北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【八雲】尾張徳川家の北海道開拓 (4)

名古屋コーチンと八雲を結ぶもの

 

明治11(1878)年の第一陣に続いて尾張徳川家旧家臣団は、明治12(1879)年8月に第二陣が八雲に到着しました。この第二陣を八雲の浜で迎えたのは、尾張徳川家当主・徳川義礼その人でした。前回に続いて都築省三の「村の創業」に基づいてその様子を紹介します。
 

■第二陣の出発

先発の人々が道を拓いたり、家を造ったりして待ってくれている間に、第二回の移住民はまだ国にいて、先祖代々住み馴れた士族屋敷を売り払ったり、荷物をまとめて移住の準備に忙しかった。
 
親類の人のは、荷物を多く積み上げて暇乞いに来ては別れを惜んで涙を流した。中には移住者の家に老人でもあると「こういう老人を北海道のような寒い所へ連れて行くのは、殺しに連れて行くようななものだ」と誠心から忠吿に來た人もあった。
 
そういうなかにあって思い切って第二回の移住者がから船出したのは、明治12(1879)年7月の中頃であった。このとは笫1回の移住者が国を出てから1カ年を過ぎていた。船の中に11家族の人々がいた。都築の一家もその中に入っていた。
 
船は故鄕の山を遠く霞のうちに残して、伊勢湾を出て、だんだん夜にかかってくると、
 
「お母、大須へ行こう、大須へ行こう」
 
と吉田の文坊がお母さんの膝で、やんちゃを言い始めた。
 
「お前ここはお船の中だぞよ。大須へはもう行けぬわな。お前は知らんせんがお船は北海道へ行ってしまうのだぞよ」
 
お母さんが言い聞かせても文坊には分らない。
 
「い、や大須へ行く、大須へ行く」
 
という文坊は泣き出してしまった。文妨のお母さんは人々に気兼ねして「大須へ行こう」と泣き叫ぶ文坊を背負って甲板に出た。
 
また再び見ることのできないと思はれる、名古屋の町で賑かだった大須を思い、文坊が海の上で泣く微かな声を聞くと、無暗に得も知れぬ涙が浸み出して来るようである。いまさら賑かな故郷の町を後にして、寒い、無人の北海道へ行く船に乗ったのが悲しく、後悔するようなな気も、どこかの片隅に湧いてくるが、すでに乗り出した船は、文字通りに後へは返らなかった。[1]
 
明治12(1879)年に出発した尾張徳川家旧家臣移民団第二陣は家族持ち14戸、単身者4名という構成です。ここで紹介している『村の創業』(1917)の著者・都築省三の一家もこの時入植しました。
 
都築家は、当主の都築貞寿はまだ若く20歳。まだ「子供気の抜けぬ」妻と一緒でした。母と、早くに亡くなった父の代わりに母方の父が一緒でした。前回紹介した横井牧多という元名古屋藩御使番頭です。この他に都築貞寿の弟・田鶴松が第一陣に加わって先行していました。この人は後に横井牧多の養子となって横井性を名乗ります。
 

幕末期の名古屋
名古屋城三之丸から北部を撮影したものと思われる①

 

■八雲へ到着

こうして行くうちに船は北海道の新植民地へ着いた。それは明治12(1879)年8月1日であった。
 
遠くに見える緑の山の麓は鬱蒼たる林の海に覆われている。海岸にははわずか7~8軒の家とまばらなアイヌの小屋とが見えるばかりだった。船の着いた海岸から2~3隻の小船が出てきた。小船には白い服の男が乗ってアイヌが漕いでくる。
 
「お母さん、あれ田鶴松だ!」
 
と言うと
 
「まぁ田鶴松が来てくれたかよ」
 
田鶴松は都築の弟で、去年第一回の時に移住した今年16歳の少年である。都築の母は飛び立つように喜んで手を振った。田鶴松の方でも、それが分ったと見えて、しきりにアイヌの漕ぐ船を急がして両手を挙げて「おーい! おーい!」と叫んでいる。
 
田鶴松の後に績く小舟の人々も、汽船の甲板に立った移住民を見て「おーい! おーい!」と呼ぶ。移住民の方でも1年ぶりに、この無人の海岸に立った肉類や、知人の健康な様子を見る嬉しさに、手を振り声をあげてそれに応じた。
 
「まあ、あれがアイヌだぞす」 
 
小舟が近づくと、毛だらけの顏の中に眼が光って、胸に毛の生えたアイヌが怖ろしかった。けれどもアイヌは母の袂に隠れる都会から来た子供を見て
 
「おお、めんこい、めんこい」
 
と日本の言葉で言って、親切に荷物を小舟に下ろした。出迎えた人々は、誰彼の差別なく、老人や女子供の手を取って小船へ移した。には第一回の移住民が皆出てきて待っていてくれた。
 
