(1)
「どうも家のどら息子にも困ったものだ。どうです? 来ておりましょうな?」
もうカンテラをつける頃になって、関谷宇之助がのっしりと小屋の入口をはいって来た。いつもの古い黒の洋服に茶色のコールテンのズボンをはき、土産の馬肉の包みをお民にわたすと、関谷はだれにともなくいった。
「仙吉さんは、今日の午後帰って来られましたが、どうかされましたか?」
運平が答えて立ちあがった。
「それで、あいつ、またどこへゆきましたい?」
関谷は、上りはなに腰をおろしたまま手拭で襟の汗をぬぐっている。声には例のどこかとぼけたような調子がありながら、かくしきれない心労の色がみえている。
「さあ、夕方お出かけなすったんですけど、また、岩隈さんとこじゃないでしょうかね」
お民がすぐ土間につづいた流しに立つたままいった。
「そうですか──いや、大した急なことでもないのじゃが、秋月さん、ちょっと外へ出て下さらんか」
関谷は話の内容を男たちにきかれたくないらしい。運平はうなずいて関谷の後から外に出た。廐の前の丸太に腰を下すと、関谷はきざみをつめて火をつけた。
「いや、仙吉の奴、またおいねとやり合いましてな。なあに、くだらんことなのじゃが──そのあげく、昨夜ぷいと家を出て行きましたのじゃ。昨夜は例によって、薄野(札幌の遊廓)にでも行っとるのじゃろうと思っとったのですが、今朝しらべてみるとあいつ、屯田銀行から大分ひき出しておる。それが、おいねの名儀の預金なんですわい。いつの間にか印形まで持ち出しおるのでな。儂も、おいねには、仙吉のことでは大分遠慮もあるのじゃが、どうも、親の気もしらんで弱った奴ですわい」
「いや、そんなわけだったのですか。実は、もっと前にお話ししておけばよかったのですが、こっちにおられるうちから大分賭ごとに凝られましてね。そのうえ、あまりお耳にはいれたくないのですが……」
と秋月は、この間中からのことをかいつまんで関谷に語った。
「いやはや、そんなことでしたかい。じゃあ、きっと岩隈のところに行っとるに違いありませんな」
関谷はきき終ると、すぐ煙管をたたいて、しまいながら立ち上った。
「そうです、早くいらした方がいいかもしれません」
「馬鹿奴、全く箸にも棒にもかからん奴じゃ。秋月さんにも御迷惑をかけますな」
「なあに──気はいい人なのですが、それを利用しようという奴がいますんでね」
秋月は息子を罵る関谷のこころが身にしみ、何か羨しいものを感じるのであった。
十三才のときに死んだ父の顔は、運平には、かなりおぼろであった。これが父だ、と、はっきり自分のなかでつくる映像は、見つめているうちに妙に自信が持てなくなり、やがて、小田原の本家に働いている次兄の顔に変ってしまったり、本家の当主の秋月新助の細面な聡明そうな面ざしになったりした。
運平は成長するにしたがって、尊敬する誰彼を、いつも無意識に父親になぞらえているのがくせであった。郷里にいる頃は、新助が父のように思えた。その人の良さを見て、そこまでとどこうという努力をつづけていた。
二宮翁の孫弟子で、一本の藁しべも粗末にしない新助の生活態度に敬服し、道に落ちた繩きれまでも拾って帰ったものであった。ことごとに勿体ないという新助の言葉は、そのまま生きていて、決していや味やてらいにはとれず、秋月家の中興の祖ともなったこの人の処生の道は、青年期に入ってからの運平の理想となったものであった。
その新助が、せっかく学費を出してくれた学業を中途で放棄し、北海道行きを決心した運平は、当然新助の怒りを予期していたのだが、その抱負をきくと思いがけなく、新助は、膝をたたかんばかりに乗り気になり、我意を得たというように喜んだものであった。
よろしい、いいところに着眼された。だが行くまでにはひとつみっちり北海道の事情を研究してからですな──と蒼白い顔に微笑を浮かべた新助の面ざしは、そのまま運平には父の顔であった。
決心してからは、まるで北海道きちがいで北海道に関することは出来るだけ調べてみました。新聞に「北」という字が一字あってもすぐ目につくくらいです──と運平が答えると、新助は、頼もしそうにいっそう真剣な目色になっていろいろ相談にのってくれた。資本が要るなら、どんどんいっておよこしなさい。及ばずながら、お力になりましょう──ともいった。
だが、運平は、北海道の特定未開地貸下規則の条例をひいて、一人あたり十万坪を限度として、貸下げを受けた土地は、十年以内に開墾し終えるように年々に割当てをきめて、その配当の坪数ずつ開いてゆけば、成功の後、官から無償で付与されることになっているので、いまに大そう大きな金が入用ではないことなぞ、彼らしい精密さで詳しく説明するのであった。
新助は、その周当な運平の調査が大変気に入った様子で──まあ、あなたが、それだけ調べて行かれるなら、間違いは万々あるまいと思うが──と、考え深い瞳をちょっと運平の顔に据え声の調子を少し変えてつづけた。
物には目算違いということもある、行って見て、どうしても見込みがないと思ったら帰つていらっしゃい。出発に先だって、こんなことをいうのは、不吉かもしれな
