(1)
枯草から小枝に移った焔は、急に勢を増し、はぜるような音をたてて燃え上り出した。空腹と肌寒さに、やや気の重くなっていた三人は火の色を見ると、にわかに活気づき、
「さて、じゃあ飯を炊くか、貴公、火の上に三叉をつくれよ」
そういって杉山が先ず立ち上った。馬の背から降した叺(かます=藁むしろでできた袋)のなかからメリケン袋にはいった米を出して鍋に移すと、杉山は熊笹を鎌で刈りながら川端に下りて行った。
「相変らず気の軽い男だな。重宝でいいや」
運平はまだ不精に足を投げ出したまま、立ち上ろうともしない瀬沼にいってにやりとした。
「あまり、こせこせすると、大成はせん」
瀬沼は眉をあげ口端を下げて、また太い枯木をつぎたした。小柄な体に、無理に悠然としたものをみせようとしている。
「しかし、みんなが、君や僕のように、不器用でも困るからなあ」
「そこは得手々々よ、貴公は鉄砲をうつのが上手だし、僕は釣りに妙を得ている。どうだ、ひとつうぐいの汁でも作るか──」
瀬沼は、ポケットから出したテグスに釣針をつけはじめた。
「よかろう──ひとつ頼むぞ」
運平は手頃な三本の木の枝を中ほどで結えて、火の上に三叉を立て、あけびの蔓に鉤の手の枝をつるして鍋をかける用意をした。
「ほら、結構器用に出来たじゃないかい」
熊笠のしのにテグスをつけた瀬沼はいいすてて、川上の方に道を横ぎって入って行った。
三人は、今朝、まだ朝露がいくらか水霜に変っている頃に久樽の渡しをわたり、宿望の上川へ旅に上ったのであった。
運平は、小田原の兄に貰った古洋服にホシをつけ跣足袋をはき、瀬沼も官からの払下げだという詰襟の洋服を着ていたが、杉山三造だけは、筒袖にモンペをはいているのが、どうも、気がひけるという様子であった。
三人は、出来るだけ金を使わずに視察の目的を達そうと申し合せ、まず、関谷の開墾地の道産の馬を一頭ずつえらんで駄鞍をかけ、莚、毛布、米、味噌、鍋、茶碗、庖刀、鎌、鉈などを各自に分けて叺に入れ馬の横につけた。それから、当人は真中に乗って颯爽と北に向かって鞭をあげたのであった。
もっとも、久樽の渡しに来ると、ここはアイヌのクリ木舟で馬は載せられぬから、荷物も鞍もおろして、全裸にした馬を水際まで引きつけ、否応なしに後から川に追い込んだ。馬は追い込まれてちょっとびっくりした様子でたじろいだが、間もなく上手に泳ぎ出して、一同のクリ木舟がつく頃引には、向こう岸で、体をふるいながら待っていた。
夕張道路は、日照つづきに白く乾ききって、馬蹄のあげる土煙がもうもうとたっだ。この春、汁粉のような雪解の道を、鈴木達トワタリをつれて馬追の開墾地にはいってから半年近くなっている。運平にとっては、もはやこの無人の通路も、幌向原野も住みなれ、通りなれた親しい景色である。彼は、いまさらのように、いつか心が、この風土になじみ、とけ合って、旅にいるといったような中途半ばなものをすててしまっているのに気づいた。
一行は間もなく岩見沢についた。ここには、明治十八年に移住士族取扱規則保護のもとに、移住して来た鳥取、山口外諸県の士族二百七十七戸が幌内線の南北に一部落を作って開墾をはじめていたほか、バラック同様の停車場附近に、十五六戸の商店がカサカサしたような生活必需品を売っていた。
三人は、ここで、塩鮭、若布、切干などの食糧品や、各自の必要品を買った。杉山三造は、刻煙草を十匁買って二銭九厘を払い、瀬沼と、運平は黒砂糖を半斤ずつ買った。半斤が三銭八厘なので杉山に、どうだ煙草の方が安あがりじゃないか、砂糖をなめるなんて、贅沢だぞと笑われた。
ここからは、明治十九年に樺戸の囚徒たちによって開鑿された上川道路(現在の国道12号)である。豪放勇猛を持って知られていた武人あがりの安村治孝という典獄に指揮されて、上川迄の難工事は、僅か二か月半で竣工した。延長二十五里、工事費三千七百八十七円余と記されてある。