皆はー家族のように迎へられて新世界にほっと安心をして宿へ着いた。この日は空にー片の雲なく、北海道には珍らしい暑い日であった。
 
「北海道もなかなか暑いではないかよ。寒いといっても、これならそう心配することもない」 
 
人々はこれにも安心して、裸になったり、肌を脱いだりして風を入れた。[2]
 
都築田鶴松とアイヌが移民団を迎えたこのシーンは、明治10年代の尾張徳川家の八雲開拓はアイヌの人々と良好な関係のもとに行われたことがわかるエピソードです。この『村の創業』を読むと端々に尾張徳川家の開拓がアイヌの人々の協力の下に行われたことが分かります。
 
今、明治の北海道開拓はアイヌの人々の意向を無視した「一方的」なものという言説がなかば定説になっていますが、実際にはアイヌの人々は開拓者を温かく迎え入れたのです。
 

八雲のアイヌコタン②

 

■徳川義礼の出迎え

そうしているうちに、ここへ先着をして移住民の到着をお待ち受けになっていた旧藩主の義礼侯がお出になるという知らせがあった。
 
皆は狼狽して肌を入れたり、襟を正したりしたが、中には着物を抱へて、隣の部屋へ飛び込んで、襖を押へて帯を縮めるようなのもあった。
 
義礼侯は、慶勝公の養嗣子で、当時は旧張徳川家の当主であった。この時は大君の命を受けて開墾地視察のために自ら渡北せられたのであった。[3]
 
先行にして北海道に渡っていた尾張徳川家当主・徳川義礼(よしあきら)が突然、移民団の前に現れ、移住者を驚かせました。八雲開拓を計画した徳川慶勝は明治16(1883)年に亡くなっていますから、実際には徳川義礼まだ家督を継承していませんが、『村の創業』では「当主」として描かれています。
 
徳川義礼は文久3(1863)年、讃岐高松藩主松平頼聰の次男として生まれました。徳川慶勝の世継は第16代当主・徳川義宜(よしのり)ですが、明治8(1875)年18歳で亡くなっています。そこで慶勝は当主に復帰して第17代となります。そして明治9(1876)年に徳川義礼を養子として迎えました。八雲で移民団を迎えたときには、すでに当主として働いていたのでしょう。
 
明治12(1879)年、前年の秋に第一陣15戸が入植していたとはいえ、まだまだ未開の森林が続く原野であったでしょう。危険も予想されるそうした場所に、徳川御三家の当主自ら足を運び、移民団を迎えたというのです。
 
『村の創業』は「大君の命」、すなわち明治天皇の意を受けての渡道だったと伝えていますが、尾張徳川家新当主の北海道開拓に懸ける並々ならぬ決意がうかがえます。
 
移民団を迎えた義礼が何を言ったのかはを『村の創業』は伝えていませんが『尾張徳川家による八雲村の開墾』はこう伝えています。
 
この年には義礼候が初めてご来場となり、視察された後、移住民一同へとご沙汰があった。その沙汰は吉田委員より要旨が口達された。すなわち「古来より開墾が成功するか否かは、移住民の努力にかかっている。もしも努力を怠って失敗となれば天下の笑いものとなるだけでなく、北海道の発展の妨げともなろう。そこで徳川家にはあくまでもご尽力下されるとの御思召であるから、それをわきまえて一層、業務に精進してほしい」というものであった。[4]
 
徳川義礼は正式に尾張徳川家当主となった明治14(1881)年に開拓使長官黒田清隆とともに八雲を訪れてから、明治16(1883)年から毎年、八雲を訪れ移民たちを励まし、数々の支援を行い農園の成功を後押ししました。八雲の生みの親が徳川慶勝であれば、育ての親は徳川義礼でした。
 
続いて『村の創業』は、尾張徳川家による八雲開拓がどのような背景から行われたかを「創業の淵源」と題して述べています。当時の尾張家臣団の真情がよくわかります。
 

徳川義礼と良子夫人③
明治21年頃、このとき義礼26歳、良子20歳

 

■創業の淵源

いまここで開墾地創業淵源について考へて見れば、それには維新の政変に対するいくたの事情が連綿していたのである。
 
尾張は幕府の親藩でありながら「大義滅親」の義を唱えて尊王の旗下に集ったが、いざ王政復古の大業ができてみれば、それは幕府に代るに一部の或者をもってするに過ぎなかったかのごとくにも思はれた。
 
そしてこの一部の或者が天下の政権を握ることになってみると、先に尊王攘夷の旗を翻して幕府の天下を覆した彼等はここにおいて心機一転、主義貌変、昨日を倒した攘夷の剣を払って断髪を強い、洋化を奨めることになった。それがために攘夷論はあたかも幕府を倒すー種の方策であったかのごとくにも思はれんではなかった。
 
