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晴天がつづいて、燕麦(えんばく)の穂は鈴みたいにふくらみ、中の空洞なしっかりした茎を持ってふると、サラサラと、乾いた音をたてた。丈は大人の胸あたりまでのびている。その穂の重量からみても、大した収量になりそうである。故郷での作物は水稲が主で、小麦、大豆、小豆、なたね、甘薯などというもののほかはあまり知らなかった運平には、この異邦人を見るような収穫物の成長が面白かった。
オートーミールといって毛唐人はこれに牛乳をかけて食うのだ、といつか瀬沼が話したが、だいたいは馬糧として糧秣廠に納められる。一粒を噛んで割ってみると、甘い穀物の味がした。茎の下葉は大分黄ばみはじめて、もうこの月の終りには刈らなければならない。
玉蜀黍(とうもろこし)にしても、西洋種のロングフェローとか、ゴールデンバンタムなどで、実の長さが一尺くらいもあるのがある。開墾地の八月中旬から、ぼつぼつ愉しみが加わってきた。第一この西洋種の玉蜀黍を焼いたり、ゆでたりして食うのは勿体ないほどうまかった。
西瓜や、まくわ瓜も目に見えて大きくなってきた。運平が、内地でするように、丹念にうえたきゅりと茄子は、新墾地の肥量がききすぎて、葉や茎が化物のように大きくなり、その割に実がならなかったが、それでも夕食の膳に、新鮮な人間の食物らしい味を添えた。
正味、三か月くらいの間に、ひたすら季節に追いたてられるように植物は成育した。人々は、その成長においつくために、汗みどろになって働くほかは、なにひとつ、考えるいとまもなかった。
ただ、このなかで仙吉だけは、相変らずのんきであった。この頃になって、彼は、馬に乗ることに凝り出した。わざわざ自分の乗料にと、札幌の馬市から春風とか何とかいう南部種の純粋なのを買って来て、得意に乗りまわしていた。
気取ることの好きな仙吉は、どこでどう覚えたのか、なかなか巧みな乗手で、あまり不様なところはみせず、白い手袋に革の鞭など持って、さっそうと久樽や岩見沢に出かけていくのであった。
ただ、不平なのは、政一や健吉で、仙吉は、主人顔をして、この春風の丹念な手入れを二人にさせるのだ。馬屋も忙しいなかを、別に建てさせ、毎日きまって特別な調練をさせる。仕事のふえた二人は、ぶつくさいいながらも、朝晩に馬を洗ったり、ブ
ラシュをかけたりしないわけにはゆかなかった。
秋月も、困ったことが始まったとは思うものの、この前おちかのことで不愉快な思いをしてからは、仙吉のすることは出来るだけ見て見ぬふりをすることにしていた。
しかし、みんなが汗みずくになって、八月の炎天の下で働いているなかを、監督顔して馬に乗った仙吉が通るときなどは、さすがに運平もなにか言いいたくなる。かといって、仙吉に働かせたところで、どうせまともな仕事が出来るわけでもなし、と、運平は、そのたびに苦笑いと一緒に思いかえすのが常であった。
「いやみったらしい、あの手袋はどうさ、トンボみたいに光らせた頭に、あんな帽子をかぶって、どこがいいと思っているんだか」
モンペの腰をのばしたお民が遠ざかっていく仙吉の後姿に、唾でも吐きかけたい囗調でいった。
この頃は夕方近くと朝早い時刻には大変な糠蚊(ぬかか)なのでみんなは、カンレイシャの袋を頭からかぶっている。目のところだけは、墨をぬって物が見やすいようにしてある。それをかぶった姿は、どうにも怪物めいてグロテスクなものであった。だから、せっかくのお民の歯切れのいい悪口もその表情までは見られない。
「まあ、乗場に凝るくらいはいいとしても、競馬なんかに凝り出されるとことだな」
と秋月が相槌を打つ。
「なあに──ああいう恰好で女の子を迷わせようというのがおちですよ」
「肝心の御当人より馬の方がほしいなんていう女が出て来るずら」
向こうの方から政一がいった。
今日は丘の新墾地に蕎麦(そば)をまいていた。プラオをかけただけの土の上に種をばらまき、そのあとを馬に曳かせた爪ハローでまぜてゆくのである。
「だけど、こんどはおちかさんじゃあなさそうだね、久樽のだるまやのなんとかいうあばずれに、大変な御執心だってバッ夕掘親父がいってたよ。また鉄道人夫なんかといざこざなんか起こさなけりゃいいけど」
「なあに、人がよいから、さんざん甘えられて、デレデレ金でもしぼられるのがおちさ。女の方が本気でかかるもんかい」
と杉山は囗が悪い。
「何しろ、から意気地はねえんだからのう。関谷さんの子にしちゃあ、まあ鬼っ子だなあ。このあいだもよ────」
杉山一人でおかしそうに笑いながらつづける。
