朝からの時雨模様は、いつか雪に変わった。
強慾な冬の力に反抗するように、時折、ぱあっと、明るい名残の陽ざしが顔をだすのだが、その光は明るい割に弱々しく、すぐ灰色の雲に押しのけられて、ガラス屑のような硬いこまかな雪片が風と一緒に横なぐりに野面をおおってしまう。
馬追の開墾地の人々は、まだ畑に掘り残してあった馬鈴薯の残りを、総がかりで小屋に運んでいた。この新墾地は五月の中旬に耕されたところなので、晩熟種の「スノー・ブレーキ」を播いた。「スノー・ブレーキ」は後年「雪片」といわれたもので、収量は比較的少ないが味のよいことは馬鈴薯中の王者である。
運平は札幌にゆく日、杉山にくれぐれもたのんで行ったので、もう馬鈴薯の収穫は済んでいる積もりであった。その次には、玉蜀黍の脱粒もしなければならず、二晩泊りで帰って来るのも気が気ではなかったのだが、帰ってみると、仕事がさっぱりはかどっていず、その上、政一と健吉が居なくなっていた。
杉山にも無断で出て行ったのだという。炭山々々といっていたから、夕張にでも行ったのだろうが、二人ともまだ二十歳前後の若さだから、運平も杉山もこころもとない気がした。
「秋月さんの出かけなすった次の日の夕方、二人でぶらりと、久樽へ行くようなふうで出かけたんですけどね。もう、ちゃんと計画してあったとみえて、荷物がすっかり持ち出してあるんですよ。私達にも相談なしでさ、ありゃあ、健吉が誘ったにきまってますよ。政さんは人がいいんだから、すっかりまるめられたのさ」
お民は、若い者に馬鹿にされたと、ひとりでぶりぶりしていた。運平としても肩すかしをくったような不快さがないではない。
「若い者らだから仕方ないども、北海道さ来て、一つとこで辛抱が出来ないで、あっちこっち渡り歩くようになると、まあ、ろくなことはごわせんよ」
こころ当りを探し歩いてくれた山形が、あわれむような調子でいった。
残りの馬鈴薯は自家用の食料だったので、小屋の前の土を掘って西谷が埋けることを教えた。これが冬季の野菜の貯蔵法で、土を三四尺の深さに掘り、その中に、馬鈴薯とか、大根、人参、牛蒡などそれぞれに入れて、そのまわりの土には溝を掘って排水をよくし、上に燕麦稈を屋根の形にかぶせ、土で厚くおおうのだ。こうして置くと、凍らないから冬中雪の下から掘り出して食うことが出来るのだった。
馬鈴薯や、他の野菜の仕末が終る頃は、もう夕方に近く、すっかり日がつまっているので、情ないほど暗くなるのがはやい。ほの白い薄暮の中に、雪はもう三四寸も積もって、見渡す馬追の野は幽鬼の世界のように変貌している。誰のこころも、移住者のうらぶれた感傷にふさがれて、言葉は少なくなった。
小鳥の声もせぬ樹林地を渡る風がひょうひょうと鳴った。小屋は、まるでこの世界にとり残されたみたいに寒ざむと様子の変った風景の中に放り出されている。
山形が樹林地のはずれから、小屋の前までの小道に添って、六七尺に切った棒切れを、一間置きぐらいに土につきさしている。ちらちらと雪の中に動く黒い姿は、妙に野獣めいてみえた。こうしておかないと、吹雪で道の消えた時、目標がなくなって、深い雪の中に足をふみ込むようなことになるのだ、といった。
「やっぱりなんでがすな、北の方の側には雪囲いをした方がようがしょうな。平田農場からここまでは吹っさらしでかすからなあ」
やっと小屋の前まで帰って来た山形は、眉や睫毛にたまった雪をしばしばさせて落としながらいった。
北海道の生活に馴れている山形と西谷とが、先にたって冬ごもりの支度をしてくれるのだ。杉山もお民も、急に人の減った淋しさもあって、情なそうな顔をとき折見合せている。山形の家の前庭から根分けしてきた黄色い菊が、花をつけたまま雪をかぶって凍っている。お民は赤くかじかんだ手で、その枝を折って雪を払い落としている。その様子をみているうちに、なにか、運平の心にも沁み入るものがあった。
十一月といえば、彼らの故郷の神奈川県では、和やかな小春日和がつづき、そろそろ麦蒔きが始まる頃だ。村の明神さまの祭礼もある。足柄山のむこうに聳える富士の姿が真白に雪をいただきはじめて、土地の人々は、もう間近に冬が来ているのを忘れ勝ちなくらいで、暖かな湘南の村々には、白い障子に柿の実が赤く燃える頃である。
運平は、雪の下から折りとった小菊の花を見るお民の顔に、その悲しい郷愁の想いを読みとって目をそむけた。
「さあて、明日の朝は、はやく起きて、兎を撃ちに行くかな?」
彼は、軍手に凍ってカチカチに硬まった雪の氷をむしりとりながら、白い息を大きくついていった。
「いかべ、そろそろ脂が乗ってうまくなった頃だからのう」
西谷伊作が、相変らず、すぐに食い意地の張ったことをいう。
