北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 8 】  

岡本監輔 樺太全島踏破の決意

2024/05/31更新

 

岡本監輔①

 

樺太が島であることを世界ではじめて明らかにしたのは間宮林蔵です。しかし、林蔵は樺太の最北端は極めていません。幕末の蝦夷地冒険家・松浦武四郎も樺太に渡りましたが、その足跡は北半分には及んでいません。世界ではじめて樺太の全周を極めたのが岡本監輔です。徳島生まれの漢学者岡本監輔はいかにして樺太を知り、完全制覇を志したのでしょうか?

 


■監輔、樺太と出会う

岡本監輔は、天保十(一八三九)年十月十七日に、阿波国(徳島県)美馬郡三谷村に生まれました。幼名は文平です。生家は農家でしたが、医業と売薬も営んでいたといいますから、豪農・富農と言われる家であったのでしょう。文平少年は、二宮金次郎のように畑の傍らで立ちながら本を読み、知恵者とみるとかまわず質問を浴びせるなど、農家の子どもとは思えないところがありました。
 

『岡本氏自伝』

 
父周平は農家でありながら医学を修める人物でしたから、四方に交わりを持っていました。そうした父の勧めで監輔は一五歳で徳島に出て儒学者の岩本賛庵に入門して学問を始めました。安政二(一八五五)年に高松の藤川三湊家の食客となりますが、客の一人から「ここを距ることを一千里の北に一大島あり。サガレンという」大島があること教えられます。サガレンは樺太の欧米での呼び名です。岡本と樺太との出会いでした。
 
監輔は、安政三(一八五六)年から京阪に出て四方の志士と交わりを持つようになりますが、サガレンが頭から離れません。折に触れて話題に出すものの、蝦夷地について語る者はあっても、サガレンについて知る者はいないのです。
 
監輔は文久元(一八六一)年に江戸に出て儒学者の杉原普斎の食客になりました。ある日、下谷街道の書店で『北蝦夷図説』を手にします。樺太の様子を世界で初めて明かした間宮林蔵の書です。監輔は、この書でサガレンが樺太であること、ロシアが進出していることなどを知り、「速やかに行って居住し、長く土人となるも、終に必ず其地を回復せん」との誓いを立てます。
 
しかし、監輔にとって樺太は、身分や門地に囚われずに有為な若者を登用しようとする新時代のリーダーに認められるための武器でもありました。監輔は『今般急務の筋』という書をつくり、これを訴えるべく方々の論客を訪ね歩きました。それは次のような内容でした。
 

今日の世界は天地否の気運たり。これを変して地天泰と為さんとするならば、北地を開くより善きはなし。今や腰に長剣を横へ、口に文書を誦し、各所に横行激説して幕府を睥睨するもの天下に充満せり。幕府失政の然らしむるに由るといえども、実は此輩が其所を得ざるがため、不平を訴うるもの多きことなれば、大いに地を拓き、此輩を其地に移して一家の産業を得さしめ、陰に北門の鎖鑰(さやく)たらしむべし。これは幕府の命脈を夷地に永くするものにして、謂ゆる禍を転じて福となす良策なるべし『岡本氏自伝』

 

松浦武四郎②

 
この時代に樺太に目を付けたことにオリジナルティを感じますが、蝦夷地をほとんど知らない二十二歳の文章で、今の目からも青臭さがあります。そのことを監輔も痛感していたのでしょう。文久二(一八六二)年、「松浦武四郎を下谷に訪い、大いに北海の情を詳らかにすることを得たり」。松浦武四郎の日記によれば十月二十七日(『定本松浦武四郎』)のことでした。
 
松浦武四郎は安政三(一八五六)年に樺太に渡り、南半分を踏破しています。この武四郎と会ったことで監輔は、自分の言が現実から離れた空論であることを悟るとともに、樺太全島を踏査した者がいまだいないことを知ったに違いありません。以降、監輔はその若いエネルギーを樺太全島踏破に振り向けるのです。
 

■監輔、樺太に渡る

天下国家を論ずるために江戸に出た監輔ですが、この頃には実家からの支援も途絶え無銭状態でした。しかし、幕末の時代には、有意な青年に衣食の面倒を見る食客の習わしがあり、監輔は各地で食客となりながら北方論を説いて賛同者を広げつつ北上の機をうかがいます。
 
文久三(一八六三)年、竹垣三右衛門、羽倉氏、北条謙助、田岡小輔らから樺太渡航費として六円を受け取ると、監輔は新潟に向かいました。そして竹垣三右衛門からもらった箱館奉行所組頭である平山謙二郎宛の紹介状を胸に北前船で日本海を蝦夷地へと向かいました。
 
