(4)
草原地に放し飼いした馬は肥えていった。
耕馬としては五六頭で間に合うので、十二三頭の馬を毎日かわりがわりに使って、後は豊かな草原に自由気ままに遊ばしておく。だから、関谷が札幌で安く買って送ってよこす痩馬が一二か月もすると、逞ましい耕馬になるので、そのうち、よく馴れた耕馬三頭くらいを残しては後は送りかえしてやると、関谷はそれをいい値で売って、又新しい痩馬を送ってよこすのだった。
馬は大てい北海道産のものと、南部馬の混交種で、中には純粋の北海道産の馬もあった。道産の馬は身長が低く、大てい四尺四五寸内外ではあるが、アイヌと同様に従順で、辛抱強く、しかも強健で、道のない未開地の乗馬としては好適であった。
草原でも、荊棘の中でも、騎者の指図通り突進して、少しも驚いたり、怖れたり、躊躇したりはしない。そのうえ帰るときは、往くときに通った道を正直に少しも違わずに歩いて戻る重宝な習性を持っていた。
またこの馬は、冬季、雪が一尺や一尺五寸積もっても、放牧しておくと、熊笹を掘って喰っていて、夜になると、家の迴りにきて寝るというふうで、開墾には甚だ便利な馬であった。
馬の売れ行きのよいのも、まだ鉄道が開通していないから、専ら交通、運搬には丈夫な馬を使っているので、いくらでも高い価格で売れるのだった。
関谷は、ある日、新しい痩馬と一緒に、自分の息子の仙吉を連れて来た。
仙吉は、関谷宇之助の東京時代の女の生んだ子で、運平とは同年配の青年であった。その母というのは柳橋あたりの玄人だという噂もあり、とにかく最近までその母親と東京で、関谷からの仕送りをうけていただけに、てんで秋月などとは考えが違っていた。
関谷が札幌に落ちついて、正式にむかえた妻のおいねは津軽藩の士族の娘で、しっかり者の評判が高く、とかく計画だおれになり勝ちな関谷の仕事が、今度ばかりは成功といえるまでにこぎつけたのも、大半はおいねの力が加わったからだ、といわれてい
るほどだった。
その義理の母と仙吉のそりの合わぬのは無理もないことで、関谷は、この二人の間のいざこざには、いつも弱りきっていたのだった。
「まあ、秋月さん、儂の息子などと思わずに、びしびし叱ってもらうのですな。どうも、なまくら者だで、ひとつ、みっちり貴方のやりかたで鍛えなおしてもらわんならん。なにしろ、女の尻を追いまわしたり、金を使うことばかり知っとって、てんで自活の道もたたん奴じゃ」
関谷は息子を前に置いて、例の調子でずけずけいった。まるで、札幌で買ってよこす痩馬が、馬追の草原地で立派な耕馬に変るのと同じに、この息子の性根がなおるとでも思っている様子であった。
仙吉は、父とは正反対に気の小さい、神経質な小柄な男で、気ぜわしく、こせこせと身なりを気にしてみたり、年に似合わず薄い髪を丁寧に香油で固めることに腐心したりしていたが、また、妙な俳句をひねくりまわしたり、年中矢立てを持って歩いていて、むやみに文字を書くのが道楽だった。
だが俳句の方は、てんで問題にはならぬにしても、字だけは、ひどく覇気のある立派な字を書いた。
「どうです? 秋月さん、これは──」
関谷が一晩泊って帰って行くと、その朝、仕事に出ようとする秋月の目の前に、半紙に何か書いたものをつきだしながら、仙吉は、よく剃刀をあててつるつるになった顎のあたりをなでている。
親の意見も五月の闇よ
泣いて想うはぬしのこと
と、字だけはなかなか見事に書いてあった、秋月は仕方なしに苦笑いして、
「ほほう、都々逸ですが──うまいですね」
というと、
「いや、恐縮です。親父は一向に無風流でしてな。詩情というものを解しませんのさ。なにをいったってわからんのですからなあ。あれも亦気の毒と云えば気の毒でござんしょうな」
