何か得心のゆかぬ秋月運平と同様に、もしこの当時の北海道の土地処分法に疑惑を感じられるかも知れぬ読者のために、作者は、明治二十四年頃までの北海道の殖民の歴史と、土地処分規則の変遷とを述べる必要を感じた。以下は、この間の事情に何等興味を持たれぬ読者は頁を飛ばしてもらいたい。
アイヌ民族の数多い神話や伝説と、義経主従渡道の夢物語、蝦夷地流人の哀話等を秘めて、北海道は明治維新に至るまで、長い年月の間ほとんど歴史の外におきざりにされていた。
津軽の豪族、安藤氏が蝦夷地管領をしていた康正二年、アイヌの酋長コシャマインの大反乱があった。当時、勇払、余市附近まで発展していた日本民族の危急に際して出現した英雄は江差附近に居た武田信広であった。彼は、このコシャマインの乱を平げて勢力を得たが、子孫に英主相次いで現われ、その曽孫慶広になって天正十八年豊臣秀吉に謁し、遂に蝦夷地は安東氏より武田の支配に移り、松前藩の名を得て福山に城を築き、全島を制御するようになった。
とはいえ、奥地は未開の沃野数千里、徒に蝦夷の跳梁にまかせてあるにすぎず、もとより、この広大な島の開拓は、僅か一小藩の為し得る事業ではなかったのだった。
しかし、徳川幕府によって断行された鎖国政策によって海外貿易を禁ぜられた新興商業資本家はその活躍の新天地を蝦夷地に求め、近江商人を先達として北地進出が企てられるに及び、次第に北海道に対する関心が昂められたのであった。
徳川光圀は、元禄元年蝦夷地探険のため快風丸(長さ九間横七間、六十五人乗組)という大船を造り、三か月の食糧を準備して那珂港を出帆させている。この船は石狩河口に至り、かなり上流まで探険した。
また享保五年には新井白石が蝦夷志を著し、次いで幕末に於ける京儒並河天民によって提唱された開拓意見は、近江商人から聞知したものだけに頗る要領をつかんでいて、
沿海の外無人の現状におかれたるこの大国を分割開拓せんか、それは結局日本国版図の増加となり、産物の増収は下民のくつろぎとなるべし。今にして、これを決行するは聖王の業たるべし
と云っている。
とはいえ、北辺の僻地に放任の形でおかれた松前藩は、次第に藩政の頽廃をきたし、財政の行きづまり、請負商人等の公訴相次で起こり、中でも寛政二年における飛騨屋の公訴などは、請求高一万両にも及びに至った。その上農漁民の一揆などあって、蝦夷地はもはや松前一藩の手にはおえないものになってきた。だが、これ等の事情はさておき、徳川幕府直轄のやむなきに至った原因はロシアの南下であった。
当時、マルコポーロの探険記によって、支那大陸の東、ジャパングには、金銀が砂の如くあるなどという夢を見はじめた、欧州人の日本探険熱はいやが上にあおられ、寛永二十年蘭人フリースはウルップ、エトロフニ島を発見、相次いで英人、露人等の探険隊が渡来するようになった。
中でもロシアが、天正年間にエルマークをして東方侵略の軍をシベリヤに入らしめ、一世紀にもならぬ中に無人の広野を蚕食しつくしカムチャッカを経て、千島列島に手をのばしたのは元文四年のことであった。
明和八年になって、幕府は、カムサッカの流刑地から逃げ出して来たハンガリア人ベニヨブスキーと称する者の話によって、ロシアの南下政策を知って驚きはしたものの、未だ世界状勢に対する正確な認識を欠いていたので、さっ急な対策を講じようともしなかった。
しかし、警世の先学者、林子平、工藤平助等は、早くも露国の野心を看破し、三国通覧図説、赤蝦夷風説考等の著作を通じて、ロシアの南下に備え、蝦夷地開拓の急務を論じたのであった。
ロシアの使節ラスクマンが、我が漂流民幸太夫を送って根室に入港、和親通商の希望を表明したのは寛政四年のことであった。驚いた松前藩は、幕府にことの次第を訴え、幕府の使者とラスクマンを福山城で面会させた。
このような事情に刺戟された幕府は、寛政十一年北海道の東部、及び千島を直轄地とし、択捉島を対露国防第一線として、蝦夷各地に奥羽諸藩の兵を駐屯させ、自らは蝦夷の撫育と開拓に努力しはじめたのである。次いで文化四年には全島を直轄地域とし、蝦夷地への関心は大いに増すようになった。
