北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部


 
(6)

 
 
翌朝、まだ白々あけに、山形権四郎がたずねてきた。
 
「少しめんどうなことですから、外へ出てもらえんですか」
 
山形は例の重い調子でいった。なにか困ったときの癖で、さかんに左の目だけをパチパチとしばたいている。運平が藁草履(わらぞうり)をつっかけて外へ出ると、だまって、さきに立って小屋をはなれ、南瓜畑の黄檗(きわた:キハダの別名)の切り株に腰を下し、腰の煙草人れをぬいた。
 
早朝の空気はすがすがしいのを通り越して、肌のすき間にしみとおるようで、運平は大きなくさめをした。
 
「どうしました? 赤んぼうでも、どうかしたんですか」
 
運平も近くの丸太に腰を下して空を見上げた。まだ西に光のうすれた月が残っていて、草は露に重くたわんでいる。日の出前の空がうす赤く染まって、一日がこれから始まろうとしていた。
 
「いや、なに、急なことでもごわせんが、昨夜おちかちゃんが逃げて来ましてな、儂んとこへ泊まったんでがすよ、どうしても岩隈んところへも、堀井にも帰るのはいやだといいましてなあ」
 
「ああ、あのことですか」
 
秋月は、昨夜はあのまま家へ帰って、ぐっすり眠ってしまった。おちかが山形の家へかけ込んで行くのを見送ると、たおれている仙吉は、そのままにして帰ってきてしまったが、何だかせいせいした気持で熟睡して、今朝は、そのこともいわれるまで思い出さなかった。仙吉はどこに泊ったのか、昨夜はとうとう帰ってこなかった。
 
「それでも、咋夜は秋月さんが通りかかられて、おちかちゃんも助かったというもんでがすよ。どうも、岩隈の奴にも、あきれたもんだ」
 
「岩隈? いや、岩隈じゃない──」
 
「それが秋月さん、あきれかえった奴等じゃごわせんか、あいつら仙吉さんから金をもらっているというこんでがすよ」
 
「──」
 
「岩隈も仙吉さんの来るのは承知の上で、昨晩はわざと堀井のところへ行ってしまったらしいんですがす。飛んでもないことをたくらむ奴等だから、かなわんじゃごわせんか」
 
「とにかく、岩隈にゃあ困らせられるなあ。それに仙吉君が、もう少し、しっかりしていてくれるといいんだが──」
 
運平は足もとの塊を蹴とばした。草の根の交った土くれは、ゴロゴロと転がって行ったが、くずれもせずに畑のへりにとまった。
 
「まったく厄介ですなあ。関谷の親方にしてみれば、可愛い息子だべども、開墾地の風紀を乱されるんだば実際困りもんでがすからなあ」
 
秋月は山形が思いがけず、風紀をみだす、などとやかましい漢語を使ったのが面白くて、心わずほほ笑んだ。
 
「まったくでがすよ。女子(おなご)の少ないところだで悪い習慣つけると困りますからなあ」
 
「君の女房だって、まだ若いし別嬪だからなあ──」
 
秋月は人の好い山形をからかった。
 
「秋月さんも、口が悪うがすなぁハハハ……」
 
「それは冗談だが、それよりも、仙吉君が岩隈にやったという金は何とか取りかえしてもらいたいなぁ──じつはみんなの給料なんでね、僕もうっかりせびられて貸してしまったんだが、十五円ばかり持って行ったんだ。僕は又、博奕の金だとばかり思ってね──もっとも、それだって困るんだが。あの人の親父の金だから、強いこともいえずに出したんだが」
 
「さあ──そりゃあ、まずうがしたなあ。話してはみますども、岩隈のことでがすから、とても、すなおに返しはせんでしょうなあ」
 
秋月も、いまさら、自分のうかつさに腹が立った。うまうまと仙吉に、おちかを買う金を与えたようなものであった。もっとも金のことは、自分の分をもらわなければみんなに迷惑はかからないが、それもあんまり業腹だった。
 
