北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【八雲】尾張徳川家の北海道開拓 (5)

徳川旧家臣団、はじめての冬を迎える

 

尾張徳川家最後の君主・徳川慶勝により八雲に拓いた旧尾張藩家臣団を都築省三著『村の創業』(1944)により紹介してきましたが、いったん今回で締めます。都築省三の一家が属した第二陣は、明治12(1879)年8月に現地に到着しました。そこで出迎えたのは畏れおおくも新当主・徳川義礼その人でした。この第一歩から都築家を中心に翌春までを紹介。

 
 

八雲市街全景①

 

■移住民、それぞれの家へ

故郷を離れた悲しみや、新しい土地に向かう不安は人々の上に覆いかかる暗雲のごとく、何となくその心を暗くしていたが、しかし新生活を渇望すろ彼等の心は、女、子供や老人に至るまで一種の元気に燃え立っていた。
 
第2回の移住者の船の着いた日、徳川義礼侯は川でアイヌに鱒(ます)を捕らせて、新しい移住者たちに見せられたが、溌剌と網中で踊る多くの魚を見て、若い者は川へ飛び込んでそれを手捕したい程にも思った。子供は手をたたいて悦んだ。老人は膳に上った鮮魚の味に舌鼓を打った。
 
さて、いよいよ銘々の家へ入ることになて、案内されて、宿を出ると、先着の移住者が作っておいてくれた道は土もまだ軟らかかった。その両側には背よりも高い1丈(約3m)もあるオオイタドリが隧道のように生茂っていた。オオイタドリの林の中からはこの日鱒を捕った遊楽部川の洋々と流れる水音が徴かに聞こえてくる。
 
14~5丁もいくと行く手は林であった。その林の中に新しい木の香のしそうな白い家が1軒見えて来た。それは移住民に物資を供給する事務所兼倉庫の板倉であった。そこには都築の弟ら独身の青年5~6人が住んでいた。
 
そこからまた5~6丁行くと、叢(くさむら)と林を分けて新しい家が2~3丁(1丁=1町=99アール)毎に1軒づつまばらに建っていた。移住者はその1軒1軒へ別れて入った。手伝いの人に荷物を運んでもらって、いざ住み込んでみると煮焚する井戸の水はまだ新しくて土の臭がした。
 
都築の家は、まだうら若い二十歳になったばかりの主人の都築を加えて5人であった。5人の家族は新しい家に着いて、新しい夜に入った。[1]
 
明治12(1879)年8月、八雲に尾張徳川家旧家臣団の移民団の第二陣(14家族・単身者4名)が到着しました。『村の創業』筆者である都築省三の父貞寿もこの一人でした。最初の二年間は試験機関であり、第一陣と第二陣は特に人柄の確かな人が選ばれました。渡航費用、1戸につき1万坪の土地、住居は徳川家の開墾費用から支給され無料でした。さらに当初の三年間は米と副菜が支給されています。この費用は5年目以降30年賦無利息の償還となっていました。
 

徳川家開墾地事務所と八雲小学校(明治19年頃②)

 

■はじめての開墾 

背よりも高く生い茂った草の根に、力任せに磨ぎ澄ました鎌を当てると、それがパタパタと面白く薙ぎ倒される。木のような萩の根を鍬で掘ると咲いた花がばらばらと雲のように散る。それを地に敷いたまま5~6日も炎天に乾して、火を付けると面白く燃えていく。
 
燃えた後を唐鍬で起すと、色々な木や草の根が出てくる。それを振い出して土を軟めると、太古の深林の中に新しい土の畑が次第にできていく。骨を折れば折るだけ自分の領土が殖えていく。自然の征伏だ。その仕事は面白かった。わずか1カ月程前までは振袖を振って踊りを習ったり、琴を調べたりした若い子は、土にまみれて肉刺(まめ)ができても疲れるとその痛さは忘れてしまった。
 
こうして2~3畝(1畝=30坪=99㎡)できた畑に、都築の家では秋が近かったから野菜や大根を蒔いた。が、初めはその種をどうやって播くかをよく知っている者は誰もいなかった。それでも都築の家で一番よく知った者は都築の祖父であった。組父は廃藩後すぐに田舎に引込んでいたのに、元来研究心の強い人であったので、そんなこはよく知っていた。それで蕎麦(そば)は土用の幾日に蒔くとか、大根はそれより幾日後れて蒔くとかいって種蒔きの指図をした。
 
こうして自分の拓いた領土に自分の種を播く。二草が出てくるとそれが非常に楽しいことであった。都築の祖母は毎日畑を見回って草が出て来るとそれを摘み取った。[2]
 
