北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部


  

(3)

 
二日酔の泥のような顔をして、政一が帰って来たのは翌朝の八時頃だった。お民に手伝って、大根を干している運平をみると、政一は、面目なげに黙ってうなだれた。
 
「どうしたい? 仙吉さんは?」
 
「へえ──」
 
政一は、もじもじと、印絆纏の裾を気にしながら、いい淀んだ。
 
「一緒じゃあなかったのかい?」
 
「駄目じゃないかね、用心棒につけてやった人がそんなじゃあ──」
 
お民がそばから口を出した。彼女の腹は、この頃ではのんきな運平にもそれと分るくらい大きくなってきて、とかくに神経をいらだてがちだった。
 
「あのう、なんだあね、仙吉さんは、札幌へ行くぜって、昨日のうちにたたれただあね」
 
「札幌へ? 一人でかい?」
 
「だるまやのお千代をつれてっただあよ」
 
「馬鹿が──それで政さん、お前、報せにも帰らないで、久樽へ泊ってきたのかい?」
 
大根を洗う手をとめて、あきれたように政一を見たお民の声はとがっている。
 
「いいかげんのことがいいよ、ほんとに。仙吉さんに鼻薬でも嗅がされたんだろう。だから、あんたは、人がいいっていうのさ」
 
「まあ、そう怒んなさんなお民さん。いまさら、いったってしようがないわ。仙吉さんに金を扱わせた方が悪かぁたんだ」
 
運平は、今朝は久しぶりに気分もよいので、あまり、ずけずけと政一を叱る気にもなれなかった。
 
昨夜の発作は、極く軽くすんで、今朝は平生のような澄んだ気持だった。もう発病してから五日目だから、これで癒るのかもしれなかった。毎日つづいていた微熱もぬぐったようにとれて、朝の陽ざしのなかで大根を束ねているのは愉しい仕事だった。
 
「今日はみんな沼っぶちの玉蜀黍かきだぞ、あ、そうそう、もう三つ四つ叺(かます)を持って行きなよ。俺も様子をみて、午後っからは畑にでられるかもしれないよ」
 
秋月が、何もいわずに政一を畑に出してやった後で、お民は、まだ腹の虫が納まらぬらしい顔をしていた。
 
「ほんとに変だね、秋月さんも今日はどうかしているよ」
 
「なぜ?」
 
「も少し政さんだって叱ったほうがいいのさ。この頃は、なんだかだって、骨惜しみばかりしているんだもの──」
 
「若いんだもの、たまには遊びたいさ。仙吉君に金でももらったんだろう」
 
運平は、自分が、相当自制力の強い男だと思っていた。その意志の力でさえ昨日の午後のような恐しいたたかいをしなければならぬ男性の慾望に、政一や健吉が負けるのは当りまえなことで、体は大きくても、今年十九になったばかりの政一が、ただ可哀そうな気がしたのだった。
 
「それに、なんですよ。健吉さんは、炭礦の仕事がいいなんて、だれかにおだてられたとみえて、あまりお尻が落ち着かないらしいようですよ。せっかくこうして郷里のものが一緒に働いてるんだもの、みんなで一生懸命やって郷里の人たちにも意張ってみせてやりたいじゃありませんか」
 
四斗樽一ぱいにはった泥水の中で、お民は、白い大根をじゃぶじゃぶ洗いながらいった。水は幾度くみなおしても、大根についた赤土で、すぐ汚れてしまう。赤とんぼが樽の縁にとまりたそうにしては幾度かためらった後で、お民の頭の白い手拭に落ちついた。
 
「だが、それぞれ人には特長があるからね。そう僕のように百姓ばかりしたがる者はありゃせんよ。仙吉君だってそうさ、親父さんは土を相手に馬鈴薯でも掘らせておけば安全だと思っているが、あの人には、どうしたってそれじゃあ落ちつけないんだよ。あの人は、やっぱり店に坐って客相手に算盤でもはじかせたほうが向いているのかもしれないよ」
 
秋月は弁解するようにいってみたが、気の強いお民には納得されそうもないので、いいかげんに大根の束を横木に乾しに立って行った。
 
仙吉が、お千代をつれて札幌に行ったのなら、もう百何十円の燕麦の売上げは減ってしまったに違いない。知らん顔では、やはりすまされぬことだと思う。この自分の無意識な無責任さも許せぬ気もする。そうかといって、仙吉がここにいる以上、そんな手落ちがたびたびあるのはやむを得ないことで、とにかく、この関谷の開墾地も、いろいろな点で、今のままの無秩序な方法ではやっぱり成績はあげられない、と運平は考え至るのだった。
 
