一銭五厘の湯銭を番台の上にカチリとおくと、運平は、関谷に借りた縞の着物をぬぎにかかった。まわりの羽目には、正月からはりっぱなしとみえる、女の絵ばかり極彩色で描いた商店の絵紙が、うす茶色に古びて、あんま膏の広告をとりまいている。夕飯のせいか男湯は空いている。運平は、人気のない脱衣場で番台の上から銀杏返しの年増に裸体をみられるのがなんとなく擽(くすぐ)ったかった。
久しぶりで都会の銭湯のたっぷりした湯船に体を延ばすと、手足の関節がにわかにゆるんで小唄のひとつも囗に出そうな気持だった。湯気の中にうだったような禿頭がひとつ、隅の方で常盤津かなんか唸っている。
「あああ──いいお湯ですね」
運平はその禿頭に声をかけた。
「へえ?」
相手は少々耳が遠いらしい。
「空いてますな」
今度は声を大きくしていった。
「夕飯時には、いつもこうですよ」
老人は、当りまえだというように答えて、ざぶりと顔を洗った。禿頭かと思ったがよくみると、後頭部に白髪交りの小さなチョン髷がついている。白い眉毛だけがやけに長く延びた、皺だらけの顔が赤くなって、唇を吸い込んだように歯のない囗で、もぐもぐとまだ常盤津をつづけている。のぼせあかってしまいはせぬかと、運平は少し気をもんだが、一向に流しに出ようとはしない。
気短な運平は、ひととき暖まると、すぐ外に出て、新しい手拭でキュッキュッと体を洗いはじめた。お浪が貸してくれた石鹸が、嗅ぎなれない香料の匂いをさせて、運平はしみじみ都会だなとおもうのだった。まるで野獣や、原始林にかこまれたあんなところに人が住んでいるなどとは、ここでは考えられないことだった。
おちかは、どうしたろう。運平は、ふとそんなことを心に浮かべた。これだけの距離をおいて考えるおちかはなつかしいものだった。熟した野葡萄のようなおちかの瞳は、少女の無邪気さをもっていた。小柄な円い体だって、決して女らしい媚をみせていたわけでもなかった。
なにか、あの場合は、むしろ自分の方に罪があったので、おちかには、ずいぶん思いがけない残酷なふるまいをしたものだと思った。運平は、そんなふうに考えると、小児の手をねじあげたときのような、後味の悪さを感じた。
自分でも恥ずかしいほどな興奮を覚えたのは、むしろ、さっき手拭と石鹸を渡してくれたときの、お浪の袷足に匂った白粉の香りだった。その刺戟は、かえって、もっと陰性で、ねっとりとこころの底にこびりつくようなものであった。石鹸の泡を体中にぬりたくっているうちに、また、お浪の浅黄の半衿からぬけ出したきめの細かな衿足を皮膚を思い出していた。俺は近頃どうかしている。運平は、その思いを頭をふってはらい落とした。
五分芯のランプが二つ両壁の柱の中ほどにおかれ、ほやは油煙で汚れている。時折高い屋根裏にのばった水蒸気が冷たい水滴になって肩や首すじにしたたり落ちてくる。隣の女湯で甲高い子供の泣き声がしたとおもうと、荒っぽい調子でそれを叱る女の声がきこえてきた。
「書生さん、あんた農学校の生徒さんかね?」
やっと湯船から出て来た老人は、運平の近くに腰をおろすと、今度はむこうから言葉をかけた。顔に似合わず体はなかなか逞しい骨組みで、大工の棟梁といったかたちの老人は、体を洗うでもなく、まじまじと運平のしぐさを見つめている。
「いや、僕は百姓です」
運平が、ぶっきら棒に答えると、
「へえ──」
相手は解せない顔をしたが、
「ははあ、農学校のお百姓さんなんだろう」
と、ひとりで飲み込んだようなふりをして、
「いや、書生さんも、その意気込みでなくちゃあいけませんや。なんだかだと、理屈ばかり覚えて、官員さんにばかりなりたがってちゃあ、さきの見込みはありませんよ。世のなかは、官員さんばかりで持っちゃあいねえ。わっちのような左官やも入用だし、あんたのような学校出のお百姓も必要なんだよねえ。お天子様は北海道の開拓は大事なことだとおっしゃるが、官員さんばかりじゃあ、土地やあ拓けやあしねえ。大工も入要なら、人夫もいる。お百姓さんはなお更必要さ。学校を出て百姓になる、そうあってもれえてえもんだなあ」
