北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 7 】 

 

樺太を極める

間宮林蔵から岡本監輔へ

 

北海道開拓は、まだ明治にも改元されていない慶応四(一八六八)年三月九日に明治天皇による開拓勅問によって始まります。
 
明治維新の主役は薩長土肥の大藩と京都の公家。これらはみな西国の者たちでした。明治天皇も嘉永五(一八五二)年九月二十二日に生誕されてからこの時まで関西から離れられたことはありません。北から迫るロシアの脅威をいつどのように知ったのでしょうか。
 
江戸幕府から明治政府に移り変わる激動の中、樺太に着目してその危機を新政府に訴えた者がおりました。蝦夷地と北海道を繫いだ男、その名前は岡本監輔(けんすけ)。ここからは岡本監輔を通して幕末の北海道史を振り返ります。

 

 

■蝦夷地と北海道を繫いだ男

岡本監輔は、天保十(一八三九)年十月十七日に阿波(徳島)国三島郡三谷村に生まれました。幼名は文平で、生家は代々の農家でしたが、かなりの富農であったようです。祖父の岡本忠利は「東斎」と号して頼山陽など京阪神の著名人と交流して名声を高めました。幕末政局で外寇の憂いを要路に建言しました。監輔はこのような父祖の血を色濃く引いたようです。
 
ペリーが浦賀に現れて日本を震撼させた嘉永六(一八五三)年、監輔は一五歳で父祖に付き添われて岩本賛庵に入門。しかし母が亡くなったことですぐに讃岐の藤川三渓の門に移りました。このとき———
 

藤川三渓翁の塾に食客たりし時、翁は一士人と談ずるを聞くに曰く、此を距ること一千里の北に一大島あり。サガレンという。

※『岡本草庵先生略伝』

 
サガレンは樺太のロシア名。監輔が樺太と出会った最初です。この後、監輔は京阪の儒学者を訪れて四方の志士と交友を深めました。しかし、サガレンのことが頭から離れません。折に触れて話題に出すものの、蝦夷地について語る者はあっても、サガレンについて知る者はいないのです。
 
監輔は文久元(一八六一)年に江戸に上がり、杉原心斎の門に入りました。塾に通う道すがらの書店で間宮林蔵が著した『北蝦夷図説』を手にしたことで、監輔の運命は大きく変わります。
 

岡本監輔①

 
 

■間宮林蔵 蝦夷地へ

間宮林蔵は、本連載の
第二回「文化露寇」に登場しましたが、ここで改めて紹介しましょう。
 
林蔵は安永四(一七七五)年(九年説もあり)に常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村の農家に生まれました。幼い頃から数学に秀でた才能を示し、正義感の強い子どもだったといいます。
 
幕府直轄の灌漑工事が隣村で行われると、林蔵少年が利発さを発揮し、工事の監督に当たっていた幕吏に見出されて江戸に出ることになりました。このとき、苗字のない平民では具合が悪かろうと近隣の名家・飯沼甚兵衛が養子として迎えます。
 
江戸に出てた林蔵は、地理学者の村上島之丞に弟子入りしました。村上は、伊勢神宮神官の二男。就任したばかりの老中・松平定信が伊勢参りをした時、応接にあたった町長に「誰か面白い人物はいないか」と尋ねると、一日に二〇里を駆け、十日も二十日も走り続けても疲れを知らない「不疲男」として知られた島之丞を推薦したということです。この後、村上島之丞はその体力を見込まれ、諸国巡回する地理調査役となりました。
 
江戸に出た林蔵は、この村上島之丞に弟子入りし、助手として付き従いました。フィジカルモンスターの村上に付き従ったことで、林蔵の体力も大きく引揚げられたのでしょう。
 
一方、北方ではロシアの進出が続いていました。寛政元(一七八九)年にロシアの進出で秩序の乱れた千島で国後・目梨の乱が起こり、寛政四(一七九二)年にはアダム・ラックスマンが通商を求めて根室に来航します。
 
道東地域で起こったこれらの異変は幕府を震撼させ、寛政九(一七九七)年に幕府は最上徳内、近藤重蔵らによる大規模な蝦夷地調査隊を組織し、村上島之丞もこの中に加わりました。
 