一途に尊皇の大義を唱えて、王政復古の大義に加しながら、維新後の大業に加しながら、維新後の政権にくちばしも入れることもできず、また大義のために涙を流して倒した幕府の、今にしては正当とも見らる政策に反対して立った彼等は、その欺かれた如くなるを見、また一部の或者が握れる政権のややもすれば橫暴ならんとするを見て、心中憤懣の情鬱勃として止み難きものがあった。こうして純なる武士の心頭に発した憤はいつ破裂するとも知れなかったのである。
 
が、時勢は終に西南戦争も勝敗の決を吿げて、天下の大勢は第二維新の不可能を彼等に悟らせると共に世界の形成は国内一致と国家存立の基礎となるべき産業の勃興とを必要とした。また北方よりくるロシア国の圧迫を感ぜずにはおられなかった。
 
この時国家を思い、民族的誠忠の心は自己の不平を捨てて、真に国家のために彼等の行くべき道を考へねばならなかった。ともかくも北海道の沃野は、境をロシアに接して、無人の深林に覆われた。日本の北門に横たわっていた。彼等の眼は自然そこにに注がれた。
 
かの昔、イギリスの不平家がアメリカの新天地を見付けて、その深林に移住した道は、徹頭徹尾、自己を本位とした自己の道であったが、これは自己を超越して民族の大生命を思う温情の道であった。この民族的大生命を思う温情は、日本の不平家をして終に北海道を見いださしめたのである。
 
早くもこの事に思い到った慧眼なる彼らの首領とも目さるる人々には、吉川知行、海部昂藏等の数人があった。この時、吉田知行は静かに野に耕し、海部昂裁は同じく帰田し、私塾を開いて、彼等の子弟を敎へていたが、ついに彼等は事を明君慶勝公に謀った。
 
かねて天下の形勢に憂慮しておられた公は、それ聞いて1も2もなくその計画を嘉納せられた。そして不平等に加え、禄を放れ、処世の道に迷っていた旧藩士をもってして、北辺開拓、産業奨励の名の下、自家の歳入から金額を割いてその計画に当てられてたのである。[5]
 
この中に出てくる海部昂蔵(こうぞう)は尾張徳川家の家老で、第76代内閣総理大臣・海部俊樹の曾祖父です。『村の創業』では、尾張徳川家の北海道開拓は、この海部昂蔵と吉田知行の二人で企画されたことが語られています。
 
二人は尾張徳川家の旧家臣団をまとめる立場にあり、北海道に渡った吉田知行に対して海部昂蔵は地元名古屋での旧家臣の帰農をすすめ、士族の農業振興策の中から名古屋コーチンを生み出しました。
 
海部昂蔵は、明治16(1883)年、吉田知行が徳川家の家令に命じられて上京すると、代わりに八雲に入って徳川農場の代表委員に就いています。そして明治17(1884)年、徳川義礼が欧州旅行に出発すると随行を命じられ、片桐助作と代表委員を代わりました。その後、私立明倫中学の初代校長を務めています。
 

明治18年頃の八雲・徳川農場④

 

■名古屋コーチンと八雲ハーベスター

歴史は面白く、名古屋コーチンは日本で初めて生み出された養鶏ブランドで、尾張藩の砲術指南であった海部壮平・正秀が中国から輸入したコーチンと在来種を掛け合わせて生み出したものです。
 
兄弟は海部昂蔵の親類で、昂蔵も尾張徳川家の家令として二人の挑戦を積極的に支援しました。尾張家旧家臣団の授産という目的から生み出されたいうことで、八雲町と同じ起源を持つものなのです。
 
今、八雲町には「ハーベスター八雲」というフォームレストランがありますが、これは昭和63(1988)年に日本ケンタッキー・フライド・チキンの創設メンバー大河原毅氏が創設したもので「国産ハーブ鶏発祥の地」となっています。
 
大河原氏が尾張家臣団の血を引いているとは聞いていませんが、名古屋コーチンの生みの親である海部昂蔵が代表委員を務めたこともある八雲農場の継承地で国産ハーブ鶏が発祥したことに歴史の縁を感じざるをえません。
 

八雲ハーベスター⑤

 

 


【引用出典】
[1]都築省三『村の創業』1944・財団法人満洲移住協会発行・26~28p
[2]同上・28~29
[3]同上・30p
[4]高木任之『尾張徳川家による北海道八雲村の開墾』2005・自費出版・141p
[5]都築省三『村の創業』1944・財団法人満洲移住協会発行・31~36p(一部略)
①③④徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』2014・吉川弘文館
②函館中央図書館デジタルアーカイブhttp://archives.c.fun.ac.jp
⑤[ハーベスター八雲]公式サイト https://harvester-yakumo.com

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