(2)
道は無かった。
何時間か運平と瀬沼は、夕張川に添って進路を真西にとった。川が思いきって気ままに曲がりくねっているために、思わぬ迂回もしなければならないが、おおよそのところで川をそれて北上すれば江別に出られる、と目算をたてていた。
江別、岩見沢、久樽の三角形の底辺を久樽から直線コースで江別にぬければ、岩見沢までの徒歩の四里と、岩見沢、江別間に汽車賃が儲かる、と秋月が言い出したのであった。
「これは関谷の親方のよろこびそうなことだぞ──」と二人は笑い合った。
雪耶山耶呉耶越 水天髻髭青一髪
万里泊舟天草洋…………
よく透る声で、運平は思いきり高く吟じた。熊笹をわけ、流木をとび越え、野葡萄の蔓を伝わって二人は原始人のように歩いた。小さな磁石ひとつが頼りであった。
湿地を抜けて、原始林のなかにはいると、全く目先はきかなかった。どれも、これも四五百年はたっていようと思われる楡(にれ)、塩哈(しおじ)、槭(いたや)などの巨木が空を暗くしている。
跫音に驚いて、ときおり思いがけない足もとから、野兎が飛び出して、かえってこちらがおどろかされる。二人とも黙ってはいるが、内心熊の出現を予期していた。
だが、しばらくして川をそれると、決してここに踏み入ったのは彼等が最初ではないことに気づいて、二人ともやや失望したようなほっとした目を見合わせた。
それは、幌向原野に出たのであって、ここは、この前年の明治二十三年に道庁で、もはや測量がしてあり、縦横に三百間毎に標杭を立てて区画されてあった。
「なんじゃ、こんなに土地があるじゃないか。なぜ、これを僕等に貸下げてくれんのかのう」
瀬沼は持っていた柳の枝で棒杭を強くたたいた。
「うまい手づるがあればなあ──」
「そうじゃ、裏には裏がおる。君はこの裏がいやじゃという。僕は成功するなら、少々の裏道は平気でぬけんならんと思うとる」
倒れた栓の枯木に腰をおろして、みあげる五月の空は青かった。楡の葉が細かく芽ばえて、その隙間からちらちらする水のような空には薄い雲が流れている。
運平はふとこの原始林の枯木に腰をおろしている自分が、ひどく現実ばなれしていてとりとめもないはるかなものに感じられた。
持っていた木の枝を、ぐっと草のあいだの上にさしこむと、何百年となく積もりつもった朽ち葉の腐植土は快い適度な反応を伝えながら枝の先を埋めていった。
足もとには俗に山そばという延齢草(えんれいそう)がくすんだ紫の花をつけて密生している。大きな円い三枚の葉にかこまれたこの花は花とはいえぬ素朴な原始的な形であった。
「君も、俺も、考えてみれば夢のようなことを思っているかもしれんぞ」
運平は、ふと、そんな気弱いことを口に出した。
「夢のようなことを思うとって、ちょうどよいくらいになるんじゃ」
「君のはまた、桁が大きいからなあ──」
瀬沼の野心は、とほうもなく大きかった。
──何を、五十町歩や百町歩──俺はなんと言ったって五百町歩か千町歩じゃ。貴公ら、北海道の面積がどのくらいあるか知っとるのか。九州と四国を合わせたくらいもあるんじゃぞ。その中の五十町歩や百町歩持ったとて、なんになるかい。
みい、今に俺は五百町歩じゃ。いや千町歩でもよいわ。裏には裏があるて──真正面から貸下げを願うたとてたかだか十町歩が限度じゃないかハハハハ。俺はそんな水飮百姓になりとうて北海道まで渡って来やせんのじゃ──
焚火の焔を赤々とまともにうけて、夜の雑談の折々に語る瀬沼の抱負は、ざっとこんなものであった。
堅実な地味な世渡りしか知らぬ秋月は、こんな大法螺のような言葉には、とかくおされ勝ちで、大ていだまって聴き役にまわっていた。
秋月には、十町歩、二十町歩という土地は広大なものに見えていた。それが自分の土地というのなら、たとえ一町歩でも、愛情をそそぐのに充分な気がした。
秋月は、零細な土地を舌でなめ、肌であたためる日本古来の百姓の精神を失っていなかった。彼は生まれながらにして農村企業家の一人ではなかったのだ。
これは、海洋を家として、南支那海までも、和船で横行したという祖先の血をうけついだ瀬沼と、後生大事に祖先の土地を耕し守って来た百姓の血を受けた秋月との、先天的な性格の違いであったのかもしれない。
とはいうものの二人はよく気があった。口には出さなかったがおたがいのよさを尊敬し合い、野心を刺戟し合う好適の友であった。
予定どうりに江別に出て、そこから汽車に乗り、札幌に着いたのは、正午少し前であった。
都会人が、急に偉らそうに見えるのは、あながち、二ヵ月ぶりで札幌に出て来た運平だけではないらしく、小柄な瀬沼は、町にはいるといっそう肩をいからせ、古い洋服のズボンに手を入れてわざとゆったり歩いている。運平はその様子を横目で見て、思わずくすりと笑った。
