北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部


 
 
(7)

 
夜どおし踊るつもりでもあるのか、そこにはもはや人間というよりも、むしろ妖気を持った姿態があるばかりで、とおりすがりにちらと見ただけの運平には、悪夢が通りすぎたのに似ていた。もう一時をまわっている時刻で、宿星はおもむろに位置を変えていた。
 
運平は、だるまやで三人に思う存分飲ませ、何がしの金を包んで松に渡すと、恵比須顔の工夫たちを残して外に出た。月は中天をすぎ、星々さえもこの夜空の下で悪鬼のように乱舞している人々などには、およそ目をくれぬ無関心さで白々と輝き、天と地はただ広漠とつづいている。秋月も、この自然と同じくらい、これらの出来事には遠い心になっていた。
 
それは、いま、ゆくりなく、工夫の一人が囗にした上川平野のことが、彼の心をいっぱいに占めてしまったからであった。この同じ夜空のしたに、原始のままの姿でひろがっている石狩川上流の沃土が見え、原始林の暗いかげに同じ月光がさし込んでいる様が浮かびあかってくる。魂をゆすぶられる想像であった。まるで、ここにこうしている、関谷の農場の仕事をする一人の男としての彼は影のようなもので、も憾や実体は未知の平原にさまよっているのかのようであった。
 
古くは、近藤重蔵が文化四年に、西蝦夷地を巡歴し、天塩から石狩原野にはいり、露宿数十日、跋渉百八十里、その無人の宝庫を発見して、幕府にその開発を献策している。
 
明治六年五月には、開拓使の雇教師ベンジャミン=スミス=ライマンが専ら地質、鉱物の調査のため補助秋山美丸ほか訳官及び人夫数十人を従えて石狩川を溯り、夕張、雨竜を調査し、石狩川左右の連山が素晴しい無尽の大炭田なのを発見し、神居古潭には、蝋石(ろうせき=やわらかい石)の出ることを査べ、その難所を越えて上川盆地に出た。それから、大雪山系の最高峰ヌタプカムシュペに登って、石狩川の分水嶺をきわめているのである。
 
彼は極力上川平野の風光を称し、ここに天皇陛下の行幸を仰ぎ、それによって、この当時停滞していた北海道の拓殖を成就させたいと希望している。運平は、その報告文中の外人らしい文章を読んだことがあった。
 
『斯て余輩は茫漠たる平原と、森々たる樹林ある平坦清爽なる地方に来たれり。此地は遠山囲繞(いじょう=取り囲む)し、石狩岳は正東に方りて盛夏尚雪を戴き余輩の眼前に聳え、其の土壌の肥沃なるは、感ずるに余あり。真に日本のカジュメア(印度にありといふ古来天富の国をいふ)と称すべし。
 
明年若 天皇陛下札幌に行幸ましますことあらば此の上川まで龍駕を進ませられざるべからず。是余が此地に於て申語りし所なり、蓋し其の御道筋は、甚容易なるべく、而して其の山野の美景は叡慮に適ふべきのみならず、野営(天幕をいふ)の御住居も亦一入の御慰みならん。尤も、其設け方は如何様にも全備せしむることを得べし。古昔印度のモゴル大帝の旅行には、天幕を用ひて最も華奢に時日を過せしことあり』
 
それから細々と龍駕通過の御道筋を説明し
 
『陛下には御意に適ひだる川蒸気にて、天明又は少しく遅く石狩川口を御発程あらば、午後四時には神居古潭に着御あらせらるべし。夫より馬車に召されて余輩の露営を占めたる近傍或は神居古潭に近き方の小丘の行営へ五時頃には臨御あるべし。其の小丘は訳官の話に、往古の一大都府(奈良であらう)たりし訳官の故郷に名高き三笠山と呼べる山に似たりと。
 
若し川蒸気船を用ひて日々往復せしめば、供奉の朝臣は勿論、食料等如何程大量なるも之を送るを得べし。若し御遊猟の思召もあらば、此の小平原は最上の地にして、特に其苑囿(えんゆう=草木を植え、鳥や獣を飼う所)に定め置かるゝも亦可なるべし。而して此の平原の地質が神居古潭の水車を以て粉と為すべき穀物と麻布を織るべき亜麻とを植るに宜しきは余の信ずる所なり。
 