いが、私は、事もし成らずんば、死すとも帰るな、とはいわない──見込みがないと思ったら、恥ずかしいなどと思わずいつでも帰っていらっしゃい。
それが、別れに臨んでの新助の餞けの言葉であった。それは運平の胸に泌みた。だれのはげましよりも心にじかにしみとおる言葉であった。そのひと言は、むしろ逆に石に噛じりついても成功するぞ、と運平の心にかたい誓いをたてさせたものであった。やるぞ、きっと仕遂げるぞ、運平は口に出してはいわなかったが、こみあげてくる感激の涙をのんで頭をさげた。
いま、関谷の様子を見ているうちに運平は、あの日の新助の言葉をまた耳にしたように思った。あれは父の言葉であった──彼は、そう感じた。自分の息子の仙吉のことをいうときの、関谷の表情のなかに同じものを見出すのであった。
その夜おそく仙吉を連れて帰って来た関谷は、別に何の変った様子もなく床についた。翌朝はまた、お民に夜の白々あけに朝食の支度をしてもらうと、ねている息子を起こしもせずに開墾小屋を出た。運平は、その関谷を送って、なにか気の毒な心を感じながら外に出た。
七つ葉や、ボウナの青々とした草原地には、放牧の馬が絶えず草をはみ、時折いななき、何か思いたったようにはね出したりしていた。彼等の栗毛の背中には、油が浮き出してでもいるように毛並が艶々と光り、青い空を背景にまるで土からいま生まれ出したというようであった。むしろ、それは、小さな馬小屋に繋がれてゴトリゴトリ羽目をけっている動物とは種類の異ったものに見えた。まだ晴れきらぬ朝の溺がうっすらと残っているなかで馬たちの生活は、もうとうにはじめられているのであった。
「よい馬になりましたな」
関谷は何かまだ、ここを立ち去りかねた様子で腰の煙草入れをぬきとり、太い煙管を喰え、目だけは、満足そうに馬たちの動きを追いながら、マッチをすった。
「馬のようなわけにはゆかぬな──」
煙管を喰えた囗で、もごもごといった関谷の言葉はそうきこえた。だれも同じことを考えるものだ、と秋月は、鼻の大きな薄痘瘡のある横顔に目をやって微笑した。
「でも、まあ、いい工合に岩隈たちに金を渡さんうちでよかったですなあ」
運平は、父親の出かけるのも見送らず、まだ頭から蒲団をひっかぶってねている仙吉の様子を思い出していった。
「わたしてしまっとると、岩隈の奴一筋繩では返しはせんですからなあ。ま、あいつのことだから、今後も何をしでかすか知れません。どうか遠慮なく叱って下さい」
運平は、土地や馬のことならとにかく、仙吉だけは、苦手だと思うのだった。
「さあ、では、そろそろ出かけますかな。まあ儂もこれで、おいねにだけはいいわけが立つというもんですわい。それから、若し仙吉の気に入っとるなら、あのおちかという娘を、まあ、嫁にもらってでもやりますかなあ」
「そうです。その方が仙吉君も落ちつかれるかもしれません」
運平はなんの躊躇もなく答えて吻っとした(ほっとした)。そして、自分のなかに、何かすがすがしい朝の空気に似たものが流れ込んでくるような気がするのであった。
「夏の仕事はまあお蔭で思ったとおりはこびましたがな。冬の伐木がことですわい。こればかりは機械でやるというわけにはゆきませんからなあ──どうも、この樹林地と云う奴は、地味は概して良いが、開墾には骨が折れます。あなたもその辺のところは、よう考えて土地の選定をさせることですな」
「まったく、今度は、ここの仕事をさせていただいて、実地にいろいろ勉強出来ました。いいことをしたと思っていますが、ただ、どうも、道庁が遠いんで──」
「ハハ……お百度をふむわけにはゆきませんなあ、だが、なにか発表があれば、すぐ儂が報せてあげます。まあ、あまり急いでつまらぬ貸下地などにひっかからぬことです。ほんとのことをいうと、儂もあなたにここを見て居てもらえば何よりの安心なのですて──少し虫の良い話かもしれませんがなぁ、ウァハッハ……」
関谷の声に釣られて、運平も仕方なしに苦笑いした。この人の、どこか人を食った豪放さには、運平もかなわない気がする。時折、関谷につかまってしまったのでは、どうにも、逃れられそうもないという気がしてくることもあった。
「儂はなあ秋月さん──」
関谷は、何を考えているのか縹緲(ひょうひょう)としたまなざしをして未開地の果てを見ている。次の声はつぶやくように低かった。
「日本の国土をひろげるのは、土の上ばかりだとは思うとらんのじゃ。土の下もある、水の上もある──いつかはこの虚空にもありはせんかと思うとる。儂はまだまだ仕事がしたい。あなたは土に熱中しとられるからわからんかもしれん」
「──」
運平は関谷がなにかまた、とほうもないことを考えはじめているのを悟った。だが彼は、ふと吾にかえったように煙草人れを腰にさすと、運平が久樽あたりまで送ろうというのを無理に断って、樹林地のみどりに染みながら遠ざかって行った。
運平は、関谷に逢うと、不思議に心がひろくなった。いらいらと神経質に考えていた貸下地のことや、仙吉とおちかの関係など、まるでとるに足らぬささいなことに思えてくる。悠々と、時の至るのを待つのだ、と、心の裕りが帰ってきて、小屋にひきかえす足幅も広かった。