この調査を受けて寛政十一(一七九九)年、幕府は松前藩から東蝦夷地を取上げて直轄地とます。このとき村上島之丞に蝦夷地勤務が命じられました。そして助手として林蔵も付き添うことになったのです。
 
 

間宮林蔵②

 
 

■文化露寇に遭遇

寛政一一(一七九九)年、林蔵は蝦夷地御用掛雇となった村上島之丞に付き従い初めて蝦夷地に渡りました。ここで村上の蝦夷地巡察の助手を務めます。業務が終わると林蔵はそのまま函館に留まり、蝦夷地御用掛雇に取立てられました。そして寛政十二(一八〇〇)年九月、当代の大地理学者である伊能忠敬と出会うのです。
 
間重富の元で測量術の修行をした伊能忠敬は、その実力を試すべく直轄地になったばかりの蝦夷地測量を申出ました。これが許されて忠敬は東北道を測量しながら北上し、寛政十二(一八〇〇)年五月二十二日に函館に着きました。そして八月九日まで太平洋岸を根室まで測量します。
 
林蔵が忠敬の元を訪れたのは、道東測量の帰路と思われます。帰路に忠敬が函館にいたのは九月十一日からの四日間とされていますが、短いながらも忠敬は測量術を伝授し、二人は師弟の契りを結びました。
 
さて、林蔵の上司である村上島之丞は、享和元(一八〇一)年四月から八月にかけて蝦夷島一周の調査を行い、精緻な蝦夷図をつくりあげました。
恐らくは伊能忠敬から手ほどきを受けた林蔵の測量術が役立ったことでしょう。この後、林蔵は測量技術者として独立し、函館奉行所の雇として主に千島方面の測量に従事していました。
 
そして村上島之丞は、寛政一二(一八〇〇)年に不朽の名著『蝦夷島奇観』を著します。三巻から成る蝦夷風俗絵巻で、蝦夷ヶ島の自然、風俗、地理を余さず描いた当時の百科事典ともいえる内容です。同書の成立に林蔵も少なくない貢献をしたと考えられます。
 

蝦夷島奇観

 
こうして林蔵が択捉島を拠点に活動を続けていたところで、文化四(一八〇七)年の「文化露寇」に遭遇するのです。択捉島の日本守備隊がロシア兵に襲われた「文化露寇」については既に紹介しましたが、ロシア兵が引揚げた後、守備隊は松前に上がって取調べを受けますが、率先して戦った林蔵はお咎め無しとなりました。
 
目の前でロシア兵に蹂躙された屈辱から、林蔵は「ロシアに偵察に行きたい」と申出ますが、鎖国の国禁から許されません。しかし、この林蔵の熱意は要路の目に留まり、樺太探査任命につながりました。
 
さて、事件に驚いた幕府は、若年寄の堀田摂津守正敦、大目付中川飛騨守忠英を蝦夷地に派遣して、樺太を含めた西蝦夷地を幕府の直轄地としました。そして砲術に熟達した士卒を選んで千島に送り、防備を強化します。林蔵には千島防衛における要害を選定する役割が与えられました。
 

■樺太は島か、半島か?

樺太防衛が改めて国家の重大事となりました。しかし、守るとしても正確な地図さえない状況です。蝦夷地の北方に大きな島があることは古くから知られ、南端の亜庭湾付近には早くから和人の活動が見られましたが、北方は長く未知の場所。焦点は、樺太が島なのか、大陸から続く半島なのかにありました。半島であれば領有権は大陸に移り、島であれば我が国が領有を主張できるのです。
 
一方、ヨーロッパ列強も樺太を注視していました。一六世紀に欧州で始まった世界地図を極める冒険は、東へ東へとすすみ、樺太が最期のピースとなったからです。一八世紀後半には日欧で樺太の姿を確かめる競走が行われます。
 
寛永二〇(一六四三)年七月には、黄金の島ジパングを求めて冒険の旅に出たオランダのフリースが樺太の亜庭湾に上陸。その後、海に出て間宮海峡を北緯四九度あたりまで進んだものの濃霧のため引き返しました。フリースが半島と思い込んでに伝えたため、ヨーロッパでは長く樺太は半島と思われていました。
 