このような集団労働の形式をとるとすれば、そこにはもっと、はっきりしたひとつの理念と、秩序がなければならない。只、単なる関谷個人の利益のために、一人々々が、陰日向なく働いて、最大の能率をあげ得るはずがないではないか。どのような働きかたをしたからといって、さして月々の給料には変化もなし、たとえ収穫時の割増があったにもしろ、その大半の収益が関谷のものとすれば、働いた人々にはなにかもの足りない気がするのは当り前のことかもしれない。大農経営の閑却出来ない根本問題は、その個人の感情をどう整理するかということにあるのではあるまいか。
 
とにかく、曲がりなりにも、どうやらここの監督の立場に立っていたのが、秋月自身のような無駄の嫌いな正直な男であったからいいようなものの、これが、もし一身の私利私慾を念頭におく人間だったら、関谷はおそらく、今年一年にどれほどの損失をこうむっていたかしれはしない。
 
大農経営には、ひとつの人間生活の向上へむかっての共同の理念と、その理想に対しては、燃えるような情熱を持った強力な指導者が必要だ。しかし、この個人々々の慾望を、ひとつの理想へ統一するということは、考えられこそすれ、今の民衆の意識の程度では、なかなか実現困難なことではなかろうか。
 
秋月は、漠然と、そんなふうに関谷のやりかたに対して不満を感じていた。まだまだ、開墾された部分も小さいし、人数もそう多くなくてこれなのだから、これが七八十町歩の耕地になった場合、統一はもっととれなくなりはしないか──。
 
これは、運平としては、まだまだ考えなければならぬ問題だと思った。アメリカという国では、その大農経営をやっているというが、一体どんな方法で、どのような秩序をもって実行されているのか、秋月は、ふと、そういうところを見て見たいと思った。
 
「お民さん。僕に早めに昼飯をくれないか、ちょっと、札幌に行って来ようと思うから」
 
運平は、大根を乾し終えるとそういって暗い小屋の中に入っていった。
 
 

(4)

 
幌内太から掘り出した石炭の貨車を、重そうに連結した長い列車を曳いているのは義経と命名されたモーブル型の汽関車(ママ)で、あえぎあえぎ石狩平野を小樽の手宮港まで往復していた。他には弁慶とか、静などという名前がついている。これは明治十五年、日本に於ける第三番目のこの鉄道が開通したとき、米国から輸入された車輛で客車はボギー車であった。
 
運平は、細長い汽車の窓から、もうすっかり黄金色に変った平野を左右に見ながら札幌までガタゴトとゆられていった。岩見沢をはなれると、幌向太という小駅付近に二三戸の移住者の家がみられるだけで、江別の屯田兵村までの間は、いうまでもなく未開地が茫々とひろがっているばかりだった。
 
江別に近づくと、右には石狩川が裕かな水量で流れ、左には、遠く馬追山が紫色に駱駝のような輪廓をみせている。それからここまで関谷が遭難した原野が黄色くなった雑草や、白くほほけた薄の穂を秋風になびかせてつづいている。樹林地も、草原地も、ひっくるめて、斜陽がさんさんとふりそそいでいた。
 
その広大な原野には、勿論湿地もあり、泥炭地もあるにはあるが、まるでひと鍬も入れずにうちすてられたままだ。勿体ないことだ、と秋月はしみじみ思うのだった。
 
郷里の小さな田畑を一反二反と多額の肥料でだましだまし耕作していることを考えるとこの沃土が、なにひとつ生産せずに放り出されていることは、どうにも不合理なこととしかおもえないのだ。たとえ道庁の官吏の縁者や、有力者たちの名儀になっているとしても、一軒の小作も入れず、みすみす沃土を放擲しておくことは、国家の損失でなくてなんであろう。奥地の上川原野にしろ、貸下地の候補があっただけに、今
は運平も少し客観的にそこまで考えることが出来るのだった。
 
札幌についたのは、もう四時をすぎた頃だった。秋の短い陽が出来る限り光の手をのばして、地上のものをかき集めようとでもしているように、大通りの枯れた樹木の影は長かった。この大通りと呼ばれている五十間幅の広い道路は、町を南北に二分し火防線としたもので、いまでも、ここを火防線の名で呼ぶ人もある。
 
札幌市街は、明治二年当時の開拓使判官、島義勇が、はじめて開拓使官舎を西創成通に建てたのが初めであった。高見沢日記によると、
 
「明治二年十一月十日島判官銭函を発し、積雪を侵して札幌に入り、地を巡視すること三日、遂に今の北一条西一丁目の地を相して、此に一官邸を建築せしめ、同年十二月三日功竣る。同日島判官銭函を発し、此に移住せり。此官舎を集議局と称し、後ち第一番御役邸と称しけり。
 
是より先き此官舎を建築するや、凡そ二十日を費せり、島判官積雪をも厭はず、日に馬に跨り、銭函札幌間五里半の路を往復して之を督責せり。当時、人夫の雇ふべきなし。止を得ず銭函の漁夫を雇ひて手伝はしめ、建築を督促せし程に、昨日築くところ、今朝往て見れば雪に埋没せられて、棟梁を構結する能はず、因て前後に莚を布き列ね詰旦(きったん=明日の朝)に莚上の雪を踏み堅めて之を除きつつ造築しけりとぞ」
 