明治11(1878)年に入植した第一陣は、農業の対する知識が無い士族です。開拓使がこの移民団に寄せる期待は大きく開拓函館支庁が全面的にバックアップしました。第一陣の入植は11月でまったく農作業ができなかったことから、第二陣はすこし早めて8月の入植となりましたが、取りいそぎ自宅周辺の草を刈って簡単な作物を植えた程度で1年目は終わりました。またこの年には八雲小学校と熱田神宮のお札を受けて社を作り、事実上の村づくりの始まりとなりました。
 

尾張徳川家開墾地の様子(明治19年頃③)

 

■行き倒れの危機をアイヌに救われる

いよいよ移住者の怖れた冬は来た。
 
常緑樹の少ない北海道の平野の林は木の葉が皆落ちてしまった。木枯となった梢には、あたかも砂を巻き上げて吹く砂漠の風のように、粉雪を巻き上げて吹く寒風が轟々と悲しげに鳴り渡った。軒先には1晩2尺も3尺も降った雪が深く閉ざして、2~3丁も離れた隣の家とは交通も絶えてしまった。
 
その大雪のある朝、都築の家では「晩に炊く米がない」と言いだした。移住早々函館から船で来る米を事務所で受け取ってくる他に食べ物は何もなかった。
 
都築は藁靴に身を固めて家を出た。腰より深い雪を分けて事務所まで行ったけれども、事務所にも米が無かった。この大雪に事務所でも浜まで出て米を取りに行くことができぬのであった。
 
米が無ければ5人の家族が餓えなければならない。都築はここからまた14~5丁の道を雪を分けて浜まで米を取りに行った。ようやく1斗足らずの米を袋に入れて帰路についたが、来た道は吹雪に吹き飛ばされて跡形もなかった。来た時には足を没した雪も、帰りには米の重みで股を沒し、腰を沒した。
 
ようやく雪を分けて2~3歩あるくと、履き馴れぬ右の雪履と左の雪履とは雪の中で絡み合って、米を背負ったまま雪の中へ転んでしまう。頭から背中から粉雪にまぶかって真っ白な雪だるまだ。
 
5~6丁は来たけれども、日はすで雪に覆われた西の山の上に傾いている。その力ない日光を遮って雪雲は西から東に飛ぶ。都築はそれを仰いでは何度も米袋を雪の中へ投げ入れようとしたが、この米
が無くては4人の家族を飢えさせると思うとそれもできなかった。
 
それでもあまりの重さにただ米袋を雪の中に下ろして休むと、その米袋の跡だけ雪の中に溝ができた。都築はそれに力を得て、米袋をまた雪の上に投げつけると、そこにまた米袋だけの道ができた。こうして米袋を雪の上に置き置きして進んだが、ほどなくしてそれにも力が尽きてしまった。
 
こうなると額からは汗がにじみだす。彼はただそれを拭き、傾いていく夕日を仰ぐのみだった。と、そこへ背中から
 
「旦那、そんなことして歩けなかべい。おれが背負ってくれべいか」
 
と突然後で声がした。振り返へるとそれはマナコというアイヌであった。
 
「やあ背負ってくれるか。有難いな」
 
都築は実に嬉しかった。雪に馴れたアイヌは米袋を背負っても空身で疲れた都築よりは足が早かった。
 
こうして家に帰ると心配をしていた人々はほっと安心をして悦んだ。都築の妻は雪だるまのように真っ白な都築の後へ回ってほうきで雪を払い落とした。母は炉に火を焚いてアイヌが何より好きな酒を出した。アイヌは髭だらけの顔の格好を崩して喜んだ。そうして夕月の影に吹雪の通る雪原をほろ醉いの足取りにアイス語の小唄を歌って帰っていった。[3]
 
『村の創業』筆者の父都築貞寿が吹雪で遭難しかかったところをアイヌに助けられた話が紹介されています。冒頭に徳川義礼がアイヌによる鱒漁のデモンストレーションを移民団に見せた話が紹介されていますが、商店もなく食品流通が望めない当時、貴重な動物タンパク質の入手方法を先住のアイヌから学んだのでしょう。
 
農業にも北海道の過酷な自然にも不案内だった尾張徳川家旧家臣団の成功を手助けしたのがアイヌの人たちでした。北海道開拓、とくにその前半はアイヌの人々との共同作業でした。私たちはアイヌの方々に感謝しなければなりません。
 
 

■巨木伐採

斧の音は、一万古未だ斧鉞の入らなかった深林の木から木に響き、木魂から木魂を呼び起した。
 
この不意の出来事に、数百年来処女林の奥深くに住み馴れた山雀や小雀の驚きはまたひとしおであった。かつかつと真っ黒な幹に食い入る斧の下からは、白い木片が跳ねて、ぱつぱつと雪の中へ飛ぶ。雪の積もった白玉の枝からはバラバラと花の散るように雪が散る。
 
深林の山雀は隱家を破壊される音に居所を失って、今や倒れんとする木の枝から枝を飛び廻る。鋸の昔がざぐざぐと響いて、数百年の生命を築いた木の幹に喰い入っていくと、今や倒れようとする木は傾いてミキッという音を立てる。
 