左官だと名乗った老人は、江戸ッ子らしい巻舌でしゃべり散らしている。東京にいた頃寄席の好きな運平は、名人小さんの落語が好きだったが、この老左官の調子はそれを髣髴させた。よほど官吏が嫌いな老人とみえる。運平も道庁の役人に不平を感じていたところだから、この左官やの言葉を、にやにやしながらきいていたが、
「左官屋さんも、こっちじゃあ手が足りないから、いい仕事になるんでしょうね」
と、なんだかむこうばかりしゃべらせておくのも悪いと思って、ほめられた手前少しお世辞をいった。
「そうさね、一日六十銭ぱにゃあなるんだが、冬分はからっきし駄目さ。何しろひでえ寒さだから、わっち等の商売はあがったりよ。まあ、十二月から三月いっぺえは建具屋の真似ごとみてえなことをして暮らすんだね」
「なるほど、凍るから困りますね。だが、こうだんだん家が出来ると、夏場は大工さんや左官やさんは目のまわるような忙しさでしょうな」
「まあ、この分なら、札幌も、もう占めたもんでさあ。それが、わっちの来た明治五年頃の様子といったら、まったく、今のひとたちにみせてやりてえようなもんでさ」
運平は、少し寒くなったので、もう一度湯の中に体をひたした。左官屋は、今度は湯船のへりに腰をかけて、話しつづける。
「わっちの来たときにゃあ、前の開拓使の倉庫が出来るときで、越後の大工が三百六十人も来るさわぎ。札幌中の家を文明開化の住居らしく立派にしようというわけだったんでさあ。あの頃あお上でもずいぶん世話あやいて、みんなにりっぱな家をたてさせようとしたもんさ。なにしろ、長官の黒田さんは偉れえ人だったからねえ。御自分で屋根まで葺かれましたよ。出来ねえこんでさあ」
「ヘーえ、長官がね」
運平は湯船のなかで足をのばし頭を浴槽のへりにかけて相槌を打った。左官やは、いっそう調子に乗って話しつづける。
「いや、偉れえ方でしたよ。下々の官員さんたちがあんなだったら、不平はねえんだがねえ。なにしろ、毛唐人の国から、舶来の洋釘を買ってたんじゃあ、日本人の面にかかわるってんで、日本で出来る竹釘を使わなくっちゃあいけねえって御意見だ。その手本を示そうってんで、御自分が工業局の製造場の屋根へ登って三坪ばかり葺いてみせなすった。それがお前さんなかなか本職でな、おつきの官員さんたちも舌を巻いちゃったそうだ。
そういうと、以前屋根やさんだったかと思うが、そうじゃねえ。江戸で、わざわざ屋根屋の職人を招んで習ったもんだそうですよ。なにしろ、お前さんあの頃こっちへ来た者あ、みんな尻が落ちつかねえ。夢のように、ぼろい儲けでもしたらその日でも郷里へ逃げ出そうって量見のものばかり──」
ここで老人は、言葉をとぎらせたかとおもうと、思いっきり大きな嚏(くしゃみ)をしたが、
「こいつあいけねえ、話に夢中になって風邪をひいちまわあ──」
と笑いながら湯船のなかに入って来た。さっき常盤津を唄っていた老人とは人の違ったような覇気のある顔をしている。運平は興味をもって話のつづきをうながした。
「明治五年には本庁の大けえ建築があったり、札幌から函館までの道路を作る工事があったりして、札幌も大繁盛だったが、六年の夏ごろにゃあ、その仕事もあらかたかたずいちゃったんで、工夫も他処へ渡っちまう。一時に町がひっそりすると、家をすてて夜逃をする者がふえてくる。家作料の百両をお上から拝借しながら、尻が落ちつかねえから家を建てる気にもならねえ、そうこうしているうちに、七年の二月の十六日にやあ樽前山の噴火さ。
一晩中ゴウゴウ地鳴りがして地震だ、灰が降ってくる、こんなところにいて生き埋めにされちゃあかなわねえってんで、吾も吾もと逃げ出す者が多くってね、市街のなかあまるで空家だらけになってしまう。あの年は大変な雪で五尺以上も積もっている。人の気がひきたたねえのはなおさらでさあ。
そこで法華宗の連中が申し合せてね、人気をひきたてようってんで、札幌村の清正公さまへ、大けえ石碑を奉納することにした。講中の者が集まって大旗を三本なびかせ、橇の上に芸者をのっけて、三味線をひかせるやら、太鼓を叩くやら、鳶の者あ紅木綿の手拭を冠って、手子舞をしたり、キヤリを唄ったりのさわぎでさあ。まるで狂人沙汰さ。それで、講中の大たちゃあ、デンブク、デンブク、デン、デン、ブクブク、つてんで、その大石碑を奉納したってもんさ。
