北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ⑧

 

  
 

五郎 北海道開拓を決意する

 

明治22(1889)年2月、明治憲法発布の大典で明治天皇から会釈を賜るという身の余る栄を受けた年の夏、丹羽五郎は旭川を訪れます。宿願であった北海道開拓を実行に移すためです。開拓資金を捻出するため五郎はある事業を行います。それが大成功し、五郎は警察を辞めました。開拓のために五郎が行った事業とは──。
 

■開拓の決意

帝都の新進警察官僚として出世の階段を駆け上っていた丹羽五朗は、突然、警察を辞めて北海道開拓を志します。何が五郎の気持ちを突き動かしたのでしょうか? 『丹羽五朗自伝』は「ロビンソンクルーソー」の物語に感動したこと、浦河を開いた「赤心社」に興味を覚えたこと。そして、五郎の父が猪苗代の開発に従事したことを理由として挙げています。
 

我が実家の父上養家の会祖父および父上ともみな農業を好めり。五郎もまたその血統を継承し、東京にある代々木の別荘に蔬菜を栽植し、楽みとせしが、明治14~5年の頃、魯敏孫(ロビンソン)漂流記を耽読して、五郎も無人の地に殖民せんことを志し、明治13(1880)年1月発刊の津田仙氏主催『開拓雜誌』を読み、また北海道日高国浦河・赤心社起業の記事に興味を覚え、資金を造成して祖父がかつて会津藩領猪苗代において植民に従事して一村を開きし遺志を継がんことを決心せり。[1]

 
ロビンソン・クルーソーの物語に感動した──と言っている五朗ですが、明治22年の夏に旭川盆地の視察を行い北海道開拓の第1歩を踏み出した背景には、この年の明治憲法発布式典で明治天皇から会釈を賜るという栄があったことは確かです。
 
成功者でありながらその立場を捨て北海道開拓に従事した姿は、北海道開拓の推進を強く望まれていた明治天皇の明治11年の北陸行幸に随行したことが大きな動機となった江別野幌の北越殖民社社長・関矢孫左衛門と重なります。
 
「開拓」とはすなわち「起業」です。起業資金=資本が乏しければ成功もおぼきません。しかし、西南戦争の英雄とはいえ五郎は一介の警察官僚、潤沢な資金があるわけではありません。そこで開拓資金を得るための事業を起こします。
 

五郎は会津亡国の遺臣にして、祖先の余財あるに非ず。当時50円の官吏。一家6口わずかに体面を保つにすぎず。何をもってか北海道拓殖の大事業に応ずることを得ん。[2]

 

■「いろは和英辞典」の発行を企画

 五郎が開拓のために起こした事業とは出版事業でした。31歳で今でいう警察学校に入ったとき、五郎は英語の学習にとても苦労しました。肝心の辞書が、当時の人々が慣れ親しんでいた「いろは」では引けなかったからです。そこで五郎は「いろは」で単語を引くことのできる「いろは和英辞典」の発行を思いつきます。
 

明治18(1885)年の秋、警官練習所受業生たるの日、たまたま西洋字書を閲覧して、憤然、感ずるところあり。彼の辞書たる活字ならざるに非ずといえども、所要の文字を探索するに、得易きこと掌を反すに似たり。これを我国のいろは節用集、または漢語字引に比するに、その利便、はたしていかん。しかし当時いまだ「いろは」または「50昔」の順序に配列したる辞典は一つあることなし。[3]

 
普通は「こうした辞書があったらいいのにな」で終わるところですが、五郎は違います。警察官僚の身でありながら五郎は人を高橋五郎氏に執筆を依頼し、人を傭って辞書の編纂を行いました。五郎のつくった辞書の一ページを紹介しますが、公務の傍らにつくったとは思えない本格的辞典です。

なお、「いろは辞典」の執筆にあたった高橋五郎は本名、高橋吾良。越後出身で緒方塾で学び、横浜のS・R・ブラウンのブラウン塾で英学を学んだ明治期の翻訳家であり、キリスト教評論家です。ホベン式ローマ字で知られるJ・C・ヘボンの補佐として新旧約聖書の翻訳にも貢献した。
 

『漢和対照いろは辞典』① 明治21年5月発行 

 

これにおいて西洋字典に習って「いろは辞典」を創作し、一つは日本文学界に資し、一つは拓殖費に充てんことを思いたち、明治19(1886)年4月、断然これの経営に着手し、横地正邦ほか数名を雇いて材料を蒐集、配列、校正等に従わしめ、高橋五郎氏に嘱して和漢語、仮名遣い訂正取捨および英語の挿入に当らしむ。[4]

 
警察官僚としての業務の合間の仕事でしたが、五郎の企画した辞典は大ベストセラーになり、開拓に必要な資金を得ることができました。
 

『漢和対照いろは辞典』②
この和英辞典は「い」の部から始まる

 

