【八雲】尾張徳川家の北海道開拓 (3)
旧家臣団の入植 都築省三『村の創業』から
移住の上は相互に団結、北海道を墳墓の地と定め顧後の念慮を断つべし──。そう誓い合って旧尾張徳川家の家臣団は北海道に移住を決意します。明治11(1878)年秋、第一陣82名が北海道に渡ります。この模様を大正6(1917)年の都築省三『村の創業』から紹介します。
■徳川慶勝「八雲」の名前を与える
吉田知行の報告を受けた徳川慶勝は、明治11(1878)年5月、遊楽部官有原野15万坪の無償払下げを出願しました。このとき、慶勝は「八雲」という名前で出願しています。これは「古事記」の
や雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を [1]
という詩の冒頭からとったものとされています。この詩は須佐王命が結婚のために家を新築する喜びを歌ったものです。
同年6月13日、出願が認められると直ちに準備かかり、吉田知行ら9名が選ばれて先遣隊として現地に派遣さました。先発隊一行は東京品川から船で函館に到着。準備を整えたのち路で現地に入り、現地調査、区割りや仮小屋の建設などの準備を行い、本隊の到着を待ちました。
そして明治11(1878)年10月と11月、2班に分かれて尾張徳川家入植団の第一陣15戸72名・単身者10名の合計82名の移住が行われます。どのような模様だったのか、都築省三『村の創業』から紹介しましょう。
■都築省三の『村の創業』
都築省三著【村の創業】
『村の創業』は大正6(1917)年に実業之日本社から出版された本で、雑誌記者としての訓練を受けた筆者の都築省三が幼少期から父母に聞いた記憶、親類縁故、村の古老等に取材して書き上げた八雲村誕生のドキュメンタリーです。省三は出版の前年に亡くなっていますから、遺作でもありました。
『村の創業』は都築省三の少年時代のこんな回想から始まります(本サイトでは財団法人満洲移住協会・昭和19年版に拠っています)
私の家め畑は、家から10丁程離れていた。それは太古のまま深林の中にできた村のうちでも、ずっと奥の方で山の下だった。
畑の仕事が忙しくなると、私は小学校を休んで、よくその畑に手伝いにやらされた。そのんなとき、短い半纏に股引、小さい草履を履いて、休んだ学校の前をとぼとぼとして通ると、学校横の小川で、ヤマベを取ったり、石を起こして猿蟹を取ったりしている生徒の1人が、私を見つけて走ってくる。
「省さん、なぜに学校に来んの? 省さんが来ぬとちっとも面白うない」
こう言って私の首を抱く。首を抱かれて、友達の肩に手をかけた私の眼からは熱い涙がはらはらと落ちるのだった。
友達の面白く遊んでいるところを、見返り見返り、畑へ行く途中には、いつも五月豆や南瓜の草を取っている腰の曲がったお婆さんがいた。私は遠いところからお辞儀をすると、お婆さんは額に手を拭って
「まぁ誰かとおもえば、おお、省様か、お畑の手伝いかえ。偉いこと、偉いこと」
と言って褒め下さる。いやいや畑に行く私は褒められるのが恥ずかしくて、その前を走った。
自分の背の倍も、3倍もあるオオイタドリや野原の怪物のやうなオオウドなどが茂って、雜草のトンネルになった道を通って、そういいう野原と林との間に、黒く土の起された畑へひょっこらと出ると、そこには白い手拭を被ったお母さんや、茶色の帽子のお父さん、そえから編笠の雇い女や、帽を被らぬ赤黒い顔の雇い男などが働いていた。
お母さんは、国から来た本当の百姓の雇い男に種の蒔き方を撒き方を教えてもらって種まきをしたこともあった。お父さんは馬に馬具を付けて私が行くのを待っていた。私はお父さんの馬の口取りをするのだ。
畑の四方は、丈の8尺も1丈もある雜草の野原に囲まれて、そこらに人の家などは1軒も見えなかった。わずか雑草の草原と林の間に青い海が見えて、そこに5~6隻の漁船が見えることもあれば、遠い遠い沖合を、黒い蒸気船が通っていくこともあった。お母さんは、
「ああいう蒸気船に乗って、私たちはここに来たのだぞよ」
と話されることもあった。 [1]
明治18年頃に撮影した八雲の風景(現自衛隊八雲駐屯地付近)①
■幕藩時代の地頭と百姓
省三少年は学校も満足もいけない開拓農家の子供であったが、老婆が「省様」と様付けするところに武門の出であることがわかります。『村の創業』は都築家について詳しく述べていませんが、名門であったことがこんなシーンから伺えます。
庄八は武家時代に私の家の大祖父様の家の百姓だったそうだ。春まだ雪の消え残っている頃に、庄八は私の家へ大祖父様さんを訪ねてきた。
「私は尾張の勝川村の裸庄左の息子の庄八でございますが、旦那様には御機嫌よろしうござりますか」と、縁側の下の土の上に座ってお辞儀した。私は土の上に座ってお辞儀をする人を始めて見てびっくりした。
なぜあんなことをするのかお婆さんに聞いて見たならば、昔の百姓がお侍の前に出ると、皆ああしたもので、あれが土下座と呼ぶのだと言われた。私は障子の影に隠れて黙ってその様子を見ていると、
「おお、貴様が庄八だったかえ。大分爺になったのう。よう御座った」
お大祖父様は鷹揚に構えてお辞儀らしいお辞儀もしない。私はお祖母さんの昔話によく聞いていたお地頭様と百姓とを今初めて見たのだ。[2]