「相変らず有象無象がうようよしとるのう──みんな、けちけちと人の懐をねらっとるような目をしおる」
せせら笑いを浮かべた瀬沼の顔には、例の負けぬ気の、鼻の穴をふくらまして、口尻をきゅっと下げた表情が浮かんでいる。
「いや、みんな金を持っているらしいぞ。俺たちのような素寒貧はあまりなさそうだ」
「馬鹿をいい給うな、みい、僕は未来の五百町歩の地主さまじや」
運平は、また始まった、という顔をして答えない。
かなり烈しい南風が、広い通りに砂塵を巻きあげている。もう内地なら、そろそろ気の早い者は夏支度をしようという頃なのに、ここは、桜の花盛りで、ところどころ山から移植したらしい桜の若木が色を添えている。
北海道では四季桜というコブシの花が青い空に銀色にかがやき、農学校の時計台では、いい音色で十二時を打った。
運平は四丁目で瀬沼に別れると、一人で狸小路の山一という旅館をたずねた。同じ故郷の子供の頃からの友達が、運平を頼って来てここに泊っているのだった。
思いがけなく、何の前ぶれもなしに、幼友達の杉山が、札幌からよこした手紙は昨日馬追の開墾地に配達された。
それは至極簡単な葉書で急にこちらへ来る決心をして飛び出して来たが、連れもあることで開墾地まで行くにも勝手が知れぬから、とりあえず札幌のこういうところに泊っている。ぜひ相談したいから至急来てもらいたい、というだけであった。
秋月は、なるほど杉山らしいと思った。彼以外にこんな無鉄砲なことをする男は村にはいなかった。
それにしても連れというのはだれか、ひょっとすると、どこかの娘でも盗み出して来ているのかもしれない、と秋月は好奇心にそそられた。
杉山は村のたった一軒の雑貨屋の三男で、とかく素行がおさまらず、一時は横浜に出て宿引をやっていたこともある。
村人たちは、いつか彼が、とんでもないことをしでかしそうだと、だれもが予想している種類のいわば不良といった一人であったが、不思議に秋月とは仲がよかった。というよりも運平を尊敬し、運平のいうことならばすなおにきくのが習慣になっていた。
取り次ぎを頼むと、正面の階段をきしませて、杉山の小ぶとりな赤ら顔が一面の笑いを浮かべて降りて来た。
「やあ──、わざわざ来てくれさしったか」
なつかしい郷里の声であった。
「よく来たなあ──」
わけもなく鼻の奥が辛くなって、声がつまってきそうなのをごまかして運平は笑った。
「まあ上がってゆっくり話すべえよ」
「うん──葉書が昨日着いたときは誰かにかつがれているんじゃないかと思ったよ」
跣足袋をぬいで杉山の後ろからふむ新しい階段は、空き箱を重ねたような音がした。
「連れがあるって誰だね」
階段を上りきったところで運平がたずねた。
「それがのう──なんだあ──仙石のお民だあな」
杉山はさすがにてれた顔をして答えた。
「とうとう引っぱり出したのか。じゃあ駆落ちというわけか──」
いよう色男、と運平は後から杉山の円い肩をどやしつけてやりたいように思ったが、相手はいやに恐縮した様子をしているので、それはよしにして真面目な顔をとりつくろっていた。
「向こうの親が許さんのか」
「うん──ひとり娘だからなあ。村まで探しに来られたときやあ、運平さんの家の長持のなかに隠してもらって、やっと逃げれただあよ」
「ハ、ハ……長持とは古風だなあ──」
運平は、これでこの男の身もかたまるのだろうと、いつにない真剣な調子を好ましく思った。
「うむ──それに、新左衛門さんとこの健吉と、新家の政あんが、どうしても一緒につれてってくんろというんでのう──」
「ほう──ひどく大勢で来たんだなあ」
「郷里を出る時にやあ人に知れねえように、みなこっそり別々の停車場かた乗ったあだな」
運平は、戸まどいしたような面持で相手ののんきそうな言葉をきいた。
運平としては思い当らないこともないではない。母を安心させたいばかりに、今にも大きな貸下地が手に入りそうなこともいってやった。そうすれば村の次男三男はみんな呼びよせるようにも書いた。
多少は、瀬沼にも感化された気味で大きなことを書かぬでもなかった手紙が、こんな結果になったのだと気づくと、運平は顔が熱くなるようだった。
だが、ままよ、人手はいくらでもほしいんだ。運平は腹のなかで考えた。馬追原野は思ったより早く開けるぞ。
障子を開けると、杉山のいった人々が、だらしなく、寝ころんだり、坐ったりしていた。仙石のお民というのには、初対面だった。色の浅黒い上ぜいのある、きりっとした顔立ちだった。
「こりゃあなあやあ──俺のいつも話していた秋月の運平さんだあ」
と、杉山はきまり悪そうにお民を紹介した。