五郎は官暇休眠の時間をもってこれを監督、『漢英対照いろは辞典』『和英稚俗いろは辞典』等を作成し、高橋五郎氏の名をもって同21年1月より2書とも4回に分ち、予約法をもって東京銀座・博聞社より出版せしめ、1日もその期限を誤らず完了し、前後無慮8000部を発売して、相当の利盆を得たり。すでに五郎は、『いろは辞典』を著作出版して、起業の端緖を得たり。これにおいて殖民地の探検をなざるべからず。[5]

 

『漢和対照いろは辞典』③
「あとがき」末尾に丹羽五朗の名前がある

 

■永山武四郎の勧めで旭川に

明治22(1889)年の夏季休暇を利用して五郎は北海道に渡り調査を行います。真っ直ぐに北海道長官永山武四郎を訪ねることができたのは、永山武四郎も屯田兵を率いて西南戦争を戦った戦友であったからでしょう。
 
永山にしても西南戦争の英雄である五郎をよく知るところだったでしょう。すぐに川上少将の上川探索に同行を許し、上川であれば第7師団の予定地と雨竜の華族農場の予定地以外であればどこでも貸し付けると言いました。
 

明治22(1889)年7月の暑中休暇を利用して11日出立。北海道の札幌に赴き、道庁長官永山将軍に面会し、来意告ぐ。将軍曰く「幸い川上少将、明日上川(旭川) に行く。同行あれ。上川の師団用地と華族方に与約したる雨竜とを除く他は、いずれても貸付せん」と。[6]

  

永山武四郎④

 
ここで永山長官が同行を奨めた川上少将は、薩摩出身で明治陸軍の三羽烏とされた川上操六でしょうか。日清戦争の参謀総長ですが、この時は少将で、五郎と同じく西南戦争で軍功を上げています。五郎は少将の視察に同行しますが、屯田兵村の開設はこの2年後、旭川はまだ深い原生林でした。
 

ただちに同行して上川に赴きたり。道路は空知、月形両集治監の囚徒をして開墾せしめ、道路はところどころ竣工せしも、橋梁はいまだ落成せず。途中馬上にて進行し、ー~ニ泊のうえ上川に達す。
 
上川には測候所一箇所のみにて、他に人家とてはあらざりし。五郎は川上少将と測候所に同宿し、はじめて土人の踊りを見たり。
 
帰途は神居古潭の急流を土人の操る丸木舟にて下り、これより川上少将に別れ、道庁に到り、長官に挨拶して帰京したり。[7]

 

川上操六⑤

 

■瀬棚郡利別原野の探検

上川盆地を視察した五郎ですが、交通の便の悪さに入植を断念します。そして翌年東京にいた永山長官を訪ねて、別な入植地を推薦してもらいます。
 

翌明治23(1890)年5月、五郎は滞京中なる永山北海道庁長官を京橋の対館山に訪ひ、上川方面は交通不便にして、無資力者の起楽すべき所にあらざれば、他に適当な埸所を得んことを乞べしに、長官は随行の浅羽理事官を呼び、五郎の意を伝えられる。[8]

 
永山長官は五郎の依頼を受け容れ、部下によい入植地を推薦するように指示します。ここで呼ばれた浅羽理事官は「北海学園の父」と呼ばれた浅羽靖でしょう。
 

理事官言う。「後志国瀬棚郡に利別原野あり。土地肥沃、気候温順なり。君、行きて見よ」と。五郎は厚意を謝して別る。7月、再び暑中休暇を利用し、12日に東京を出立し、北海道函館より順路久遠郡役所に到り。[9]

 

浅羽靖⑥

 
明治23(1890)年の夏、五郎は地域のアイヌの人たちが漕ぐ丸木舟に乗って後志利別川を遡り、浅羽靖が推薦した今のせたな町丹羽地区を視察しました。
 

郡長林顕三君の厚遇を受け、添書を得て、瀬棚村戸長役場に着し、三本杉の木の下旅舍に投宿し、戸長磯松年太郎君の采配により、書記西定一君の案内にて、土人両名を雇い、丸木舟にて利別川を遡り、途中一夜露宿し、支流めな川を遡り、ぽんめな川落合にある鮭ふ化場に着し、探検に着手したる。
 
平地は一面草木繁茂して、馬上の人を没する有り様なれば、西方の山に登りて展望したるに、これまた樹林密接天を蓋いて見る能はず。よりて居ること1日、大体を観察して瀬棚に還り、磯松戸長、中西書記と分かれ、久遠にて林郡長に復命して順路帰京せり。
 
帰京の後、10月17日付をもって『利別原野殖民旨趣書』なるー小冊子を印刷して一部の人々に配付せり。[10]

 
この頃の後志利別川は、五郎の言う「樹林密接天」という状態でしたが、五郎はこの地に可能性を感じ、この地を開拓する決意を固めます。明治23(1890)年7月のことでした。
 

瀬棚の三本杉岩⑦

 
 

 


 

【引用出典】
[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]丹羽五朗『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団
①②③国立国会図書館デジタルコレクション
④⑤https://ja.wikipedia.org
⑥学校法人北海学園公式サイトhttps://www.hokkai-t-u.ac.jp/about/founder.html
⑦せたな観光協会「せたなナビ」http://setanavi.jp/search/sightseeing/18.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。