「とにかく、仙吉君には、私からなんとか意見をしてみるが、岩隈の方は、山形さん、あんたからよくいっといて下さいよ」
 
ということで山形は気がすんだらしく帰っていった。
 
仙吉は、その日の昼頃になって、なにくわぬ顔でぶらりと帰って来た。平手打ちを喰わされたのが、秋月だとは気づかぬふりを粧っている。それでもさすがにてれているとみえて、秋月には言葉をかけず、少しはなれて大豆の土よせをしていた。
 
「どうしなすったね昨晩は? 久樽のいい姉っ子にでも、うんと巻き上げられて来さしっただかね?」
 
事件を知らない杉山たちが、めずらしく神妙に鍬を持っている仙吉を冷やかした。仙吉は、ただにやにやしながら、みんなが昨晩のことを知っているかどうかと、様子を伺っていて返事をしない。
 
「仙吉さんは、男っぶりがいいから、もてるだんべえ」
 
「そうでもないさ──」
 
仙吉は、昨夜の醜態がみんなに知れていないけはいにほっとして、煙草をつけた。だが、お民だけは何かかぎわけてでもいるらしく、うすら笑いを囗もとに浮かべていた。
 
何を思ったのか、仙吉は、間もなく畑から帰って、着更えをすると、札幌にいって来ると、杉山に断って出かけていったが、そのまま半月ばかりは帰って来なかった。
 
七月半ばの暑い日に、ぶらりと馬追へ帰ってきた仙吉は、新調の背広に、真新しい麦藁帽子といういでたちで、なにか香水の匂いさえさせていた。どう工面をつけたのか、かなりの金を持っているらしく、紙入れの中から真新しい枡目のない札をぬき出して秋月の前に並べ、
 
「いや、どうも御厄介をかけました。とにかく先日拝借した分はお返し致しましょう」
 
といやに切り口上である。それから愛用の小さい銀製の煙管を出して煙草を吸いはじめたが、父親似の細い目尻の下った目の角からちらりちらり秋月の様子を伺っている。
 
「そうですか、じゃあ、たしかに頂戴しました。どうでした? 札幌は──関谷さんもお変りないでしょうね」
 
と、秋月が金をしまっているのを見ていたが、それには答えず、煙管をポンと叩いて吸殻をおとすと、
 
「ところで、秋月さん。おちかは、別に貴方の情婦というんでもないでしょうな」
 
秋月は、仙吉が冗談をいっているのかと、あらためて顔を見たが、別にふざけているらしいところはなくて、変に気取った白けかたをしていた。
 
「勿論、なんの関係もありませんよ」
 
運平は、答えながら、顔が赤くなるのをいまいましく思った。
 
「では──煮て食おうと、焼いて食おうと、あれの兄貴が承知すれば、貴方には、別に文句はないわけですな」
 
そう言いながら、例の矢立を出して、しきりに手に持った半紙になにか書きはじめた。真中からべったり分けた長髪が油でてかてか光っている。
 
「それは御随意ですが、あまり人道にはずれたことはしてもらいたくありませんね。この関谷農場の体面としても」
 
思わず運平も切り口上になった。
 
「ほほう──関谷農場のね。あなたは、この開墾地の支配権でもお持ちですか?」
 
手の方が先に相手の頬にとびそうであったが、秋月は自分を押えて、なるたけおだやかにいった。
 
「別に、そういうわけじゃありませんが、私も関谷さんに頼まれている責任上──」
 
「じゃあ、貴方は、親父にこの開墾地の仕事を頼まれたから、私の自由までも束縛しようというんですか?」
 
「勝手にし給え。そんな屁理屈は、もう沢山だ。君だってこのあいだの平手打ちの味を忘れはせんだろう。もっと殴られたいのか」
 
運平の秀でた額には、蒼い癇癪筋があらわれた。昔から気の短いのは自分でも知っていて、いつも自制することに苦心する運平であっだが、こう女の腐ったみたいにねちねちとからまれるのは我慢できず、思わず声が高くなった。すると、仙吉は急に態度を変えて、
 
