北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部


  

(2)
 

その日は、小樽の商人が来て、久樽で燕麦を買いあげていくことになっていた。
 
運平は、まだ熱が下りきらないので、代りに仙吉と政一が出かけて行った。一町歩ばかりの新墾地ではあったが、八十俵からとれているので、石当り五円二十銭の割にしても、百七八十円にはなるはずである。
 
外に出て働くほどにはなってはいなかったが、運平は、じっとしてもいられないので、午後からは、土間に莚を敷いて坐り込み、燕麦棹で俵をあんでいた。
 
まだ馬鈴薯も、玉蜀黍も入れなければならぬので、俵はいくらあっても足りない。カタンカタンと錘の石を機械的に動かしていさえすればよい仕事なのだから、さして骨は折れない。
 
みなは、朝から、おくれた馬鈴薯掘りと、大豆おとしに、二手に別れて出かけて行っている。仙吉も政一も、昼食少しすぎには帰って来ると思っていたのに、三時になっても姿を見せない。運平は、少し気がかりになってきた。
 
やられたかな、そう思った。
 
危い危いと思いながら、関谷の息子なのだからと、つい仙吉に責任を持たせてしまう。気軽にひき受けてゆく仙吉の様子を見ると、よもや、とは思いながら、いくらか不安がないでもなかった。政一をつけてやれば、と一緒にやった政一までが帰って来ないのだ。
 
なあに、関谷のものは、仙吉のものでもあるのだ。と運平は、しいて気をらくに持とうとした。だが、やっぱり責任感がちくりちくりと心を刺した。
 
大分傾いた陽ざしが、莚を巻きあげた入口から山積みされた燕麦がらの上に斜にさし込んで光っている。どこかで、こおろぎの声が絶え絶えにつづき、うすら寒い風が吹きはじめてきた。
 
また、ぶりかえされてはたまらないから蒲団にはいろうかと顔をあげたとき、人影がさした光線を背にして入口に立ったのは、おちかであった。
 
「あれ、秋月さん、もう起きなはって──」
 
暗い小屋の内部をすかしみたおちかは、目を細くして視力をあわせながら、秋月のそばによった。
 
声の美しいおちかの言葉は、その関西なまりのある円いアクセントのために、唄でもうたっているようであった。運平は、うむと、囗のなかでいったきり、目を落として、また手を動かしはじめた。
 
「まあだ寝てなはらんと、また悪うなりやはりまっせ」
 
「なりやはっても、かめへん」
 
「まあ──」
 
おちかは、ころころと笑った。笑いながら、燕麦がらの山に体をもたせかけてそこにしゃがんだ。
 
運平は、ちらっと相手をみたが、笑い顔もせずに、せっせと手を動かしている。そこに、しゃがみ込んだおちかに、なにかいおうとして思いなおしたのか、よけい不機嫌な顔になった。
 
リ、リ、リ、リ、こおろぎが、どこか、すぐ近くの土間の隅でなきはじめた。かなり長い間、カタンカタンと、錘のなる音と、その虫の声とが、つづいた。
 
「冬になるの──いややなあ」
 
ぽっそり、とおちかがいった。運平の手もとを見ていた瞳をあげて、莚を巻きあげた入口からのぞいた冷たい空に視線をうつした。
 
運平のところからは、間近にふっくりした顎の線と、白い喉がみえている。円い顎には娘らしく脂肪がついて、そこから首にかけての皮膚はちっとも陽やけせず、ぬめぬめとやわらかそうだ。
 
「なにか用かい?」
 
運平は、周章てそれから目をそらすと、いいすてたまま、いきなり立ちあかって、流しに水を飲みにいった。柄杓からゴクゴクと冷たい水を飲みこみながら、なにか我にかえった気持ちであった。
 
そこに蹲まっているおちかの姿態は、昨夜からひきつづき去来する妄想の連続としか思われない。この二三日、時間をきめて、毎日出る開歇熱のために、体はひどく疲れきっている。そのくせ疲労した体が、かえって奇妙に興奮するのだった。
 