かくして、近藤重蔵、最上徳内、間宮林蔵等の活躍となり、北海道の地形も略々明らかになった。神威岬の女人通行禁止の解かれたのもこの頃であった。御手作場が各地に開かれ、外人技師ブレーク、ポンペリーによって諸鉱山の調査開発が行なわれはじめたのもこの頃で、蝦夷地は長い冬眠からようやく醒まされた形であったが、此の時、たまたま明治維新の変革となり、新しい政治機構のもとに、開拓の諸事業が営まれるに至り、ここに、始めて、日本の国土としての全貌を明らかにするに至ったのであった。
明治元年、榎本武揚、大鳥圭介等賊軍は五稜郭によって政庁を設け全道支配の規模を定め、更に英仏公使を通じて、徳川の家臣三十万人を蝦夷地に移し、徳川氏の血胤一人を奉じて開拓に当ることを嘆願したが、その勝手な願いは採用されなかった。翌二年五月これ等の反軍は降服し、蝦夷地には再び平和な春が訪れた。
同年七月八日、聖旨を奉じて、鍋島直正が、蝦夷総督となり初代開拓長官を兼ねて任命され、開拓使が設置された。そしてその二十二日には諸藩以下蝦夷地開拓を出願する者には土地を割渡するという布告が発せられたのであった。
八月十五日、初めて蝦夷を北海道と改め、十一国八十六郡と定められ、鍋島に代って東久世通禧が三十七歳の壮齢を以て開拓使長官を任ぜられて赴任し、北海道の開拓は本舞台に入ったのであった。
次いで幕末以来、北海道の探険家として偉大な足跡を残した松浦武四郎の意見によって、当時無人の境であった新天地札幌に首都を定め、いよいよ建設の斧の音が原始林にひびき渡るのであった。
開拓使は、募移民の制度をとり、明治二年東京府から五百余人を募集して、根室、宗谷、樺太方面に移住させ、会津の降伏人、羽前、越後等の農民を募集して石狩平原に入地させ、是等にはいずれも支度料、旅費、食料、家屋などを与えて非常な優遇を行なった。その他、諸藩分治によって、国防第一線たる北見、天塩などの僻遠の地まで防備と開拓をかねて移住を行なわせようとしたが、これは概して成績不良であった。
当時、開拓使の実権を握っていた次官黒田清隆は、北海道開拓工作の行詰りに対する打開策として、アメリカに渡り、大統領グランドに謁見し、農務局長ホラシ・ケプロンを、開拓顧問として招聘した。彼は敬虔なユグノーの裔であって、六十歳の老躯を提げて来朝し、燃えるような熱情と卓越した農工経営の手腕を以て我国の一処女地に、理想の天地を築こうとした偉大な人格者であった。
彼の確信は
余の事業は、先例なく総ての創造なり。全国の経済を改革し、農工の方法を一変し、之より五十年間にして、必ず他邦五百年間に進歩せるものよりも、猶よく文明の域に至らしめん
と揚言した。
彼の配下には、技能卓抜なる各般に渡った所謂ケプロン・ブロックの技師たちがあった。前述の石狩炭田の発見と上川探険の旅をしたライマンなどもその中の一人であった。また、教育の部門で大きな貢献をしたクラークなどもその一人である。
開拓使によって略礎石を据えられた開拓事業は、専ら官の保護によるもので、移民は、官費を以て募集土着させ、家作料、農具、衣食の費から、開墾費までも支給し、租税を特免して彼等の永住をはかったものであるが、未開地の処分に就いては、はっきりした規定がなく、明治五年になって、はじめて北海道土地売貸規則が制定された。
規則の大要は
山林原野一切の土地、官属及び、従前拝借の分、目下私有地たるを除く、凡て一人十万坪を限りてこれを売下げ、地券を渡し、着手後十ヵ年間除租す。売下地価は干坪に付、上等一円五十銭、中等一円、下等五十銭とし、売下の後、上等は二十ヵ月、中等は十五ヵ月、下等は二十ヵ月を過ぎ、その事業に着手せざる時は上地申付けること
というのである。