ここに出てくる庄八は都築家の開拓が成功し農園が安定した頃に名古屋から家族を引き連れて都築家の作男になりました。また「大祖父様」は横井牧多といい、筆者の父の母方の実父です。都築貞寿の父は早く亡くなったので、横井牧多が父代わりをつとめていました。そこで都築貞寿は世話になった横井牧多の世話をしたいと八雲に呼び寄せたのです。幕藩時代は尾張藩の御使番頭という要職にあったといいます。
■移民団 名古屋港出港
前編で紹介した事情により、尾張家臣団は北海道開拓に臨むことになりました。『村の創業』、まずは第一陣の名古屋港の出港シーンから。
黒く古びた船宿の2階から海を眺めると、遠浅の沖合には北海道庁から回された蒸汽船が客を待って遠い所に留まっていた。強い日光に照らされた海には嘲るように白い波が立って舷をなめている。
つと海を眺めている老人達の頭には色々の事が思い出されて、お江戸へ観した時の水盃とは異なって、いまだ覚えた事のない深い離別の悲しみが込み上げてくる。[3]
明治4(1871)年、明治新政府は旧大名の当主に対して東京に移り住むように命じます。当時、名古屋県知事であった徳川慶勝もこれに従い4月10日、東京浅草に用意された邸宅に移りますが、このとき多くの家臣が東京へ移りました。慶勝の側近で構成された八雲移住団の先遣隊9名も東京から北海道へ向かいました。「お江戸へ観した時の水盃」は東京に移る仲間との別れの水盃と思われます。
今まで「坊や、坊や」と天塩にかけて育てた子供を、雪と氷に埋もれて熊と狼の住む蝦夷の林の中へ送りだす黒い海の上には、我が子を奪っていくただー隻の汽船が待っている。今だ頭には髷(まげ)の残った、子を送る老人の頬には自然と涙が伝わった。
「ああ、もうこれでお別れかのう──」
「時々便りをしておくれよ」
「それでは……」
改まって挨拶をし、膝を直して顔を眺めるとまた涙が流れる。そっと横を向いて、鼻をかむ老人がある。手拭いを出して瞼(まぶた)を押さえる青年がある。じっとこの涙をおし忍んで、しばらく沈黙が績く。静かに波の音のみが響いている。
この悲喜劇の一幕のうちに、船は一行を乗せて錨を上げた。岸に残った近親の人々は、雪と氷に埋もれた、熊と狼の住む中へ死に行くように思われるよう人々を見送って、手を振っては、おーい、おーいと叫んだ。
船に乗った人々も、また再び踏むことのできるようには思われぬ故郷の山河を踏み、この所に残った親族を顧みて、帽子や、手拭いを見えなくなるまで振った。こうして第一の移住者は北海道へ送られた。[4]
■老婆の悲劇
一行は開拓使が差し向けた「ケプロン号」に乗って函館に向かいますが、10月と11月に分かれて行われた移住の人員は割り振りはっきりしません。おそらく「ケプロン号」は函館~名古屋を2往復する間に月をまたいだものと思われます。後続が到着すると第一陣は馬と徒歩でユーラップに出発しました。
ほとんど冒険的に故郷を出た移住者の一行は、間もなく函館へ着いたが、それから新植民地へ行くべき野には、道らしい道もない。川にはもとより橋は架かっていなかった。それでも函館から森港までは、熊の出る、峠越しの細い道があった。森港から先、新植民地まで8里の間は、林でない所、藪でない所、海岸がすなわち自然の道路であった。
馬に荷を着けて、自分もその上に跨って川を渡った。川はもとより海岸であった。おり悪く海から起こってきた大波が馬ぐるみお婆さんを海の中へ引き込んで行ってしまった。その頃は無人の境の多い北海道である。どこにも舟もなければ、人もない。馬子も、他の旅人も、ただ手に汗を握って、悲鳴を上げながら馬と共に沈んでいくお婆さんを見ている他仕方なかったということである。
そんな風で、今後第二の故郷と定むべき目的地へ着いてみた。が、そこは海岸にアイヌの家が2~30戸と、日本人の家が10軒ばかりあるばかりだった。[5]
昭和初期の八雲の前浜②
函館から出た一行は遊楽部まで歩きました。一行の家族持ちの中には老人と子供を函館に残して向かう者も多かったようですが、波に飲まれた老婆のようなケースもありました。馬に乗せたことが仇となったようです。記録では第一陣82名は、同年中「死亡者1人、出生5人」となっています。死亡者1人がこの気の毒な老婆であったのでしょう。
第一陣の八雲到着を紹介した『村の創業』の「骨を埋めるべき第二の故郷」は、次の詩で終わっています。
我が君の御言葉かしこみ荒熊の 羆伏す野に庵してけり 角田 弟彦
山かげに板屋ののきに音たてて とちの実まじり降る時雨かな 吉田 知行 [6]
開拓記念の栃の木③
最後の写真は雪の中の栃の木ですが、遊楽部に着いた吉田知行ら先遣隊が最初に目にした巨木で、この枝にテントを吊して準備作業を行った記念の木です。老木のため後年伐採されましたが、開拓の記念として大正13(1924)年の「八雲村創業余録」に納めるために撮影されました。最後に紹介した吉田知行の詩はこの栃の木の下でおくった仮小屋生活を詠んだものと思われます。
【引用出典】
[1]『改訂版八雲町史』1983・133p
[2]都築省三『村の創業』1944・財団法人満洲移住協会発行・3~5p
[3]同上・187~188p
[4]同上・18p
[5]同上・20~21p
[6]同上・21~22p
①②③徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』2014・吉川弘文館