すると、四月の一日に、工業局の官員さんが出張して来て、その年の事業費金十万円の認印がすんだ。創成川の柵と、屯田兵の住宅が二亘尸ばかり建つという景気のよい話、さあ、それがぱっと市街中に拡がる、清正公さまの御利益は大したもんだ、十万円の利潤がふってくるぞと、たれもかれも有頂天の底抜けさわぎをはじめたもんだ。
ところが、こんだ、五月十六日に請負人が呼び出されてね、東京の御沙汰に、屯田兵営建築御見合わせの趣きなり、ということになったんでさあ。また、みんなびっくりしちゃった。こりゃあ、札幌はお廃しになったんだ、と気の早い連中は我先きに夜逃げをはじめる仕末。
そのときの松本判官という人がこれやあまた偉え大で、よる夜中に御微行で民情を視察して歩かれたという人。従僕が朝見るといつも判官の長靴には雪が凍っていたという有名な判官だが、この方が、市民の困窮を見かねて、独断で土木工事を興してしまわれた。自分の専断でやることは悪いが、たとえそのために、免官されてもいいという腹だったそうだ。
本庁や、官邸のまわりの土塁を築かせたり、地均しをさせたり、道路の草取りなんてことで、何とか、この市街を衰亡させまいとしたんでさあね。
そんなこんなで、八年の五月に黒田長官が札幌に来てみられた時やみじめな有様、とうとう家作料の百円は、二十円だけ返済すればいいことになってしまったんでさあ。いやはや、あの当時の人達あ、今考えれば子供みてえな考えだったからなあ──お上でも手が焼けるばかりさ、わっちだって、何度か夜逃げしようとおもった一人だがね、ハハハハ」
運平は、左官やから札幌興亡史をひとくさりきかされて、いいかげんのぼせあかってしまった。
「なにしろ、人間、辛抱が肝心だよ」
といった老人は、どうやら今では左扇ででもあるのか、湯船からあがると、今度は岡湯の溜桶から冷水を汲んで立つたまま頭からざあざあ浴びはじめた。
「秋月さん。あんた瘧(えやみ=流行病)だったんですって?」
裏口のガラス戸をあけたとたんに、煮物の菜箸を持つたまま、こっちをふりかえったおいねが男のように底力のある声をかけた。
「ええ、いや、もういいんですよ」
「風呂にやる奴があるかって、うちに叱られちまいましたよ。湯ざめをするといけない。さ、早く茶の間のストーブのそばに行った、いった」
おいねに追いたてられた運平は、濡手拭とシャボンをお浪にわたすと茶の間のあいだのガラス障子をあけた。やわらかに空気のぬれたぼっとするような部屋の中には、ストーブの前に関谷宇之助か、ゆったりと胡座をかき、もう待ちきれなかったとみえて、独酌でやっている。
さきほど、運平が来たばかりのときにいた客人は帰った様子で、隅のテーブルの上には、二人で拡げてみていた海図らしいものが散らかったままだった。
「いや、来客中で御無礼しました。風呂へ行って来なすったって、瘧のあとは気をつけんけりゃいけませんな」
「いや、なあに、もう大丈夫です。今度のは大したことはありませんでしたから」
運平は、そう答えて、久しぶりの挨拶をした後で、おいねの来ないうちにと、かいつまんで仙吉の燕麦売上金持逃げの顛末を報告した。関谷は、苦りきって聴いていたが、眉間の縦皺がいっそう深くなって、鼻翼から口尻へかけての斜の線が堅く刻んだように影を作った。やがて、盃をおくと、黙って例の重たげな銀の煙管にきざみを押しこんで火をつけた。
「八十俵か──まったく、あきれた奴だ」
そういって煙管を銜(くわ)え、大きな鼻の穴から、ふっと煙を出した関谷は、投げ棄てるような調子だつた。
「まったく、僕の不注意でした。杉山でもつけてやれば、まだよかったんですが、馬鈴薯が俵にしてなかったものですから、また霜にやられては、と思ってそっちが心配だったんで──」
「久樽にはしじゅう泊まっておったんですかい?」
「はあ──時々は苦いこともいってみたいんですが、どうも──まあ、しかし、ちゃんとしまるところはしまっておられるんですから、大したことはないとおもっていましたが」