フリースの調査結果をもとにつくられた1658年の地図③

 
一七八五(天明五)年、フランス国王ルイ一六世の命を受けたラ・ペールズ伯爵は、一七八七(天明七)年、宗谷海峡を横断して「ラ・ペールズ海峡」と命名、樺太の西岸を北上しましたが、次第に水深が浅くなり、北からの潮流も認められないので半島と判断して引き返しました。
 

ラ・ペールズの地図
樺太が不明確になっている④

 
一七九七(寛政九)年にイギリスのブロートンは北緯五一度の地点まで北上しましたが、同じく半島と判断して引揚げました。
 
ロシア使節レザノフを乗せたナデジュダ号の船長クルーゼンシュテルンは、一八〇六(文化三)年七月に北方から間宮海峡に迫りましたが、ブロートンが極めた地点の北方一〇〇マイルの地点で水深のため南下を断念して引き返しています。こうして欧州勢は間近に近づきながらも間宮海峡を発見できずにいました。
 
一方、我が国では、寛永十二(一六三五)年、徳川家光の代に幕府が諸大名に提出を命じた国絵図で、松前藩の「正保御国絵図」に樺太が島としてはっきりと描かれていました。最も形も違いますし、何を根拠に描いたかも判然としません。
 

元禄御国絵図中松前蝦夷図(元禄郷帳附図)⑤
上に樺太が島として描かれている

 
この後、ロシアのオホーツク進出が進むと、その噂は仙台藩医工藤平助の『赤蝦夷風説考』などを通して江戸表を騒がせます。北方調査の必要を感じた老中の田沼意次は、天明五(一七八五)年と六年に東蝦夷地と西蝦夷地に大規模な調査隊を送りました。著名な最上徳内は東蝦夷地調査隊に属していました。この調査隊は北緯四八度のクシュンナイまで足を踏み入れて戻りました。
 
一方、蝦夷島主である松前藩の調査隊は、寛永十二(一六三五)年に北緯四九度のタライカまで到達しています。寛政四(一七九二)年には、新たに最上徳内らによる幕府の調査隊が組織されますが、このときも北はクシュンナイまででした。
 
北緯四九度を初めて超えたのは、享和元(一八〇一)年の調査です。西海岸を担当した高橋次太夫は北緯五〇度のシャウヤまで到達しました。ここで暴風に遭ったこと、食糧が尽きたこと、以北について地元民から情報を得たことで引き返しました。
 
そして文化四(一八〇七)年の「文化露寇」を迎え、間宮林蔵と松前奉行支配調役元締の松田伝十郎に新たに樺太調査が命じられるのですが、このときまで和人にとって北緯五〇度以北は未踏の地であったのです。
 

■第一回樺太探査

樺太調査を拝命した時、林蔵は二九歳。「文化露寇」の当事者としてこの調査の意義を誰よりも知る林蔵は、いったん常陸国の生家に戻って生前墓である「間宮林蔵墓」を建て次のように言い残しました。
 
「我らがもし奥地で落命したならば、宗谷出航の日をもって命日としてくれ。この度の探査で樺太の周囲を極めることができなければ、再び生きては帰らない」
 
「文化露寇」で択捉守備隊が敵前逃亡をしてしまった屈辱は、林蔵に深刻なトラウマを残しました。強い無念が大事業を成し遂げる原動力になったのです。
 
同じく樺太探検を命じられた松田伝十郎は、越後国中頸城郡柿崎生まれ。農業のかたわら漁業を行う貧しい家に生まれました。よほど利発な子どもだったのでしょう。米山峠の改修工事で働いていたときに現場監督だった幕府役人の松田伝十郎の目に留まり、養子として迎えられています。世界で初めて樺太を極めた二人は奇しくも同じ境遇の持ち主でした。
 
文化五(一八〇八)年三月十二日、松前から出発した林蔵は宗谷に到着しました。既に伝十郎が待っていました。一カ月を準備に充て、二人が樺太外周調査に出発したのは四月十三日。樺太南端から出発した二人は、途中で行き詰まったら引き返してでもどこかで合流することを約束して二手に分かれ、林蔵は東海岸、伝十郎が西海岸を北上しました。
 