と気取ったものだ。
「秋月さんも、俳句をなさるそうですな」
「いや、するというほどのことはありません。村にいた時分若い者同志でまねごとをやったくらいです」
秋月は、長話しになりそうなのをさけて、忽々に跣足袋をはいた。
もちろん、仙吉が開墾地に出かけるのは申しわけだけで、木の切り株に腰を下して、煙草ばかり吸っていた。ときによると、興
にのったように矢立を出してなにか書いては、そのつど秋月の批評をききたがるのであった。
その仙吉が第一に目をつけたのがお民だった。だが、お民はてんで問題にせず、辛辣な皮肉ではねつけてしまった様子だった。
「馬鹿におしでないよ。これでも仙石じゃあ、お民姐さんで、若い者からは一目も二目もおかれていたんですからね。まあだ、玉子の殼をお尻にくっつけているくせに、顔を洗って出なおしといで──ッて、私、そういってやったのさ。そうしたら、持ってた手紙を、あわててひっこめてさ、いや、なに、ちょっとお民さんをからかってみたんだ、冗談だ、冗談だって──ホホホ……あの様子みせてあげたいようでしたよ」
お民は秋月と夫を前において、気軽にそんな話をして大笑いした。
「私にゃあ、杉山三造という、いなせな夫があるんですからね。ていったんだろう?」
秋月もその陽気な調子にひきこまれて、そんな冗談をいった。
「ええええいいましたとも、百万石にかえられない、いい人がいるんだよって──」
そんな他愛のないおのろけで、その話はおしまいになってしまったが、半月もすると今度はおちかをぬらっているらしいと、お民がいいはじめた。
「秋月さん、また変ですよ仙吉さんは──」
「どうしたい? また手でも握ったのかね?」
と笑いながら運平がきくと、
「いいえね、この頃ちょくちょく山形さんのところへ行くって出かけるでしょう? 私きょうおかみさんにきいて見たらそうじゃあないんですよ、今度は、おちかちゃんをねらっているんですってさ。まるでこの頃は、岩隈んとこへ入りびたりみたいに行ってるんですと。そして、岩見沢から、櫛だの、お白粉だのって買ってきちゃあ、御機嫌をとってるんですとさ。岩隈がまた、見てみないふりをしているっていうから、なにがはじまるかわかりませんよ」
そういって、お民は秋月の反響をうかがうように意地の悪い目つきをした。
「女の尻を追っかけるのが道楽だって、親父さんもいってたんだから、そのくらいのことはやりかねないね」
「狙っている鳥は、早く撃った者の勝ちだぞ。運平さん、おちかにおぼしめしがあるんじゃないのかい?」
杉山が顎髯を、毛抜きで一本々々ぬきながら横目でみた。
雨の開墾地の退屈な午後であった。他の若い者は思い思いに久樽の飲み屋にでもいってしまったらしく、小屋には午睡をしている西谷と、この三人きりであった。よく乾したはずだった茅が、あまり乾ききっていなかったとみえて、この頃の雨つづきに、虫が湧いて、屋根裏からばらばら落ちてくるのが不愉快だった。
「君じゃああるまいし、そう手軽に好きな女も出来ないよ。それに俺は、どうも女には好かれん性(たち)らしいでのう──」
秋月はさりげなく冗談にまぎらしたが、赤い帯と、ひっつめたおちかの銀杏返しに、仙吉の油でてかてかする髪の毛の薄い頭を並べて考えるのは、なにか不潔でいやな気がした。
そういえばこの間からときおり、運平が関谷から男達への給料として預かっている金を無理に出させて、岩隈の家で開く花札あそびに出かけるのも、あながち賭博が面白いからばかりではなかったのか、と運平は思いあたるのであった。