開拓─権利を侵害し不適切な表現
明治維新以降、アイヌ民族が政府や開拓使、道から受けたさまざざまな迫害──生活圏生産圏の〝無主の土地〟認定、旧土人身分の強要、強制移住、伝統文化の禁止、教育差別・・・・・それらから来る経済格差など、そうしたことを知れば知るほど「開拓」とは軽々に口にできなくなる。しかし、私たちが北海道開拓の復権を目指すとき、「(開拓は)先住民族の権利を害し不適切な表現」というアイヌ民族からの厳しい指摘は、どこかで乗り越えていかなければならない。
[1]日本ハムファイターズ>ニュース一覧>新千歳空港掲出バナー取り下げについてhttps://www.fighters.co.jp/news/detail/5803.html
抵抗運動はあったのか?
さて不思議なことは、こうした一方的な迫害を受けてきたのに、開拓最盛期にアイヌ民族による組織的な抵抗活動、抗議行動が知られていないことだ。せいぜい、「毒矢猟禁止令」に対して沙流地方、十勝地方のアイヌ民族による陳情があったという程度だ[2]。「1869年に日本政府は、この島を「北海道」と呼ぶように決め、アイヌの人たちにことわりなく、一方的に日本の一部にしました」[3] とされているが、「一方的に日本の一部にした」ことに、当時のアイヌ民族は抗議をしたのだろうか? いち民間人である筆者が目の通せる文献は限りがあるが、〝無かった〟と確信している。
というのも、ひとつでもそうした事例があれば、80年代の民衆史掘りおこし運動、そして昨今のアイヌ研究ブームの中で、必ず掘り起こされ、さまざまな文献に記述され、○○事件○周年集会などという集会やシンポジウムが繰り返されたに違いないからだ。
一方で、先に紹介した丹羽五朗の瀬棚探索をガイドしたことなど、アイヌが開拓に協力した事例は多数ある。北海道開拓の暗黒史として必ず取り上げられる『鎖塚』で有名な旭川ー網走間の中央道路の悲劇において、路線選定測量に協力したのもアイヌだった[4]。
[2] 関口明・田端宏・桑原真人・瀧澤正『アイヌ民族の歴史』2015・山川出版社・150p
[3] 小・中学生向け副読本編集委員会『アイヌ民族:歴史と現在――未来を共に生きるために(小学生)』2008・公益財団法人アイヌ民族文化財団・34P
[4]『遠軽町史』1977・遠軽町・603p
民族の選択
どういうことだろう。アイヌ民族が〝侵略〟に抵抗せず、協力していったことを〝柔順で弱気な民族性〟と見るのは、アイヌ民族への差別を隠していることになる。もちろん、そうではない。90年代の国連を舞台にしたアイヌ民族の活躍で知られるように、彼らは戦略的視野と行動力を兼ね備えた民族だ。
近年のアイヌ史研究で明らかになってきたことは、アイヌ民族が交易の民として北アジアで広く活動していたことである。これは、まったくの私見だが、19世紀、世界に広がっていたアイヌ民族のアンテナは、ロシアの東方進出、南下政策を脅威として受けとめ、民族の選択として日本を選び、積極的に北海道開拓に協力していったのではないか。列強割拠する帝国主義時代の到来に対して、日本の力を借り、生き残りを賭けて北海道を作り変えようとしたと。そうとでも考えなければ、誇り高い彼らが、教えられているような仕打ちをただ甘受したとは考えられない。
我々の誇り高い歴史を意味する称号
現在の北海道アイヌ協会の機関紙の題号は『先駆者の集い』という。
1963年3月に発刊された創刊号で当時の北海道ウタリ協会・森久吉理事長は「協会員と協会連絡の命脈である機関紙も我々の誇り高い歴史を意味する称号と選び『先駆者の集い』として発刊を見るにいたりました」と述べている。これを受けて町村金五知事は
「「先駆者」とはよくも名づけたものでありまして、現在私ども住む北海道が今日の姿にまで発展しましたかげには、開拓使以前の北海道を営々とひらかれてきました皆さまがたの父祖のご努力があるのでありまして、心から感謝しているところであります。しかし、まことに残念なことには、これら先駆者の子孫のかたがたの中には、めぐまれない生活をしているかたも少なくないのでありまして、行政を担当するものとしては、まことに申しわけなく存じておりました」[5]
と寄せている。
少なくとも1963年までアイヌ民族は自らを「北海道開拓の先駆者」であることを誇りとしていた。この時に日本ハムファイターズが「北海道は、開拓者の大地だ」という宣伝幕を掲げたならば、抗議を受けることはなかっただろう。開拓者にアイヌ民族も含まれているのだから。
[5]ウタリ協会(編)『アイヌ史 北海道アイヌ協会 北海道ウタリ協会 活動史編』1994・249p
開拓者に神と祀られたアイヌ
男山イヤトムタ(通称ヤイトメ)は、記録に残る小清水町最初の居住者である。
日高付近の酋長の子と言い伝えられているが詳細は明らかでない。父男山イタキトシュ、母ランマサケンの子として生れ、明治初年狩猟をしつつ本町に来住し、熊狩りや鮭漁に便利な神浦南七号、アイヌ語地名イチャン付近に住居を構え、漁を業としていた。当時神浦付近は熊が多く棲息していたのでこの地に定住したという。
明治三十四、五年頃、東藻琴原野植民地区の測量隊に協力し、その後旧土人給与地の給付を受け、神浦十号二百六十八番地、現神浦神社下チャチャ川(アイヌ名イチャンパオマナイ)のほとりに定住し、多くの土産馬を飼育し、南阻号附近より南十五号附近まで放牧し、多い時は三十数頭にも及んだという。ヤイトメは性質質温でよく和人と交わり、進んで入植の世話をし、開拓当初この地に入植した者で彼の世話にならなかった者はなかったといわれ、よく和人に親しまれた(中略)
年老いてからも部落神社の草相撲に出場するなど部落民とよくなじんでいたが、大正十四年二月六日死亡した。年令は百十二歳というが明確ではない。神浦地区住民はヤイトメを開拓の先駆者として祭っていたが、昭和四十三年四月石碑を神浦神社境内に建立してその功績を後世に伝えることにした。碑銘「男山伊弥登牟多主命」[6]
小清水の開拓者がイヤトムタに捧げた「男山伊弥登牟多主命」は、大国主命にあやかったものに違いない。大国主命は「国造りの神」。すなわち、男山伊弥登牟多主命は小清水の「国造りの神」なのである。
[6]①「小清水を拓いた人々」編さん委員会(編)『小清水を拓いた人々』1968・小清水町・6p