天皇陛下一度此地に臨幸あらせられんには、御屡々(しばしば)行幸あらせられたき叡慮を起こさせ給はんこと必然にして、彼のモゴル大帝の一層遼遠なるカジメアに行き続けし如くなるべし。而して陛下若し、爰(ここ)に壮麗なる避暑宮と温泉場とを築き給はゞ神居古潭の大理石と蝋石とを以て之を装飾さるゝを得べきなり』
 
ライマンは外国人らしい無邪気さで、まるで夢を見ているように至尊の行幸を願い、この桃源境に壮麗な空想の離宮まで築きあげているのであった。
 
そのライマンの夢が伝染したのか、もっと外に理由でもあったのか、十九年に初代の長官岩村通俊が赴任すると、彼は何よりも上川開発を主張し、北海道の中央部に当る此の地に北京を建造し以て開拓の中心となすべし、という意見であった。その上、遂には永山武四郎の難宮建設具申書とまでなって表われたのであった。
 
こうして、上川平野の中心当時の忠別太は人々の注視の的となり、夢の都となっていたところであった。道路工夫の話によると、この六月には、上川の永山村に屯田兵第三大隊四百戸が移住して来たというのだ。官では、上川平野を今区画している。近く貸下地となるであろう。というようなことを、種々な矛盾の多い話のあいだから拾い出した運平は、もうじっとしてはいられない気持だった。
 
明日にも馬追を出て石狩川を溯ろう。何か何でも、この目で、この原野を見たい。この手でその土に触れたい。運平は黙々として渡しを渡った。月光のまばらに樹間からもれる原始林をぬけた。小屋の前に来るまで、彼はどこをどう歩いたのか、まるで意識していなかった。
 

(8)

 
燕麦刈り時期の晴天は、一日千金にも代え難い幸運であった。刈って乾燥しておく間に雨に逢うと、すぐに黄色い穀粒は汚い灰色に変って、納入のときの等級が下る。いい工合に雨に当らないので、脱穀器から落ちる燕麦は、明るい金色に光っていた。台の上に竹を並べて作った大きな簀(すのこ)の子の両側に並んだ人々は、凡そ両手で一まわりぐらいに束ねた燕麦の朿を力いっぱい簀の子の表面に叩きつけて穀粒を落とすのだ。
 
何でもないようにみえて、長い問つづけるとかなり力も要り腰も痛くなる。硬い芒(のぎ= 稲・麦などイネ科植物の実の外殻にある針のような毛)やふわふわした軽い蝶々(燕麦の苞)がシャツの襟首から背中に入りチカチカと痛い。絶えず埃を吸うので、喉がからからになってくる。
 
もう誰一人冗談をいうものもなく、黙々と束を打ちつけている。機械のように手が動き、ひとつのリズムを持って簀の子が鳴るばかりだ。台の下からすくい出す穀粒は、すぐ黄色い山を形作った。素晴しい収穫だ。段当り六七俵は優にあろうと思われる。肥料を使わぬ新墾地のこの生産は、いかにも天が人間に与える恩恵のようであった。
 
空はもう秋の色に澄み透り甲高い百舌鳥の声がしている。お盆をすぎると、足早に秋が近よってきたのだ。
 
「みなさん、さあ、お茶にしよう──」
 
お民が大鍋と薬鋪をさげてやって来た。焚火の煙で真黒になった鍋の中には、馬鈴薯が皮ごと茹だっていて、塩がふってある。一同は、燕麦おとしの莚の上に円く坐り鍋をかこんだ。
 