北海道開拓事業の促進には、なによりもさきに交通路を完備させるにありとは、明治十七年に金子堅太郎の北海道開拓に関する七建議案として、時の参議伊藤博文に提出された有名な道路開鑿の議である。
だが、彼は時の国庫の財政困難なるを思い、その方法として、集治監の囚徒を以ってこの工事に使役すべしと主張している。
『彼等は固より暴戻の悪徒なれば、其苦役に堪へず斃死するも尋常の工夫が妻子を遣して骨を山野に埋むるの惨状と異り、又今日の如く重罪犯人多くして徒らに国庫支出の監獄費を増加するの際なれば、囚徒をして是等必要の工事に服従せしめ、若し之に堪へず斃れ死して人員を減少するは、監獄支出の困難を告ぐる今日に於て萬止むを得ざる政略なり』
と云い、当時、北海道で普通の工夫を使うと、一日賃銀四拾銭もかかるが、これらの囚人には、わずかに抬八銭を支給すれば足りるので、道路開鑿費用中賃銭に於て半分以上の減額を見る『これ実に一挙両全の策と言ふべきなり』と実に思いきった主張をしている。
この大変に合理的な、しかも非人道的な囚人に対する考えかたによって、実行された囚徒使役が、後に普通の土方を使用しての所謂監獄部屋の悪習の根源をなしたのかもしれない。しかし、この時宜に適した方法によって、北海道の交通路は急速に開かれ、開拓事業に大きな貢献をしたことは否めない事実であろう。
とにもかくにも、明治二十四年の秋、運平たち一行が道産馬に乗って岩見沢から上川にむかったときは、すでに幅三間、中央九尺には砂利を敷いた立派な道路が完成しており、諸川にかけた橋梁も堅牢なものであった。
三人は、夕方まだ暗くならぬうちに、空知太(現在の砂川市の一部)まで延長工事中で開通せぬ鉄道線路を踏み切り、真新しい橋の欄柱に『ぽんびばいばし』と書かれた小川を渡り、道の左側の草原で野宿することに定めた。附近の木に繋がれた馬たちは、思い思いに雑草で腹を充たしはじめ、三人もとりあえず夕食の支度にかかったのであった。
運平の心には満ち足りた思いがあった。いよいよ自分の道に、なにの妨げもなしに前進してゆくという愉快さが、若い心を興奮させ、食事を済ましても、星空の下に焚火をかこんだ三人は、容易に寝ようとはしなかった。
「おい、今時分は、お民さんが淋しがっとるぞ──」
焚火の向こうで目を細め、ぱくりぱくり煙草をふかしている杉山を運平はからかうのだ。相手はにやにやしたきりで答えない。
「杉山君の女房はなかなかいいぞ」
と、瀬沼がホシの紐をときながらいった。
「そうよ、なにしろ駈け落ちをしてまでの執心でもらった細君だもの、なあ?」
「まあ、そう妬きなさんな。君方だって、今にうんと別嬪をもらうんじゃろう?」
「そうさのう──僕はうんと背の高い奴にするかなあ。子供が僕のように小さいと一生肩身のせまいと思いをせんならんからなあ」
と、小柄な瀬沼が、今夜の相手は気安い二人なのか、いつになくそんな真情を述べる。
「僕は三十までは女房は持たん」
運平は、草の上にあおむいて体を延ばし、深い夜空を見あげながらいった。そのとき、おちかの黒い瞳が、一寸うるんで、自分を見ているように感じた。
「女房なんか、まだまだ遠い話だ」
おちかの瞳を、払い落とすようにもう一度いった。どこか心の一隅に穴のあいたみたいな淋しさを、運平は無理に意識の外に放り出そうとしているのだった。
「そうじゃ、その意気じゃよ。女子供は足手まといで思うような仕事は出来んからのう。先ず、成功の目算が立つまでには、そうじゃ、三十にはなるじゃろう。それからじゃ、それからじゃ。そうなると、どんな別嬪だって、わんさと来るわ」
瀬沼は眉をあげ、傲然とした調子だ。
「貴公は、例の、そら四谷小町をもらうか──」