「ほら、俺と一緒に角田の泉さんのところへヒルサイド・プラオを売りに行ったときよ。あの道は又ここらたぁ違って夕張岳につづく深林だから凄いやね。俺が馬を追って奴コさん馬車の上でコクウリコクウリやっているのさ。俺もあんまり退屈だし、ちょっとふりかえって見ると、いい気なもので遊山気分に矢立なんか出して、例の俳句をひねりひねり居眠りなんかしている。ウフ…………からかって見たくならぁね。いきなり馬をガタンと止めたね。そして、セ、仙吉さん、出た、出た、熊、熊だぞう──っていったものさ」
話し上手な杉山に釣られてお民も秋月も、ちかまの政一も手をとめてきいている。
「するとなぁ、ウァアーと、こっちがびっくりするような声を出して、まっ蒼になったと思うといきなり馬車から飛び下りて、御丁寧にひとつ転んで夢中で逃げ出す仕末さ。俺ぁ、おかしくって、おかしくって、オーイ嘘だぁ、仙吉さん嘘だよ、というのがやっとさ──あのざまといったらハハ……。あの秘蔵の銀の矢立はその時なくしたのさ」
「人が悪いなあ──」
一同は陽気に笑った。
「それでも、内緒にしてくれって、帰りに一杯おごったっけ」
だが、だれも仙吉を憎む気になれなかった。秋月は、そこに、愛すべき道化者の悲しい人の好さを見い出して、歯がゆいようなどうにもならぬ気持になるのだった。
「いよう──別嬪(べっぴん)よく似合うぞJ
後から船に乗り込んだ若い衆が二人、一杯ひっかけて来たと見えて、酒臭い息をふきかけながら、わざとお民によろけかかった。
「へん、こう見えても江戸ッ子だからね」
お民も負けずに、こずき返して着ている印粋纒(しるしまとい=祭り着)の襟をピンとひっぱった。
今夜はこれから久樽の盆踊りに行こうというのだ。お民はわざと、政一の新しい印粋纒に紺の股引といういでたちで、豆絞の手拭を頬かむりして鼻の下で結んでいる。それが、また、細そりとうわぜいのある、小股のきれあがったお民にはよく似合って、ふるいつきたいような色気があった。
夕風に、お民のつけた白粉の匂いがなまめいて、船は岸をはなれた。まだ日は暮れない。白夜のようなこの昼と夜の境に、夕張川の水だけが豊かな水量で流れている。真珠色した西の空に、札幌、恵庭、樽前の山影がくっきりと浮きあがり、裾のあたりにたなびいた一面の雲が紫紺色をしていて、どうみても、山々の姿は海洋のなかに浮かぶ島であった。
東に熊がうずくまった形で黒く横たわった夕張岳の背がうす明るくなって、月が出ようとしている。北海道のお盆は北国の習いなのか月おくれの八月であった。
杉山も頬かぶりのなかでにやりにやりしているが、夕ぐれとはいえこの夏のさかりに女房の赤い長襦袢(ながじゅばん)を着こみ、そのうえから浴衣をひっかけているのだから、さすがに暑いらしく、首すじの汗をふいている。
秋月は、この酔狂な夫婦が面白くてならぬ。いやに気がきいているくせに、子供のような無邪気さのある杉山と、気の強いくせに涙もろくって、すぐに感激してしまうお民とは、全く気の合った似合いの夫婦だった。
杉山は若い衆たちが女房をからかっているのを満更でもなさそうな様子で、知らん顔をしながら、自分がくすぐられてでもいるみたいな表情をしている。
「忍路オ──高ア──島ア── およオ──びイ──もオ──」
運平が唄い出した。いつか習いおぼえた追分節は、運平の最も好機嫌のときに出るくせであって、そのよく透る声と、節まわしの巧みさはなかなか堂に入ったものであった。この場の雰囲気にはぴったりしていた。悪ふざけをしていた若衆たちもひっそりと静まった。何か哀調をおびて唄は川下へ流れてゆく。
「いいねぇ──」
お民がほっと息をついていった。
「運平さんに、少し浮気をさせたいねえ」
「おっと、お民さん、御亭主の前ですぜ」
運平はすかさず応酬する。いつにもない心の軽い夜であった。囗ではそんなことをいっても、運平は、手織木綿の単衣に白天竺(しろてんじく=白い木綿)の兵児帯(へこおび)で、腕組みをしたまま、相変らず今の冗談はだれの口から出たのかという真面目な顔をしている。
渡船は間もなく向こうの岸についた。おどりの太鼓の音がひびいてくる。風に乗ってそそるような高調子な唄声や、人のざわめきまできこえてきて、お民はもう、すっかり浮き浮きしていた。
白粉をぬって、紅をつけて女の浴衣を着た男や、杉山のようになまめかしい長襦袢姿の若い衆がある。お民のように印絆纏の女房があるかと思えば、絞りの浴衣の娘があり、なかには、もうかなり腰が曲かっていそうな老婆まで入り交ってのおどりである。まだおけしを残した五つ六つの子供さえ、ませた身ぶりで踊っているのだ。
月が上った。夜風はもう少し肌寒いくらいではあったが、この何かに憑かれたような一団の人々から発散する熱気のためか、薄い靄のようなものが漂い、月光はおぼろであった。中央には高い櫓が組まれ、そのうえに大きな太鼓が据えられ、声自慢の唄い手も三四人は上っている。