なにか、自分で自分を押えられそうもない不安が襲ってきたのだ。自分の神経が、異状だと意識すると、その異状さに甘えて、とんでもないことをしでかしそうな不安だった。
 
「別に用事あったわけやないけど……」
 
運平の唐突な行動が、おちかには何のためかわからないらしい。彼女には、ただ、相手がひどく、そっけないと感じられただけである。
 
流しに両手をかけたまま、こっちへ体をねじった運平の顔は、ひどく蒼かった。
 
「あれ、どうかしなはった?」
 
おちかが、はじかれたように立ちあかって、そばによろうとするのを、追い払う手つきで、運平はいった。
 
「なんともない、何ともない。かえんなさい。はやく、帰んなさい」
 
語気は荒かった。肩で息をしながら、運平は両手に力を込めて流しの縁を握っている。
 
おちかは、相手のさしせまった表情の中から、本能的になにかを読みとったらしい。別れの挨拶もせずに、悄然と小屋を出て行った。
 
運平は、しばらく、その姿勢のまま、もう一度彼女を呼びかえしたい激しい慾望とたたかいながら、おちかの跫音の遠ざかってゆくのをいつまでも聴いていた。
 
一つのリズムをもった殻竿の音が、ふと、風に乗ってきこえてきた。土間の隅のこおろぎがまた鳴きはじめた。
 
運平は、自分の寝床に帰ると、そのまま仰むきに体をたおして、目をとじた。
 
不思議なことに、おちかが憎かった。思いがけなく、発作的な慾情をかきたてさせた相手が、憎いのだった。いや、おちかだけではない。お民も、山形の女房も、だるまやの白首達(淫売婦)も、女という女が憎かった。自制のために、これだけの苦悩を与える女というものに烈しい憎悪を感じるのであった。
 
いっそ、なにもかも知ってしまったほうがいいのではなかろうか──そうしたら、この穢らしい慾望から解放されるのかもしれない。運平は、別に童貞に誇りを感じているわけでもない。只、いままでそんなゆとりがなかっただけだ。
 
もし女を知ったために、この不愉快な動揺から脱れることが出来るというのなら、いっそ、一人前の男になって落ち着いてしまいたい。
 
だが、おちかではいけない。おちかには、かすかながら、愛情を感じている。それだからなおいけない。運平は、自分の性格を知っている。彼は決して仙吉のように無責任なことの出来る男ではなかった。
 
背筋を、例の悪寒が走りすぎた。夕方からの数が出はじめたらしい。運平は歯をくいしばって、じっと体をちぢめた。また、冷たい手で体中を撫でられるような悪寒だ。歯がカチカチと嗚って肩のあたりから震えがきはじめた。
 
風が強くなって、陽がかげったのか、急に小屋の中は暗さをまし、羽目に使った割板だけが蒼白く浮いてみえた。頭の中が潮のひいてゆくようにしらじらと透明になってきて、ひどくはっきりと自分の存在が意識にのぼってきた。
 
運平は、はやく、みんなが帰って来ればよいとおもった。それでなければ仙吉たちでもいい、だれか、仲間の顔をみて何でもない話がしたくなった。自分の弱さを意識した後の、ひどくわびしい孤独感であった。体が自由になるなら、すぐとび出して行って、鉄砲でも撃つか、力いっぱいに斧でもふるいたかった。
 
そうだ、もしいま、もう一度おちかが帰って来たなら、運平は、見得も外分もなく彼女にかじりついて、おいおい泣きだしたかもしれなかった。
 
彼は、いままで、曽て、こんなふうに、体と精神の不調和を感じたことはなかった。意力だけでは、どうにもならぬ頼りなさが、このときほど、痛切に感じられたことはなかった。突然のこの孤独の感情は、どうにも救われないもののようであった。
 
「お母さん──」
 
運平は声に出してそういってみた。その言葉は、唇を動かすだけで、なにか心をなでるような、なごやかさがあった。二度も、三度も運平はくりかえした。
 
体を縮め、歯をカチカチいわせながら、その乳のようにせい言葉をくりかえしていた運平は、しまいに、蒲団の上に起き直って、震えながら、郷里の方をむいて端座すると、いきなり、きっちりと両手をついてていねいなお辞儀をした。
 

 

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