と記されている。
 
明治二年に、島義勇が札幌となるべきこの地に来たときは、積雪に埋もれて、豊平川をはさんで二軒の小屋があったきりだった。これは、安政年間から住みついていた志村鉄一、吉田茂八の二人の小屋であった。
 
吉田茂八は、安政二三年の頃、豊平川の西側に住んで猟を本職にしていたらしい。当時はこの辺にも熊は勿論、鹿が大群をなして棲息していたという。同じく四年に、浪士志村鉄一が妻子を連れて豊平に移住し、渡守をかねて農業に従事していたが、この二人が札幌に和人土着の最初の草分けだった。
 
札幌は、日本に於ける都市計画によって建設された最初の都市であったろう。前に書いた五十間幅の火防線を中心にして町は南北に区分され、市区を六十間に区画して道幅十一間、それを南何条、北何条と京都のように呼び、豊平川を中心に縦に区画して東何丁目、西何丁目と呼んだ。この区画だけは立派であったが、明治初年から、ぽつぽつこの新興都市にやって来た移住者たちは、そこが永住の地となるやら、ならぬやら、心も定まらず、一夜作りのアイヌ小屋同然な藁小屋をたて、明りとりは、只、天井に大山樽の底をぬいて天窓とし、冬は全く雪に埋もれて、ただ、その天窓の穴から天を見て暮らすようなありさまだった。
 
開拓使は、首都のみすぼらしさに我慢しきれず、移住商工業者に、家作料金百両を十カ年賦で貸与したが、移住者たちの中には日和見主義の尻のあたたまらぬ者もあって、借用の百両を握ったまま、犬小屋同然な住み家で暮らしていて、新築しようとしない。困りきった当局は、明治五年に札幌市街草葺家根を禁ず、という規則を出し、移住入籍者には、さらに家作料百円を貸与するという令を出した。
 
それでも、まだ改築しない者が多く、首都にはみすぼらしい乞食小屋が点在している。業をにやした当局は、そのような草屋には、石油をかけて焼いてしまうことにした。これを御用火事といって、大分このために周章(あわ)てた人々もあったということだ。
 
とにかく、生活意識の低かった、当時の移住者たちを相手に、開拓使の労苦は大変なものだったらしいが、運平の渡道した当時の札幌は、すでに首都としての風貌を立派に備え、道庁は赤煉瓦の堂々たるものだし、札幌農学校は木造ながらさっぱりとした校舎がたち、楡の木かげからエキゾチックな時計台の鐘の音が響いている。
 
札幌ビール会社、北海道製麻会社等の工場も出来、電燈会社の設立もあって、今年の十一月からは電燈がつこうという有様で、文明は東京から東北地方を一足飛に、この札幌に押しよせてこようとしている勢いであった。
 
運平は、南一条の通りを左に曲がって、創成川ぶちの関谷の店へ行こうとしていたが角の京屋という呉服屋から同て来た関谷の女房のおいねに声をかけられた。おいねは妹のお浪をつれて買物に来ていたらしい。
 
「お珍しいじゃありませんか。今お着きなすったの?」
 
おいねは、大柄な、顔の輪景も大々とした、いかにも関谷宇之助にふさわしい女丈夫といったかたちだ。切れの長い、ひどくくっきりとした眼尻が、こころもち上り気味で、運平は、いつも、この姉さん(東北地方で商家の内儀を呼ぶ尊称)の瞳でのぞかれると、心の底まで見すかされそうな不安を感じる。
 
「はあ──関谷さんお家でしょうか」
 
運平は、姉さんの後で、お浪が会釈したのに答えると、ちょっと顔を赤らめていった。
 
「ええ、居りますよ。二三日のうちに馬追に行ってくるなんていっていたんですよ。ちょうどいいとこでしたよ」
 
三人は、夕方の落ちつきのない街を並んで歩き出した。お浪は、運平と姉を並べて先に歩かせ、自分は少し後からついて来る。運平の視野のはずれに、お浪の他処ゆきらしい黄八丈の色が鮮にうつっている。姉と違って瘠形で、ほっそりとした面立ちが、運平には美しいとおもわれた。なにか愁いを含んだ一重の眼は、いつも泣いているようなうるみがあり、肉の薄い形のよい鼻と、唇のあたりに、どこか脆弱さのみえる女だった。
 
「お浪ちゃん、それ、秋月さんに持っておもらいなよ」
 
おいねは、妹の手の風呂敷包みに目をやっていった。
 
「持ちましょう」
 
運平がぶっきらぼうに手を出すと、お浪は風呂敷包みをかばうように後にやって、
 
「よろしいんですの。そんなに重かありませんから」
 
と、渡そうとはしなかった。
 
 

 

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