「なんでがすよ秋月さん。これからは、小鳥はいなくなりますが、獣だば、いくらでもとれますからなあ、儂なども去年の冬は、罠をかけて、ずいぶんいろんなものをとりましたよ。いや、鉄砲があれば冬中は、うまいものが、しこたま食えますて」
雪にも寒さにもめげない逞しさで、山形と西谷は陽気な冬の一面を愉しむ様子である。男達は小屋のまわり仕末し、雪囲いは明日にして、家に入った。
顔を揃えてみると、やはり政一と健吉の減ったのはものたりなかった。仙吉のいないのは毎度のことなので誰も気にならなかったが、あとの二人は、食事時になればなったで、今夜はどこで飯を食っているのかと、つい考えてしまう。山形もすすめられるままに夕飯を一緒にして、いつまでも炉に足をふんごんだなり話し込んでいた。
「ながいようでも、伐木仕事をやったり、雪かきでもしたりしよると、冬だってはやいもんだもなあ──」
焚火のほてりで赤くなった顔をあげた西谷が、もうねむそうな目をしょぼしょぼさせて、山形にいう。
「んだども、女の人にやあながいのう──」
「まあ、なんだあな、お民は、うんと継ぎものでもして、春の支度をしといてもらうさ」
と、杉山が女房の気をひきたてるつもりでいった。
もともと百姓仕事で身をたてるつもりのない杉山三造は、適当な場処を探して店でも持つまで、ここで小作でもしようという考えらしかった。
「いいじゃあないか三ちゃん。浮世はなれて二人の世帯だもの、おあつらいむきさ」
運平がからかった。
「そうじゃそうじゃ。二人で長持に入った仲じゃからのう」
西谷が哄笑する。
「そんなに嫉くもんじゃありませんよ。秋月さんだって、あんまり大きいこといえた義理じゃないさ、札幌に、いいのがいるんだって、仙吉さんがいってましたよ。それで、可哀そうに、おちかちゃんは振られたんだってさ」
からかわれたお民は急に持ち前の元気をとりもどして逆襲してきた。
「へえ──そいつは耳よりだな」
運平は他人のことのように真顔になった。
「すらりとした、いい女だって──空っとぼけても駄目ですよ」
女らしく少し嫉いている調子であった。ははあお浪のことだな、とおもうと、秋月は、忘れていたお浪との結婚問題を思い出して、また、どうにもやっかいなことがはじまったと、気が重くなるのだった。何とか、おいねの手前も断りぬいてはきたものの、今までの好意の手前若い運平には、変に義理の悪い思いであった。
「秋月さんも殺生ですがなあ。おちかちゃんは、とうとう岩隈の食いものになってしまいますよ」
「そうかって、女房にするわけにもいくまいが──」
「勿体ない、女の少ない土地に来てのう」
「三十までは、女房は持たんという願をかけているんじゃよ」
運平がいうと、杉山はにやにやしながら、
「だが、そら、この限りにあらずってのがあったじゃないかい? 運平さん?」
と、いやな笑いかたをした。
どちらかといえば中年をすぎた西谷をのけると、運平一人が今度は一同のからかいの対照になった形だ。若い者の感情をそそるようなことを、意識的に話題にするこれらの人々に、運平は好意よりも、もっと性の悪い好奇心を感じて不愉快になった。その上、おちかのことをいわれると、しらずしらず不安定なこころの状態になる自分もいやであった。
「雪がやんだかな?」
そういいながら、運平は立ちあかって、小屋から外に出た。
空は拭われたように晴れて西の樹林地に近く、氷のかけらのような七日の月が落ちかけていた。運平は、いつもの習慣のように南の空を見あげながら、しゃあしゃあと、雪の上に小便をした。
ひりひりと冷たい北風が、頬をなでてゆく。北海道というところじゃあ、小便をするのに金槌を持って行くんだそうだ。それでないと、下から上まで凍って柱になるということだ。などと、まるで見て来たようなことをいった郷里の人のことがおもわれ運平の顔は、ひとりでにほころびた。
これからの生活も、彼には決して恐れてはいない。ここの暮らしを、まるで鬼界島の生活のようにいっていた人々の認識不足もさるものながら、とほうもない出まかせの噂におそれをなし、郷里の寸尺の土地を分け争いながら、徒らに生まれた土地で一生を終る人々は多いのに、この未開地がいつまでもあれたままで放擲されているのは歯がゆいことだとおもうのだった。
本家の当主の新助は、北海道が見込みがないと思ったら、帰っていらっしゃい、といった。見込みのないところでは決してない。作れば立派に作物も出来る。寒さだって、決して耐えられぬはずはない。見込みのあるなしは、自分のこころ一つではないか。ここは、立派な日本の国土の一つだ。俺は、きっと、そうだ、上川の貸卜地が手に入ったら、立派に仕とげてみせるぞ。
運平は郷里の方にむかって誰かに語るかのように、そうくりかえすのだった。