(5)
昨日からものうく、びしょびしょと降りつづいていた雨は、夕方になって、いくらかと絶えがちになり、やがて雲の切れ目がみえてきた。
開墾地の休養日は、この雨の日に限られていたが、仕事は休めるとはいうものの、雨が二日もつづくと、誰も彼もくさくさしてしまった。
内地では、この季節には、たとえ雨が降ろうと、水の中に入って田の草取りに追われる頃なのだが、ここでは雨の日に草取りも出来ぬから、住宅の修繕や農具の手入れをしながら、ぶらぶらと暮らしてしまう。
林の中では、ひねもす郭公がなきつづけ、夕方にきく筒鳥(つづどり)の声は、荒くれ男たちにも、遠い郷里へのほのかな郷愁を感じさせる。
ことにうすら寒い六月の頃は、杜鵑(とけん=ホトトギス)が夜も昼も啼きつづける。他の鳥のように、めったに人には姿を見せないが、声だけは群鳥をぬきん出て雨雪を断ち叨るするどさがあった。しかも、休止するときがほとんどなく、息つくひまもないほど連続的に啼くのだった。
なるほど昔から人のいうとおり、テッペンカケタカと啼くのだが、よくきくと、チヨツチョーと高くあげてそれから、チョーチョコと啼き終る。ききようによっては、幼げで、いたいたしい気もするし、また、どこやら不吉な予感さえ感じさせる音色であった。
六月の中旬の雨の日から、しばらく聴こえなかった杜鵑の声が、昨夜はまた夜どおしつづいていて、ふと目ざめた秋月は、妙に魂をゆすぶられるような気がしてねむれなかった。一日労働しなかったためでもあったろうが、日中は気にもかけなかった些細なことまで心を刺戟し、考えまいとすればするほど、不安や焦燥が頭をもたげてくるのであった。
目の前にどんどん開けていく土地が、自分のものではないということに、いらいらしている神経が、太陽の下で汗になって働いているときは、なんの苦にもなっていないくせに、こうして、ひっそりと、暗やみのなかで目をあけ、小屋をとりかこむ雨あしの音をきいていると、いやに、はっきりと意識のなかに上ってくる。他人の仕事の成功をひそかに羨むような、そんな心の狭さに気づくと、我ながらあさましいと思った。
ただ、関谷の仕事に夢中になっているうちに、よい貸下地を見のがしてしまいはせぬかという不安があった。やっぱり札幌にいて道庁にお百度をふんでいる方が安心なのだった。
瀬沼は、例の伊藤総長の教え子で道庁の役人をしている人の紹介で、北海道炭礦汽船会社の鉄道の方の仕事を見つけて、六月からは、手宮、幌内太間を往復する汽車に乗っている。
いずれ、近いうちにきっとよい貸下地を見つけて君にも報せるから、と手紙がきたが、運平はなんだか、瀬沼に
もだしぬかれそうないらだたしさを感じるのであった。
今夜も昨夜のようなことがあってはたまらないと、秋月は、夕方近くになって、雨が上りかけると、レミントン銃を肩にぶらりと外に出た。
雨雲が夕陽に追われるように足早に東へ流れていって、みるみる洗われた青い空か広くなってゆく、手足まで染まりそうな緑だ。葉にたまった露が、いっせいに緑に、金色に光りかがやく。まるでその露の宝玉は、人間の耳にはききわけられぬ微妙な音楽を奏してでもいるようだ。説明のつかぬ一種の歓喜が心をひたし、秋月は、その荘厳な日輪の饗宴のまえに、原始人のように礼拝したくなった。
いま少しまえに聞いた仙吉とおちかの話も、昨夜からの焦燥もぬぐわれたように消えて、秋月は高い声で唄う黒鶫(くろつぐみ)の歌の中にそのまま溶けこんでいった。それはトッピキピー、卜ッピキピーというように聞えだ。