文久三(一八六三)年七月下旬、岡本はついに北海道に渡りました。箱館で平山謙二郎に会うと、樺太久春古丹在住の幕吏日野恵助宛に紹介状を出してくれました。そして監輔に「蝦夷中には無人の境多く、熊羆出没するの患あり。一人で山中など過ごすときは、大声で誌を吟ずべし。禽獣は人の声を聞く時は大いに畏れるもの」と助言を与えます。この後すぐに監輔は日本海岸を徒歩で北上しますが、その道のりも大冒険だったのです。
 
文久三(一八六三)年八月上旬、監輔は宗谷から樺太最南端の白主に渡り、そこから当時の樺太行政の中心地であった久春古丹に入りました。しかし、頼みとする幕府調役日野恵助が東海岸の富内在勤と知らされます。
 
富内は『あいぬ物語』の作者・山邊安之助が暮らしていたコタンのある所で、幕府は東海岸方面の拠点を置いていました。越後の豪商・松川弁之助が開いた漁場があり、和人との関わりが深かったことが日露戦争で山邊ら樺太アイヌが日本側に立って戦う背景でもありました。
 

■樺太の総乙名に協力を求める

監輔は富内で日野恵助に会い、平山の書を出して協力を求めました。この年、京都では近藤勇が新撰組を名乗り、長州では高杉晋作が騎兵隊を結成、薩摩は鹿児島湾のイギリス船に発砲して薩英戦争が起こります。こうした時代に日本の最北端を守っていた日野恵助ら樺太の幕府士卒は、日本の武士がもつ強さと優しさを兼ね備えた者たちでした。
 

速に奥地を観んと告げたりしに、日野氏も大に余が志に感じ、種々の周旋せられたり。ここに逗留すること数日なりしが、定役、小池仙之進、同心塩見伊太郎などいえると相親しみ、仙之進等が日に蝦家に遊ぶに従いて行き、濁酒を飲み、草実魚類を食いながら一二の夷語を講習せり(中略)。いずれも各所を経歴して、ここに至りたるものにて、幕府吏中にても純然たる俗吏の習気なく、深く土人を愛し心を撫育などに用いければ、土人も大に悦べる状あり(同上)

 
久春内で数日すごした後、監輔は来たるべき大冒険の予行演習として樺太南部の探索の旅に出ます。
 

島内には昔より五人の酋長あり。これを乙名という。久春古丹、富内、苗織に各一人あり。此に(得鷹)に二人あり。中にも億計良(おけら)が家を第一とす(同上)

 
と監輔は書き残していますが、今回の監輔の目的はこれら樺太アイヌの主だった首長を訪ねることであったようです。樺太全周制覇という冒険の成功のためには先住民族であるアイヌの協力は不可欠です。このことは、松浦武四郎から、または在地の和人から教えられたのでしょう。
 
南樺太の首長の中でトップに挙げられた億計良一族が権勢を持つようになったのは、およそ百年前にシベリアから山丹人が勢力を及ぼしてきた時、主要な乙名が集まって「尊戴して乙名を仰ぎたり」ということがあったからで、監輔が会った億計良は四〇歳くらいでした。
 

億計良は最も威信あり。衆夷尊親せざるものなく、官吏の船に駕し、各所を巡行するごとに船の舷上に座して左右を指示するに衆夷とも命を奉じて奔走し、あえて怠けるものなく、怒髪一嚇するときは衆みな聳動(しょうどう=おそれおののくこと)し、他の乙名など一人も億計良に及ぶ者なしと(同上)

 
このように表された億計良は、「邦人の恩を感じたりという」ことなので、監輔の要請も上手くいったのでしょう。

■ロシア人を訪ねる

樺太におけるロシアの浸透状況を探ることもこの調査の目的でした。知戸谷間(シルトコタンナ)でここに暮らすロシア人を訪ねます。湖水近くにロシア人が暮らしているというのです。過去の行業から評判が悪く誰も近づこうとしません。監輔は思い切って訪ねることにしました。
 

知戸谷間には俄人一家あり。その名を邪智去夫(ジャチコフ)と云う。往年に鵜城土人を連れ去りたりとて、土人・番人となく口々に罵るほどなりしかども、無人地にてこの人あり。往て見ざるを得ず。ついにその家に抵(あた)る。その人夫婦と子女僕隷数人あり。余を見て礼して進ましめ、来意を問う。余笑いて「メノコフナラス」という。蝦夷語にて「美人を探索す」との義なり。邪智去夫も笑いながら、種々のことを談ず(同上)

 
ジャチコフは、附近に石炭があることを発見し、いずれ採掘したいと考えているが、よそ者が来て掘られることのないよう見張っているのだと言いました。アイヌ語を介して会話ですが、監輔が持参の酒を差し出して、語り合います。「相対して飲むに、猜疑の念を挟むに至らず。少しも与し難きを覚えざりき」と語り、ロシア人への警戒を少し緩めたようです。
 