明治二年から同十八年に至る十七年間に、この規定で処分された土地の総反別は四万七千七百二十六町五反歩であった。また、明治七年には移住農民給与規則を更生し『入籍より一家の力を以て三年間に開墾したる土地は地価を徴せず、年々検地の上地券を渡し私有地とし、其の年より七年間租税を免ず』という特別な規定が出されている。
それにも関らずこの開拓使及び三県時代に於ける開拓の実はあまりはかばかしい成績をあげなかった。その原因は一つには、北海道に対する一般の認識がまだ重罪人の流される蝦夷松前、という概念をあまり出ていなかったことと、その一般の考えの中で、渡道して来る民衆は禄にはなれた貧乏士族、官の募集に応じた食いつめ者が大多数であり、それ等の人々は、この極端な官の保護に頼り、十年余りたっても尚自営の志がたたず、開拓使が廃されて、県制となった明治十五年には、北海道開拓に要する十ヵ年の定額一千万円の満期となり、自治の基礎を作り、独立進取の気風を養おうとしたが、恰も独立活歩の力に乏しい幼児のようで、発展の望みはいたって薄かった。その上、十五年、十六年の凶作と、十四年からの全国的な極度の不況時代に遭遇した北海道の拓殖事業は一頓挫の止むなきに立ち至ったのであった。
そこで、明治十九年、伊藤参議は、その秘書官であった金子堅太郎を派遣して、北海道の状況を詳しく調査させた。金子書記官は二ヵ月を費して、具(つぶ)さに実情を調査し、その欠陥とその改革に関する腹案を得て、帰京後詳細な復命書を提出した。
尚その復命書に添えて上申された意見書の中には『明治五年北海道土地売買規則第六条改正の議』という一議案があり、開拓の癌となっている重要な法律の不備を指摘している。
謹で按ずるに、北海道の沃土に富むや人皆之を知る。故に遠く故郷を去り彼地に渡航し、躬親ら(きゅう・みずか=自分から)来耜(らいし=すきの刃)を棄て之を開き之を墾し、一は以て自己の生計を経営し、一は以て国家の富源を増殖せんと欲す。
然るに其実施に就き開墾の事業を視察する如何せん茲(ここ)に一つの障碍あり、是れ他なし。北海道土地売買規則第六条なり。
その文に日く、土地買下の後開墾其他共、上の地は十ニヶ月、中の地は十五ヶ月、下の地は二十ヶ月を過ぎ、不下手は上地申付る事と、而して此法律あるが為に北海道の沃野にして開拓せざるもの幾千町なるを知らず。此規則ある為に、移民の遠く散じて林中に占居するもの幾千人なるを知らず。
何ぞや蓋し開拓使以来官吏華族の土地を北海道に購入せし所以は躬親ら率先して開拓の事業を誘導するに非ず、唯一萬坪の上地にして其価十五円にすぎず、常時この些少の金を投じて此莫大の地を購ひ、他日該道の開くるに随ひ原野は変じて市街となり、人民は輻輳して農商の業を盛んにし、道路開通して鉄道架設し、百般の事業続々として是れ興るの時に及び、其地を売却して一時に巨萬の利を得んと欲するに外ならず。故に是等の土地は幾星霜を降るも一畝の開墾あることを観ず(中略)
此の如き形状に至りし所以のもの何ぞや、全く第六条の法文不完全なるに因るものと謂はざるを得ず。彼の法文によれば、買下の後開墾其他共十二ヶ月乃至二十ヶ月を過ぎ不下手な上地申付るとあれども、其不下手の区域判然せざるか為め、所有者は一萬坪の土地内に於て僅に一坪又は二坪に当る土地を画し、其樹木を伐採し之に雑穀を播種し、以て下手したるものと主張し、残る九千九百余坪は幾数年を経るも開墾に着手せず云云
金子書記官は結論として三県一局の分治による事務の渋滞を除くために、是等の機関を廃して統一された移民局を置く必要を述べた。そうして、明治十九年一月に、北海道庁が札幌に設けられ、北海道の拓殖は再び一機関に統一されることになった。初代の長官は、岩村通俊で、大きな抱負を以て拓政の刷新に当たった。
明治十九年六月、閣令第十六号を以て北海道土地払下規則が発布され、未開地処分法が制定されたのであった。