「馬鹿め、まったく、馬鹿につける薬はありませんな。実は、こっちゃあ、女房でも持だして、岩見沢で、ここの支店でもやらせようと、こう思っていたんですがな」
関谷宇之助は、細い目を曲の手にして、煙草の煙を、けむそうに吐き出した。半ばは運平へ相談の口ぶりである。
「そう──そりゃあいいお考えですな。僕も仙吉さんには、そういう仕事の方が合ってると思いますね」
「腹の中をいえば、ここにおいて、ここのことをさせたいんじゃが、どうも、あれとの間がうまくいきませんのでなあ──いや、まったく、儂もとんだ因果な子を持ったものですて」
言葉はしばらくとぎれた。湯上りのうえに、薪ストーブで暖められて、運平は、額に汗の玉を浮かしている。関谷は、ストーブの台の上に、トンと強く煙管を叩いて吸殻を落とすと、
「野郎また、定山渓の高山温泉へでも行きおるか──さあ、まあ、どうです一杯」
と、運平に猪口をさし出した。
「いま、膳が来るが……おい、どうした、早く秋月さんに膳を持って来んか」
と、台所に向かって少しとがった声でいいながら、酒をついだ。仙吉のこととなるとさすがにいらだつ親心が察しられて、運平は、勿体無いとおもうのだった。
お浪が支度をして膳を運んで来た。ランプの燈のかげで、なにか、まぶしそうに銀杏返のあたまをかしげて、運平に酌をすると、すぐまた立って行きかけた。
「おいおい、行つちゃあいかん。坐ってお酌をしなさい」
関谷にいわれると、お浪は、きまり悪そうにまた膝をついた。黄八丈にかけた黒衿に、形のよい顎が白々と匂っている。
「どうですかな? なかなか別嬪でしょう? 家の女房の妹にしちゃ上出来ですわい。ウアッハハハ」
関谷は、例の人を食った笑い声をあげながら、運平とお浪を見くらべている。何だか擽ったかった。関谷の妻君の実家は、同じ札幌の町内にあるので、ちょいちょい姉のところへ来るお浪には、今までも度々逢うことはあったが、今夜のように、なにかわざとらしく酌などされたのは初めてであった。
そうやって磊落(らいらく)に笑っている関谷と、仙吉のことを心配する関谷とは、人が違ったような感じである。運平は、なんだかかえって、自分の方が勝手の違ったぎこちなさを覚える。
「なんですなあ、秋月さん。近文が貸下げられたら、一つ女房でももろうて、落ちついて仕事にかかられるんですなあ」
そらきた、と運平はひやりとした。だが、よもや、それが関谷の囗から出ようとは予期していなかったので、すじこの膾(なます)を口に入れたまま目のやり場に窮した。年長者が若い者に、二言目には妻帯をすすめるのは、これは一種の儀礼のようなもので、また、それが、迷惑そうな顔はしてもおおかたの年少者には、よろこばれる話題なことも、世なれた大人はみんな知っている。だが、関谷が、そんな常識的なことをいおうとは、運平は思いもかけなかったのだ。
「いや、女房など、まだまだ駄目ですよ」
彼はそうういわれたときに、誰もが答えるようなこたえをした。
「だが、上川は、いいとこですなあ──」
そうして、関谷が、まだなにもいわぬ中に急いで話題を加えた。それは、いかにも青年らしいぎこちなさで──しかし関谷は、すぐ釣られて十六七年の凶作の頃、上川までいった話をはしめた。
彼は流浪時代のはなしとなると吾を忘れて夢中になってしまう。ちょうどその頃がなにか、彼の人生の中で一ばん幸福な時代ででもあったかのようだ。その関谷は、もはや、運平に通り一ペんな結婚を勧めた関谷でも、仙吉のことを気づかうときの彼でもない。その関谷こそ、ほんとうの関谷宇之助その人だといった様子である。
「あの頃は面白うごわしたよ。もう一度儂は歩きたい。もっとも、この間のように道でゆきだおれになるのはいやじゃが──いや、今度はなあ、秋月さん。儂は海の上を歩こうとおもうとる。ロシアあたりまで行こうと考えとる。カムサッカというところがある。あんたは、学問があんなさるから、知っとられようが、千島のもっとさきですわい。北海道とそれから、飛石みたいな千島と樺太とで、池のように抱いとるのがオホーツク海ですわい。儂は、あの海で思いっきりあばれてみたいとおもうとる──」