安政五(一八五八)年に幕府は越前国大野藩の土井利忠に北地防衛を命じ、樺太のウショロ場所に拠点を設けました。監輔はこの大野藩の番所を根城に越冬を決めました。
 

余が志は専ら奥地の探索するにあるがため、ここに越年して土人を懐け、しばらく方略を企てんものをと決心し、日に夷の家に行き、翁嫗などを見て、少許の煙草、針などを与え、方言を学びなどし、彼等が馳走して出せる食物は何種の物となく極めて口に適するがごとく食いて、一物も遺さざりければ、土人も深く喜べる状ありし(同上)

 
地元アイヌと親しくなることが冒険成功の秘訣であると、松浦武四郎から教わったのでしょう。
 
しかし、この頃の内地からの出稼ぎ漁民の中にはアイヌの娘と密通する者が多く、幕府はこのことを固く禁じていました。それでも禁を犯す者が後を絶ちません。ウショロ場所で監輔は監視の役人と思われたようで、身の危険を感じることもありました。そうしたこともあり、監輔は越冬を断念していったん箱館に帰ることにしました。
 
宗谷から小樽へ、そして岩内、寿都、黒松内、長万部、山越内と渡って箱館に戻ったのは十月下旬。これまでの経験で監輔は、北海道―このときは蝦夷地ですが――は「土地広坦にして沃壌多きは誠に金城湯地、天府千里の城と称する」に価する地であって、我が国が保持すべき「根本要害の地なり」との思いを深めます。
 

■箱館奉行に呼び出される

箱館にもどると監輔は、平山謙二郎の食客となって樺太本格探査の準備を進めます。社交的な監輔は、箱館で交友を広げていきました。五稜郭を設計したことで知られる武田斐三郎を訪ねると「余が志は、露帝ニコライスを奴にし、英王ビクトリアを妾にせんと欲するなり」と放言したといいます。武田斐三郎の人柄を伝えると共に、五稜郭がどこを仮想敵国としてつくられたのかが伺えるエピソードです。
 
監輔の存在は、箱館奉行の小出大和守秀実の耳にも届きました。奉行所から召し出しがありました。当時、幕府は日本外交の最前線である箱館に幕閣で最も優秀な人材を配置していました。
 
小出秀実は天保五(一八三四)年、大目付を務めた土岐丹波守の子として生まれ、嘉永五(一八五二)年に小出家の養子となりました。文久元(一八六一)年に小姓組から目付に抜擢され、翌文久二(一八六二)年九月に箱館奉行に着任というスピード出世です。
 

小出秀実③

 
まだ三〇歳にもなっていない若さで箱館奉行の大役に就いた小出秀実は日本の北門を守護するという任務に燃えていました。そんな奉行であればこそ監輔に会ってみたいと思ったのでしょう。
 
会見の場所は竣工したばかりの五稜郭の箱館奉行所でした。富農の家の子とはいえ監輔は平民。そこにはドラマ「遠山の金四郎」で見られる奉行と平民の身分関係がありました。奉行所の表座敷で監輔が「威儀堂々として仰ぎ見るべからず」と平伏していると、「必ず近くに進めと云い、あえて席間にも丈を函けることを許さず」。すなわち「苦しゅうない。もっと近う寄れ」です。監輔がこれまでの経緯を詳しく話し終えると「秀実大いに感服し、時を移して去りぬ」でした。
 

箱館奉行所 表座敷④

 
そして慶応元(一八六五)年となり、監輔に箱館奉行所から樺太在住の命が下るのです。これは幕吏に取り立てられたということもあります。監輔はこう書き残しています。
 

余はこれまで何万にても食客たるに過ぎず。いかにして生活すべきや更に目的あることなく、行末を思はざるに非ずといえども、当時は士民の別を立つること甚だ厳に、余は至賤の身分なれば、徳島藩などに知音の人なきに非ずといえども、もとより一口の棒の妄意すべき道なるを得ず(同上)

 
これにより監輔の樺太全島制覇という冒険は、幕府公認の事業となりました。
 

【主要参考文献】
『函館市史 通説篇 第2巻』1990
岡本偉庵銅像建設委員会「岡本偉庵『岡本氏自伝』」1964・徳島県教育委員会
金沢治「岡本偉庵先生の家系と年譜」1964・徳島県教育委員会
韋庵会編『岡本韋庵先生略伝』1912・韋庵会
河野 常吉『岡本監輔先生伝』(高倉新一郎編『北海道史資料集・犀川会資料』 1982・北海道出版企画センター
北海道新聞社編『北海道歴史人物事典』1993・北海道新聞社
吉田武三『定本松浦武四郎 上』1972・三一書房。
①岩村武勇 編著『徳島県歴史写真集』1968
②https://ja.wikipedia.org/wiki
③「みなみ北海道最後の武士(もののふ)達の物語」https://boshin150-minamihokkaido.com/mononofu/koide_yamatonokami/
④箱館奉行所公式サイトhttps://hakodate-bugyosho.jp/guide-zoon1.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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