其払下面積は一人十萬坪を限ると雖も盛大の事業にして、此制限外の土地を要するものは特に払下くることあり。而して払下くるに先ち必ず貸下くる事とし、貸下出願者は事業の目的、着手の順序及び成功の程度、毎年配当の坪数等を詳記して出願し、貸下期間は十年以内とし、土地の景況事業の難易に依りて之が長短を定め、毎年その配当の坪数の成功を点検し、其年配当の事業成らざる時は、其成功したる土地を除き其他を総て返納せしむ。素地代価は千坪に付一円とし、成功の後払下げ其翌年より十ヶ年(二十二年閣令第二十二号を以て二十ヶ年と改正)の後にあらざれば地租及び地方税を課せざるものとす
これによって、金子堅太郎の指摘した五年制定の土地売買規則第六条の改正はなされたわけで、売払地の開墾未着手の弊を除くと共に、一人宛十万坪に限定されない大地積の払下可能の道が開かれることになった。
尚、開拓使時代に於ける貧民の移住によって苦い経験をなめた当局は、道庁設立と共に、移民政策の方針も変更し、従来の直接保護を廃して、間接保護の方針による府県資本家の開墾企業助長に変更された。
即ち、岩村長官は、本道をして徒に貧民の渕叢(えんそう=寄り集まる)となすべからずとし、富民の移住、府県資本の進出を期待し、従来の官営的な開墾殖民事業を廃して、資本家による北海道開拓を意図した。そのため、移民の一切の直接保護を廃し、専ら間接的助長政策に転向し、その具体化としては、道路開鑿の拡大、鉄道の布設、殖民地撰定及び区画法の実施、国有未開地法規の改正等を企てたのであった。
だが、あまりに、開拓の実をあげようとあせりすぎて、資本家の企業熱ばかりあおりたてる結果となり、大地積占有の弊害を生じたことはまぬがれぬ事実であった。この趨勢によって、明治二十二年には、五万九千六百五十三町歩の国有未開地が貸下げられる結果となった。その前年の二万三十九町歩に比して、四千町歩に近い増加である。二十三年には、雨竜郡に一億五千万坪が、三条、蜂須賀、戸田、菊亭等の華族に貸下げられ、組合華族農場として出現した。
このような大地積の貸下げ及び払下げは、忽ち、また、不純な利権者の目をつけるところとなり、利潤追究の目的物として悪用されることになった。このため、明治二十四年には、時の長官渡辺千秋が、大地積の処分に偏し、小地積処分の行なわないのを摘発警告し、大地積が徒らに占有され、開拓の実の挙らないのを痛撃している。
秋月運平の渡道前後には、この利権者の大地積占有の弊と、五年制定の土地売買規則の条例不備の結果とが判然と残っていた時代であったのだ。
また、間接的助長政策の具体化として行なわれた殖民地撰定、及び区画法は、先ず技術員を派遣してその撰定すべき方面の実況を調査させ、殖民地に適するものは、地勢、面積、土質、気候、植物及び、灌漑、排水、飲料水、水害、交通等を調査させ地図と報告文を作り、貸付処分の資料としたのである。
この撰定は明治十九年から、二十二年までに、全道の大原野を査了し、その耕作牧畜に適するところ九十五万余町歩を撰定された。
殖民地区画は明治二十二年、十津川罹災民移住地に施行したのが始めであった。その区画は、大、中、小に分け、大画は九百間四方(二百七十町歩)中画は方三百間(三十町歩)小画は、縦五十間横百間、地積一万五千坪(五町歩)であって、普通一小画を以て農家一戸分の貸付地と定めた。爾来北海道で一戸分というのは、この五町歩を指して云われるのである。
こうして、我が国におけるはじめての処女地開拓の事業は、幾度かの試練を経ながら、次第にその軌道に乗り、新興日本の発展と共に、逞しい資源開発の巨歩を踏み出していたのが、明治二十四五年頃の北海道の情勢であった。
ともあれ、これは、日本における最初の植民地の経営であって、内外ともに多事多難な国情のなかに、営まれた偉大な事実であった。執政者をはじめとして、あらゆる部門における先進者達の労苦は察するにあまりあるものがあった。
いつの時代にも、抜け目のない私利、私欲を追う輩の餌食となるのをさけつつ、真の国庫富源の開拓に志した先人たちの身血を注ぐ熱意によってのみ、北海道の今日の発展を見ることが出来たと作者は信ずるのである。