すぐ沼べりの二ハトコの木で、行々子(よしきり)がおしゃべりをはじめ、森の奥では山鳩の声がしている。そのあいだを縫うようにカッコーの間遠な歌がつづき、自然はそのままで太陽への讃歌を奏しているのだった。
自然はそれなりで、すでに完成されたもののようであった。それを木を伐り、土を掘り、野獣や小鳥を追いはらって人為的に生産にむけてゆくということが、いいことなのであろうか──と、ふと疑いの心をおこさせるほど、不思議な原始林の妖気が漂っていた。
だが、運平は、すぐ目の前をバサバサと羽音をたてて飛び出した雉鳩(きじばと)の姿に、はっと、いつもの
自分にかえった。鳩は気どった舞いかたをして、あまり遠くない槭(かえで)の木の枝にとまった。しばらく、じっと様子をみていると、安心して、また、マアーオ、マーオとなきはじめた。
雑草をふむ跫音を気遣いながら、近よって銃をかまえた。葉がくれに優美な尾の形や、やわらかな胸のふくらみ
まで、はっきりと見てとれるのである。いつものことながら、期待と興奮に胸がかすかにさわぎ、もうその手応えさえ先に感じられる。この瞬間は、やはり一種の放心の状態に似ていた。
沈みかけた陽の光が、木々の幹を片側だけ朱色に染め、葉末からしたたり落ちる露の音ばかり繁く、このひとときは、全世界がそのままの姿で静止して、銃先に集まってしまうような気持だっだ。
──狙った鳥は早く撃った者が勝ちだ──このとき、ふとさっき杉山のいった言葉が心をかすめた。おちかの赤い帯がちらりと目に浮かぶ。思わず反射的に引き金をひいた。
狙いはそれたらしく、鳩はパッと飛び立って、素速く繁みの奥にかくれてしまった。槭の木から雨のようにしずくが散った。
「チェッ!」
運平は舌うちして鳩の行方を見送ったが、又散弾をつめかえて、ゆったりと森の奥へ歩を進めた。
二三羽の鳩と、鶫(つぐみ)とをぶらさげて、秋月の足は、いつか岩隈の家の裏手につづく森の東側に向い
ていた。ときおり、跫音に驚いて、野兎の飛び出すけはいがしたが、もう視力はきかず、木の葉をもれて、星の光がふってくる。森のはずれに近づくと、空のほの白い樹間に透いて、岩隈の家の燈火がときおりみえかくれした。
秋月はしらずしらずのうちに、また、おちかと仙吉のことを考えていた自分に気づくと、なにかいまいましい気がした。
ガサゴソと熊笹を分ける跫音の高いのにも気がひけて、まっすぐに森を出はずれ、岩隈の家のトウキビ畑に出た。夜目にも、黒々とよく葉並をそろえた玉蜀黍であった。
その畑のきわを通って、山形の住宅の方にひきかえそうとしたときだった、突然、なにかぶつかる音がして、岩隈の家の裏木戸から、ころげるように飛び出したのは、おちからしい。つづいてすぐ後から仙吉が追って出た。
林を背にした運平の姿は向こうからは見えなかったが、なだらかな丘の新墾地の空を背景にした二人の姿は、くっきりと影絵のように動いた。
小半町も行かぬうちに、おちかはすぐ追いつめられた。
「いやいうたら、はなしてえ──」
異様なひきつったおちかの声である。何を考えるいとまもなく、肩にした銃を一ゆすりすると、秋月は玉蜀黍畑を横切って二人に近よった。
人のけはいにふりかえった仙吉の白い顔にものもいわず、運平の平手がピシャリと大きな音をたてた。隙を与えずひるんだ相手の肩をつかんで突きとばすと、仙吉はたあいなく玉蜀黍の幹を二三本折って横にたおれた。
「馬鹿!」
運平は吐きすてるようにいって、体を構えなおしたが仙吉はあっけなくそのまま起き上ろうともしなかった。