道民衆史運動が全道を席巻するまで高く評価されていました。その功績はひとえに北広島市だけにとどまらず、全北海道の開祖の一人ということができます。
これにおいて戸数合計630戸、水田420町歩、畑地700町步を有するー大村落を形成するに至れり。ああ氏の功勲もまた大なるかな。宜なり官共功を賞し27年、特に藍綬褒賞を賜はり、さらに銀盃二組を下賜せられたるをや。
氏また最も心を農に潜め、かつて札東農会理事および評議員となり、東奔西走力を会し、隆昌に致し、数々賞を受け、冋じく北海道農会長をもってその会務を掌握し、賞を受く。しかしそれ寺院の建設、学校の建立、役場の設置、道路の開削等にいたりては、ことごとく氏の私損に出でざるはなし。[13]
和田郁次郎は昭和3(1928)年11月6日、当時としては異例な長寿である82歳まで生き抜き、自ら開いた広島村で天寿を全うしました。『功労者事蹟綴』は最後にこんな逸話を伝えています。
往年氏その庭に逍遙し、もって閑を慎む。ときに丹頂あり。垂舞その園に下り、さらに動かず。氏すなわち隣人大谷盛蔵と共にこれを獲。自ら携えて東都に登り、これを宮廷に献ぜりと。霊烏もまた氏を慕ふ、あに偶然ならんや。[14]
1]『広島村史』・広島村・1960・551P
[2]同上
[3]同上
[4]同上
[5]同上
[6]同上
[7]同上
[8]同上
[9]同上
[10]同上552P
[11]同上
[12]『広島町の歩み』・「広島町の歩み」刊行会1972・47-48P
[13]『広島村史』・広島村・1960・552P
[14]同上
①『広島村史』1960・541p
②『北広島遺産ハンドブック(歴史遺産編)』12P
③『広島町の歩み』・「広島町の歩み」刊行会1972・47-48P
④『広島村史』1960・541p