女と男がかわりがわり卑猥な唄を眉間から出るような甲高い調子でうたい、情感をゆすぶる太鼓の音が合いの手に入る。それは遠慮もなしに人間のなかの、かくされた獣心を叩き出す音色であった。
いっかお民も踊りの輪にはいり、声自慢の杉山が櫓の上に登って習いたての秋田音頭を唄っていた。相当道楽息子だっただけに、杉山の声はさびのあるいい声だった。
秋月運平も最初の中は、そのうわずった雰囲気を面白がっていたが、その中なにか次第に冷静な気持になってくると、変なうそ寒さを感じはじめた。
日本は大政奉還の以後二十四年、今新しく正道に帰った勢いで、逞しくのびていこうとしている。十一月に召集される第二回の帝国議会を前にして、松方内閣と民党とが睨み合いの形で対峙している議会政治当初の困難な時代ではあったにしても、この地方ではまだ、政治を云々し、自由民権とか、藩閥政治の打倒とか、そんなことを考える野心家はなかった。
あるとすれば、運平が、不正な土地の処分法などの噂をきいて、官吏の横暴をいきどおるくらいのもので、民衆はとにもかくにも自由人としての立場を与えられ、努力しさえすればとか、よい機会さえうまくつかめばと、一攫千金を夢みていた時代である。
資本主義初期におけるこの新興の気分は、新開地なればこそ、いっそうはっきりと、人々のなかに生きていた。野心が露骨に顔を出し、大言壮語が横行し、だれの表情にもなにか目論んでいそうなけわしいものがあった。ことに、ここには内地の各地方からの意慾が集まっていた。希望と、野心と、いくらかのデカダンスさえ交り合って、かなり無拘束なあらあらしさが感じられた。
そのような、いぎたなさが、宏大な自然と取組んでいるうちは、あまり目立たないが、こう人々が集まって、真夏の月下に踊り狂っているとなると、なにか怖しいほどくっきりと浮きあがり、殺気に似たものさえ漂っているのであった。
この卑猥な雰囲気のなかにそのようなものを見い出したのは、運平自身の心の影であったのかもしれない。だが、彼は、この素朴というよりも、むしろ野蛮な盆踊の情景の中に交りながら、はげしい焦燥の想いにかられはじめた。
その甲高い唄声は、文句が猥雑であることによって、むしろ粗暴なものを感じさせ、太鼓の音の烈しさは、逞ましい慾望の図太さで迫ってきた。
運平はこの妙な気持のままで腕組みをし、ぼんやりと放心したような視線をさまよわせていたが、ふと、なにか、近くに、さわやかな微風のようなものを感じて吾にかえった。
運平のすぐ前におちかが立っていたのだった。彼女は、かなりまえから、運平を見つけ出していたらしく、人の肩越しにこっちをふりかえっていた。
さっき、来たばかりの時は、運平も、一寸、踊りの輪のなかにおちかの姿を探した。だが、まるで、この吾を忘れた人々の姿態から、平常の誰彼を、はっきり見い出すのは困難で、運平はすぐ、そんなくだらない努力を諦めてしまったのであった。
おちかは、薄化粧だけはしているものの、いつもの見なれた中形を着て、髮だけは、艶々と油の光る銀杏返しに結っている。おちかの円い黒い目はさすがに興奮の色をみせて、なにか妖しく美しかった。運平がちょっと笑ってうなずいてみせると、おちかはややあわてた表情でうつむいてしまった。
「いよう、関谷農場の大将──踊れでや、おどれでや──はア──盆の十三日に踊らぬ奴はア──ツと、馬に蹴られて死ねばよオい──ツと、なあ大将」
運平の背後から、よたよたと抱きついて来たのはバッタ掘親父だ。好きな酒を鱈腹飮んで、上機嫌だ。相変らず髯だらけの顔に、だらしなく涎(よだれ)をたらし、濃い眉の下の小さな眼は、まっ赤に溢血している。
運平は熟柿臭い息をふっかけられながら、不意に抱きつかれてよろよろしたが、大男のバッタ掘と、もつれるように見物の中からはなれて、後にさがった。
「ナ、なあ大将、関谷の親方だば、話せる人だもな、ド、どうでえ──コ、これ、これだ──」
と、親父は、きたない腹掛のドンブリを秋月の手をとってたたいてみせてにたにたしている。
「な、これだ。おらあ金持よ。命の親だ。お前の恩は忘れないぞ。金が要れば、いくらでもやる。一生、酒飲ましてやると。な、大将、おらあ、銭コがほしいんじゃねえ、その、その、関谷の親方の心持が嬉しいでや。心持、そのこころってもんはな………」
酔払いは、水洟と涙を一緒に手の甲で拭き、どこまでくだを巻くか最限がない。
「よし、よし、わかった。もうわかったよ、親爺」
運平は、やっとのことでバッタ掘の腕を肩からといた。夜露が草の葉に冷たい。月はもう中天にかかり、背筋が冷え冷えとしてきた。