運平が冷やかした。四谷小町というのは、瀬沼が、まだ東京で伊藤家の書生時代に思いをよせていたという美人のことである。
「うん、そうさなあ、向こうから頭を下げて、もろうてくれといってくるじゃろう」
瀬沼は当然というように、うそぶいている。
「どうだ、君、三十までは細君は持たぬ、という約束をせんか」
「よかろう。約束しよう。誓いを破った者はどうする?」
と、瀬沼が応じた。
「そうさなあ、約を破った者は──どうだ、開墾した土地を一町歩相手に進呈することにしようか」
「よしよし。土地一町歩を賭けるか、まあ一町歩は小さいがよいとしよう」
「馬鹿な約束をして、よせよせ、そんな約束は──女房がほしくてたまらなくなったときに、どうする気だい?」
杉山が兄貴ぶって笑っている。
「なあに、こりゃ正式な女房に限るんじゃから、心配は要らん」
「そうだ、正式な女房をもらう場合だ。お互いに、女房は郷里からつれてきたいな。やっぱり郷里の者がいい」
運平は、なぜともなく、またおちかの顔を思い浮かべながら反撥するような調子でいった。
「そうとも、この辺のトワタリたちの、どこの馬の骨かわがらんような奴等あもらえるかい。郷里に錦を飾ってな、立派な家柄の娘をもろうのじゃ」
「三十路まで浮世はなれし身なりせば月雪花をなどか手折らん。とはどうだ」
と、運平が空を見ながらいった。
「浮世はなれし、は少し坊主臭いが、まあ、よかろう。秋月、約束したぞ」
「よし、約束した」
「正式の女房でなけりゃ、情婦ならいいのかい?」
杉山がにやりにやりしながら口をはさむ。
「このかぎりに非ずさ」
「そいつあ、うめえ約束だのうハハハ……」
三人がたあいもなく笑っているところへ、何かあわただしく人の跫音がして、道路に立ちとどまったまま、こちらをおそるおそるすかして見ている様子だ。
「おう──今晩は──何か用ですか?」
秋月が、急に体を起こして、こちらから声をかけた。
「今晩は──貴方らあ、どこの人だね?」
暗い道の上に立った人影は、一寸ためらったが、何か緊張した調子でいった。しわがれた老人の声である。
「僕等は、馬追原野から来たんだが、これから上川の方へ貸下地を見にゆくんだよ」
「ああ、そうですかい。それじゃあ、開墾に大んなさる大等ですかい」
相手はほっとしたらしく声を落とすと、道から草原にはいって来た。焚火の光で見ると、もう五十を出ているのか、大分、皺の多い顔に、きょとんとしたどんぐり眼の鼻の低い老人だった。尻切草履に着物の裾をはしょっている。
「上川へゆきなさるのか──儂はまた、囚徒じゃないかと思いましてな。この頃はずいぶん物騒なんで、焚火を見てびっくりしましたわい」
「そうでしたか、そりゃ驚かせましたね。だが僕等ぁ良民ですよ、安心しなさい。まあ、どうです。少しあたってゆきませんか」
運平が、体を動かして瀬沼との間をあけた。ひどく人なつかしかった。
「へえ、ありがとう。馬追からおいでなすったですかい。儂は、すぐ向こうの茶店の者ですが、この頃は、市来知(今の三笠市の一部)の監獄から、ときどき囚徒が逃げ出しましてなあ。つい先頃も、これから一里ばかりさきの茶店へ二人ずれの奴が襲撃して、まだ若い夫婦を柱にしばりつけといて、悠々と着物を着替え、飯を食いましてなあ、有り金は勿論、女房までどうとかされたということで、全く、夜中に人の跫音がすると、胆が縮まるようでなあ──」
茶店の親父は、運平にもらった黒砂糖を口に入れると、よだれをすすりすすりこんな話を聞かせた。老人は、焚火が林中へ燃え拡がらんように気をつけて下さいと、いいおくと、また尻切草履の音をさせて闇のなかに遠ざかって行った。
「やれやれ、囚徒と間違えられたか──」
三人は思わず顔を見合せて笑ったが、やがて各自、毛布を出して体をつつみ、火を囲んで横になった。頭の上を白く銀河が流れている。