酔いがまわったとみえて、関谷は陶然と、オホーツク海の氷の海を見ているまなざしであった。ははあ、それであったか、と運平は、なにもかも得心がいった。関谷宇之助と、そのひとつひとつの事業の全貌が、目の前に、はっきりと浮かびあかってくるのであった。運平は、この人が自分より大きいのを以前から感じていた。それが漠然と大きくて、とりとめがない気持だった。その、どうにもつかみどころのない大きさが関谷宇之助の全人生であったのだ。運平は何だか、目の前で、関谷の体がふくらんでゴム風船のようにはじけてしまいそうな奇怪な不安さえ感じてくるのであった。
「春になると、船が手に入ることになっておりますのじゃ。今度こそ、儂は自分の長い間の念願をたっしますのじゃ。いや、おいねなども、危がってとめますが、儂が座ったきりで、こんな商売の利潤を当にするようになれば、そのときは死ぬときですわい。そういいますのじゃっさきへさきへと、私の望みは大きくなり、ひとつのことをしたとおもうと、また、別なひとつの仕事が見えてくる──際限がないのですて、まだまだ倶は生きてゆく証拠ですな。なあ、秋月さん、そうでしょうがな。人間はそういう夢というか、理想というか、野心というか、それがなくては生きとれんもんですわい」
この五十幾歳の男の顔には、まるで子供のような輝きがあった。惜しい人だ、この人にもう少し学問がさせたかった。この人がもし士族の家にでも生まれて、教育を受けたとしたら──と運平は、よい色になった薄痘痕の目も鼻も口も大々とした関谷の顔に見とれた。
「関谷さんの話をきいていると、この北海道でも、日本の国でも、うんと大きなものだという気がしてきますな。いや、自分までが、宇宙いっぱいにひろがってしまいそうだ」
「そうです、若い者は、うんと大きな夢をもつことじゃ。そら、何とかいいましたな。農学校の校長さんをやった、ええと──そうそう、クラークさんが、ビー、アンビシァス、ボーイズ。青年よ、大望を抱け、というんだそうですな。儂は、それを農学校の生徒さんにきいたんじゃが、気に入りましたよ。毛唐人もなかなか偉いことをいうもんですなあ──」
そのうちに、おいねも来て席はにぎやかになったが、飲めない運平は、いいかげんに飯をもらって切りあげると、瀬沼をたずねて来るつもりで外に出た。創成川の水音が高く、外は皮膚が凍りつきそうな寒さであった。
馬追原野も、いいかげんにひきあげないと、ひっこみがっかなくなるな──運平はいくらか酒のまわった頭でそんなことを考えながら歩いていた。
関谷が船に乗って、カムサッカに出かける、馬追の開墾地はどうでも秋月さんにやってもらいたいといい出すだろう。そうして、お浪を押しつけられる。──これは危い。お浪はどうやら、おちかのように簡単には避けられそうもない。お浪の魅力は妙な蜘蛛の巣のようなねばっこさがある。
おちかに対するときは、なにか自分の感情が不純なような気がするのに、お浪のそばによると、反対に、むこうが穢(きたな)い気持ちがする。そのくせ、その穢さはおそろしく魅惑的なもので、おちかの場合のように、とても自制する力がなさそうだ。いつか瀬沼が、ありゃあ出戻りなんだよ、じゃなきゃあもう男を知っとるな、と、いやに心得顔に噂をしたが、そんな潜在意識のためかもしれない。なんだ、女なんて、糞くらえだ。運平は囗に出さんばかりにそう思ったが、四丁目の明るい街角に出ると、ふと足をとめた。
北に曲がれば、二条の官宅地で、瀬沼は道庁の小官吏の家の二階を借りている。南に折れると、薄野の遊廓である。運平の歩みは、ここでしばらくたゆたった。街路樹の葉はすっかり落ちて、枯れた梢に、凍ったような星かぶらさかっている。恵庭には、もう雪が降ったのか、街を吹きぬけてゆく風は刃ものの鋭さをもっている。
その風の冷たさは、はじめて北海道に渡って来た日の心を呼びさます力を持っていた。ぐずぐずしている中に、もうじき一年になってしまう。こんな馬鹿げたことを考えていてどうする気だ。運平は立ちどまったことに自分で恥じた。彼は凍てついた道に下駄の音を高くさせて暗い北に曲がった。