「うん、こいつあうまい」
 
と、秋月が皮ごと頬ばって満足そうだ。
 
「トウキビもいいが、又このゴショ薯はいいなあ。内地の薩摩薯を負かすね」
 
一同は薯を喰っては、薬錐の水をゴクゴク飮んだ。
 
「あ、そうそう秋月さん、手紙が来てましたよ」
 
お民がモンペの前にはさんだ封書をさし出した。関谷宇之助からであった。運平は、薬鋪の口から水を飮んでいたのをやめて、手紙をうけ取った。
 
- とりいそぎ一筆参らせ候 -
 
それは、関谷の女房のおいねが書いたもので、立派なお家流の字で、文章もなかなか要領を得ている。宇之助の手紙といえば、いつも、しっかり者のおいねが書くのであった。
 
承り候えば仙吉こと一方ならぬ御世話様に相成り居り候こと、つねづね感佩罷りあり候ところまたまた御迷惑相かけ候段何とも汗顔の至りに御座候道路人夫の申条誠に無理からぬことにて危きところ体に傷一つ受けず貴殿の当を得たる御はからいにて事済み候趣き只々感泣致居候不取敢御用立の金子同封仕候間御受取被下度候
 
次に此度道庁よりの公布によれば来る十一月頃より石狩国上川郡近文原野を一万五千坪当てに区画貸下げ致すべき候由につき、いよいよ貴殿目的達成の好機到来と存じ候早速実地見分の上願書呈出致さるべくもっとも願書受付は十一月一日よりとのことに御座候間期日は充分有之候えども書式万々手落ちなきよう相図らるべく願上げ候左に公布之趣き書写し参らせ候
 
運平の顔色は変っていた。手紙の文字を追う瞳には鋭い光が加わり、大きな口をきゅっと一文字に結んで、眉間にはけわしいものが浮かんでいた。
 
「関谷さんどうかしなすったのけえ?」
 
向き合っていた杉山が不思議そうにいった。
 
「いや別に──それより、おい、貸下地があるんだぞ!」
 
読み終えた手紙を巻きかえしながら、運平は笑った。晴々とした笑いである。お民は、運平の、こんな笑いをはじめて見たと思った。
 
「ま、そうですか? そりゃお目出度い」
 
「ほんとか? また、かつぐんじゃあんめえな」
 
杉山は、秋月の顔色をうかがうようにいった。
 
「かつぐもんか、ほら──」
 
秋月は、手紙をぽいと杉山の前に放ってやって立ち上った。もうじっと坐ってはいたたまれぬ気持であった。秋の空に向かって、ウオーツと大きな声でさけびたかった。手を展げて、樹林地に向かってかけ出したくもなった。跣足袋の底に当る燕麦の刈口をふみながら、運平は獣のように歩きまわった。
 
貸下地だ、貸下地だ。上川盆地、近文原野、石狩川の上流だ。石狩川を遡るんだ。そうだ鮭が卵を生みに上るように、石狩川を遡るんだ、わけもなくそんなことが思われた。彼の目には、三尺もある鮭が、尾鰭(おひれ)を逞しく動かしながら、深林にかこまれた石狩川の上流へ遡って行く姿が浮かんだ。
 
遠い北の草原地を越えた向こうに、ピンネシリと呼ばれる蒼い山脈がっづいている。石狩川は、その山を越えた、もっと北、ほとんど北海道の中央部に当る大雪山系のオプタテシケ、石狩岳、ヌタプカウシュペの山々から流れ出るアイペツ川、ペパン川、チュプペツ川などを合わせてそこに上川盆地を形作っている。上川盆地こそ、ここにはじめて石狩川が石狩川らしい風貌をととのえて、神居古潭へかかる川々の集合地点であった。
 
運平は乾ききった空の彼方に肥沃な未開の盆地を画き、土が山々を越えて呼びかけているのを聴いた。盆踊の夜から、運平は、じっと自分を押さえていた。朝毎にホシをつけ跣足袋をはく度に、今日は、このまま逃げ出して行こうかと思った。自分達で拓いただけに愛着もないわけではないこの馬追を、今日こそ見捨てて探険の旅に上ろうか。でなければ、大豆落しだけでもすんだら、夏蕎麦を俵にしてから──いや一ばん作付段別の多い燕麦落としがすんだら、と運平は幾度自分を制したことかしれない。
 
関谷の言葉を信じて待った。関谷は、運平の信頼を裏切らなかった。彼は運平に行けという。青年の胸には、関谷の為人(ひととなり)が沁みとおるようになつかしく、好ましいものに思われ、あのゆったりとした風格がそのまま近文原野のように想われてくるのであった。
 
 

 

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