この音を聞くと木を切っている者の心臓は、どくっと高い鼓動に打たれる。木の下につぶされようものなら、数百年の生命を築いた大木と共に、己もまたこの世に最後の名残を告げなければならないからだ。その直観がどくっと心臓に響くのである。
 
で、この音を聞くと、木を切る者は手速く鋸を抜いて切口を見る。そしてまた木の頂を仰ぎ見る。切口は口を開いて、頂は大きに大きな弧を描く。初めはいかにもふんわりと倒れていくが、たちまち隣の木の枝を折り、幹を掠めて、破壊の大音響と共に雪雲を上げて数百年の生命は大地に横たわる。
 
この音を聞くと近所で木を切っている人々は手を休めて空を見る。そして木が地に倒れると、わーっと一緒に勝鬨(かちどき)を上げる。それは痛快の面白さである。緊張した征伏の喜びである。木の倒れた林は歯の抜けた跡のように、ここだけぱっと明るくなる。上を白雲が流れる。
 

「これは割合にまっすぐに切れたな」                              

 
1人が倒れた木の側へ寄ってくると、あちらからも、こちらからも集まってくる。感心して珍しそうに切口を撫でる。それは生れて初めて鋸を持つ人々の切る木の切口は皆ことごとく曲がるからだ。[4]
 
入植団による森林伐採の模様です。私は以前、道東で戦後入植者の方に話を聞いたことがあるのですが、伐採による事故がもっとも多かったそうです。倒れる方向を大きく切って誘導するのですが、倒木が他の立木に当たって倒れる方向が変わることが良くあったそうです。
 
医療もないなかで、負傷=入植失敗=退場です。また鋸のあつかいも経験が必要で、目立てができないとすぐに鋸はダメになりました。慣れない作業に苦しんだ士族の様子がよく描かれています。実際に苦労したようで、『改訂八雲町史』(428p)によれば第二陣14戸の内9戸が明治21(1888)年までに農場を離れています。
 
 

■堅雪の上を薪運び

こうして1日2目もかかって1本の木を切り倒すと、それをまた1週間も10日もかかって小さく薪に切り刻むのであった。それができると今度はできた薪を雪の上を橇で家へ運ばなければならなかった。
 
春も3月末頃になると、南の故郷では野に花が匂って里に桜の咲く頃であるが、北海道ではまだ野も山も雪に覆われた氷の世界であった。しかし、この頃になると、さすが日の目を仰ぐ日も多くなる。そして上から照りつける日はじりじりと積った雲を解かす。この一度解けた雪は夜に入って寒さにあうと再び凍って雪の世界はたちまち氷の世界となる。
 
この時になると雪の上を行くこと、あたかも平地を行くようなものである。移住者が切った薪を運ぶのもこの時にせなければならない。この堅雪の続くのは、解けた雪が凍って、また解け始めるまでの夜の1時頃から朝の10時前までである。それでその時が来ると、ざくざくと雪を踏む音、さらさらと橇(そり)のすべる音がして 
 
「おーい、おーい」
 
と、人を呼ぶ声が闇の中から起ってくる。窓を聞けて見ると、林の木の間をかすめて提灯が行く。提灯の燈影に黒い人と小さい橇が見える。橇の後からは、また1人の人がその橇を押して行くものである。
 
こうして切った薪は銘々の家へ運ばれる。これが自分の手から絞り出した最初の産物だと思うと、それを家の前に晴み上げた時には勤労の面白さが増してくる。ついには女も子供も、夜中に家を出て橇を引いた。[5]
 
徳川農場で入植者は五戸ごとに「伍組」という班をつくりました。中から選出された伍長の指示のもと団結して作業に当たるように求められました。伍組は「委員」と呼ばれる幹部に統率されました。尾張徳川家旧家臣団の成功は、委員→伍長→伍組という体制と委員に選ばれた者たち(多くは元尾張徳川家の上士)の組織力・指導力にありました。
 
徳川家の八雲農場への支出は明治25(1892)年まで続き、明治43(1910)年には旧藩士達が自立できるようになったとして、農場内75戸に対して一戸当たり平均12町歩の無償譲渡決めました。この間、八雲村の発展に多大な貢献をしています。その後の徳川農場の話は機会を改めます。
 

明治44年「開墾30周年」で徳川義恕を囲んだ移民団の古老④

 

 


【引用出典】
 
[1]都築省三『村の創業』1944・財団法人満洲移住協会発行・36~39p(抜粋)
[2]同上・41~42p(一部省略)
[3]同上・46~48p(一部省略)
[4]同上・49~51p(一部省略)
[5]同上・51~52p(一部省略)
①八雲町公式サイト>八雲町フォトギャラリー (town.yakumo.hokkaido.jp)
②③④徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』2014・吉川弘文館

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