東に向かった林蔵は北知床岬に到達すると引き返し、東西が最も狭くなっている場所で山越えして西海岸のクシュンナイに出ます。二泊ののち、林蔵は先行する伝十郎の後を追う形で北上しました。
 
これまでの探検隊が北緯五〇度を越えられなかったのは、このあたりが樺太アイヌの勢力圏の北限であったことが大きな要因でした。道路などの整備されていない当時の樺太では海岸沿いを進みますが、陸行できない場所は小舟で海岸から迂回しなければなりません。
 
このあたりになるとガイドのアイヌも地理がわからず、迂回の船を出してもその船を寄せる場所がどこかわからない———という状態になるのです。つまり、これまでの探検隊についたガイドは樺太北部に精通していなかった。または精通したガイドを雇うことができなかった、ということでもあったと思われます。
 

このような船を要所要所で調達して北上していったと思われます(北蝦夷絵図)⑥

 
林蔵はアイヌ語が堪能。伝十郎も寛政十一(一七九九)年の幕府直轄とともに蝦夷地に渡りこの年が七年目、享和三(一八〇三)年からは択捉に常駐していましたから、アイヌ語に堪能だったに違いありません。そもそもこの二人が選ばれた決め手は二人のアイヌ語力だったのではないでしょうか。ガイドは都度現地で雇いますが、この二人であれば樺太北部に精通したガイドを探し出すことができたのでしょう。
 
かくして林蔵は北緯五〇度を超えた六月二十日、アムール川河口の対岸であるオロッコ部落ノテトに到着しました。この村に伝十郎は六月九日には到着していました。伝十郎は更に五里北方のナッコ岬まで船で渡り、一里半陸路を行った北緯五二度付近のラッカ川河口まで到達していました。伝十郎は自著『北蝦談』でこう書いています。
 

此処より奥のかなた海草腐れ、深く踏込ゆえ、陸行もならざるゆえ、此処にて東西南北をに渡すところ、山丹地マンゴー川河口等もはっきりと見えわかりしゆえ、樺太離島に相違いなし。これより大日本国の地境を見定めたり。

 

ノテト(北蝦夷図説)⑦

 
 
伝十郎はこの場所で樺太が島であることを確認したとして引き返すのです。そしてノテトに戻る途中で北上する林蔵と再会しました。もちろん、林蔵も「大日本国の地境」を見たいでしょう。二人は引き返して再びラッカ川の河畔に立ちました。
 
林蔵は更に先に行くつもりでしたが、伝十郎は「もういいだろう」と引揚げてしまうのです。林蔵もやむなく引き返しました。林蔵と伝十郎では、年上の伝十郎が上司格であったのです。
 

■間宮海峡の発見

樺太が島であるらしい感触を掴んだため、閏六月二十日に宗谷に戻って報告書を作成し、ここまで出張に来ていた松前奉行に提出しました。
 
しかし、伝十郎の結論に納得できないのが林蔵です。なんとしても島であることの確証を掴みたいと再調査を願い出て、文化五(一八〇八)七月十三日に一人で樺太に戻り、再度の冒険に出発します。
 
林蔵は、九月三日にトッショカウまで進んだところで北進を断念してトンナイに戻って冬を越しました。翌文化六(一八〇九)年一月二十九日、厳冬期に二度目の探査に出発しました。冬であれば泥濘地が凍って歩きやすくなるという判断でした。
 
間宮海峡の入口、北緯四九度付近のウショロに二月二日に着きましたが、ガイドのアイヌが先に行くことを拒みます。ここでガイドを雇い直し、ノテトに着いたのが四月九日でした。前年に引き返したラッカ川河口はすぐ北です。
 
林蔵はここでギリャーク人を新たにガイドとして雇い、この地に適した山丹船を借受けました。雪どけ後の環境をまって五月八日にノテトを出発して船でラッカ川河口を突破。五月十二日には樺太北端に近いナニオーに到達しました。林蔵の紀行文『東韃紀行』はこう書いています。
 