「いや、まあ、そう怒らないで下さい。別に悪いことをしようというんじゃありませんよ、ただ、おちかが、岩隈の養女になるのは、いやだといいますのでね──」
 
と、にやにやしながら頭をかいて、少し秋月から遠のいた。
 
「で──あなたが妻君にでもしようというんですか」
 
運平はぶっきら棒にいった。
 
「さ、そこまでは考えていませんがね、まあ、早い話がおちかの兄貴の堀井は、岩隈に大分金を借りてるらしいんですよ。とにかく打つのと飲むのが好きな奴ですからね。それで、おちかを養女にといわれればいやといえませんやね」
 
仙吉は運平の顔色をうかがいうかがいつづけた。
 
「それで──まあ、金ですむことなら、私がなかに入ってやろうと、実はそういうわけなんですよ」
 
相手の怒りが暴力の一歩手前までいったことが一面では、何となしに快いらしく、仙吉は調子に乗り出した。
 
「まあ、どうでもよいようにしたらいいでしょう。ただ、あんまりみっともない莫似はしてもらいたくない、というだけです」
 
秋月はぷいと立ち上って、だらだら坂を沼のへりに降りていった。
 
興奮した後の体が妙にねばっこく汗ばんでいて気持が悪かった。沼は夕焼の空を映して、ひっそりと静まりかえっている。クワッ、クワッと啼きながら、十羽ばかりの雛をつれた鴨が向こうの柳の枝の繁みにかくれた。野性の水蓮が芦の葉かげに、ぽっかりと白く浮いているあたりで、バジャンと大きな音をたてて魚がはね上った。
 
運平は、ひきかえして小屋の戸口から釣竿を持ってきて、沼に糸をたれた。浮標もなにも要らない。糸をたれればろくに餌がついていなくても、魚はすぐ喰いつくのだが、運平の乱れた心は、ぐいぐいひかれながら竿をあげることも忘れて、ぼんやり考えに沈んでいった。
 
仙吉の相手などしていたのでは、何だか自分まで腐ってしまいそうに不潔な気がした。いつの間にか、おちかの帯の色になど気をとられるようになったことが、もう横道にそれる第一歩のように不安であった。
 
運平は、まだ女を知らない。彼の二十二年の半生には、そんな余裕も、心の隙間もなかった。彼は一心に、自分のいる位置から浮かび上りたかった。自分をこのままの状態で、いいかげんな下積みのまま終らせようとは毛頭思っていない。子供の頃から読みなれた日本外史や、三国史の中の英雄たちが、彼の頭のなかでは常に生々と動いていた──運平はそれ等の人々のように、その一生を睹けてひとつの仕事をしとげたいと思った。
 
乱世の頃でもあったら、文字通り剣をとって、天下統一の覇業でも夢みたかもしれない。そんな気魄は、子供のとき受けたわずかな漢学の素養によって培われ、一片の土を愛する百姓の地道な堅実な思想は、彼の隣村に生まれ、運平の母も子供の頃には逢ったことがあると、たびたびいって聞かす二宮翁の精神によって、知らずしらずのうちに育くまれていたのだった。
 
丁稚奉公の辛い味もなめている。背に喰い込むほどの薪を背負って、夕ぐれの山道を下ったわびしさも経験している。骨の髄までしみとおるような雨の中で田の草取をした何年かもあった。その中から、まるで、夢物語りのように、あこがれの学生生活にも救いあげられた。
 
だのに、その実地から離れて、理論にばかり傾むこうとする学校生活を思い切って放擲し、一片の土を求めて北辺の地に渡ったのも、考えてみれば、男らしくひとつの仕事を完成させたいというやむにやまれぬ熱情からであった。その場合運平は、一番手近な土、子供の頃から自分の体の一片のように思った土を対象に求めたともいえよう。
 
そんな熱情が、たかだ小娘のおちかの黒い瞳や、少し舌ったるい関西なまりの声音にみだされ、仙吉の不しだらな言動に刺戟されるのが口惜しかった。運平は、瀬沼に逢って、あのとほうもない野心のふろしきを展げてもらいたかった。
 
──貴公ら北海道の広さを知っとるのか──
 
運平は声に出して瀬沼の言葉を真似てみた。
 
沼の面は暗くなった。運平はもう釣竿を手からはなして腕組をしていた。
 

 

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