同十二日、ここを発し、その日ナニオーに至り着きぬ。ここ既にこの島の極北の地にして夷家僅か五〜六屋あるところなり。ノテトよりここにいたるの間、島と東韃地との相対せる迫峡にして、湖水ことごとく南に流れ、その間潮路ありといえども波涛激沸の愁も少なく、小軟の夷船なれども進退さまで難きことなし。ここよりして北地は北海漸に開け、湖水ことごとく北に注ぎ、また波大いに激起すれば、船を遣ること能わず。さらば山を超えて東岸に出んといえども、従夷また従いがんぜす。止事をえずして、同十七日船を返し、同十九日終にノテトへ帰りに至れり。

 

ナニオー(北蝦夷絵図)⑧

 
林蔵は、海流と海が北に向かって大きく広がっていることから、ここが海峡であり、樺太が島であることを確信しましたが、ガイドの反対にあってその先には進ませんでした。
 
オロッコ部落のノテトに留まり、村の酋長の満洲行きにしたがって海峡を渡って七月十一日に対岸の沿海州に到達しました。アムール川沿岸にあった満洲政府仮役所の所在地デレンまですすんで帰途につき、宗谷に帰着したのは九月二十八日でした。
 
樺太が、半島ではなく、島であればこそ我が国は領有権を主張できる———。間宮林蔵の発見が、その後の対ロシア国境交渉で大きな力になったことは言うまでもありません。
 

■岡本監輔、『北蝦夷図説』を読む

翌文化七(一八一〇)年、松前に戻った林蔵は村上貞助に口述して報告書である『東韃紀行』『北蝦夷図説』を著して幕府に提出しました。
 

北蝦夷絵図の樺太図⑨
林蔵が渡ったアムール川河口域が描かれている

 
文政六(一八二三)年にドイツ人シーボルトが日本研究のためオランダ通商館医師として長崎に現れ、文政九(一八二六)年には江戸城に参内しました。このとき幕府の天文方高橋景保が伊能忠敬の日本地図と林蔵の樺太図を贈りました。
 
シーボルトは、意欲的な研究調査活動がスパイの嫌疑を掛けられて国外追放となりますが、帰国後に著した著書『日本』で間宮林蔵の功績を紹介したことで、「間宮海峡」の存在が欧米社会に知られていきます。
 
林蔵は、江戸で伊能忠敬にあって測量術の指導を受け、蝦夷で地理調査に従事します。測量データを伊能忠敬に送り、有名な「伊能図」の蝦夷地部分のベースにもなりました。この後の林蔵の活躍も紹介したいところですが、本筋と離れますので江戸の岡本監輔に戻ります。
 
『北蝦夷図説』は安政二(一八五五)年になって、橋本玉蘭齊と重田探齊が挿絵をつけて江戸書物問屋播磨屋勝五郎の手で刊行されました。岡本監輔が手に取ったのもこの本でしょう。
 
監輔にとって『北蝦夷図説』は運命を決める本となるのです。


【主要参考文献】


『岡本草庵先生略伝』(1914)草庵会
洞富雄『人物叢書・間宮林蔵』(1986)吉川弘文館
相原秀起『追跡間宮林蔵探検ルート』(2020)北海道大学出版会
大谷恒彦注訳『原本現代役104 東韃紀行』(現代語訳)教育者新書
佐佐木千之『間宮林蔵 3版』(1943)国民社
山本桂川『間宮林蔵大陸紀行』(1942)八弘書店
間宮林蔵『北蝦夷図説』(「北門叢書 第5冊」国書刊行会)
間宮林蔵『東韃紀行』(1911)北斗社
松田伝十郎『北夷談』(「北門叢書 第5冊」国書刊行会)
全国樺太連盟編『樺太沿革・行政史』(1878)全国樺太連盟全国樺太連盟
全国樺太連盟編『樺太年表』(1995)全国樺太連盟
『稚内市史』(1968)稚内市
『新北海道史 第二巻 通説 一』(1970)北海道
『函館市史 通説編 第一巻』(1980)函館市
①岩村武勇 編著『徳島県歴史写真集』1968
②https://ja.wikipedia.org/wiki/
③浮世絵ポータルデータベース https://www.dh-jac.net/
④九州大学付属図書館https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp
⑤北海道大学北方資料デジタルライブラリーhttps://www2.lib.hokudai.ac.jp/
⑦⑧⑨間宮林蔵『北蝦夷図説』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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