北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部


  

(1)

 
道庁の殖民課にお百度を踏む日がまた多くなった。運平は十二月の初めから札幌の山鼻に瀬沼と二人で家を借りた。これは、屯田兵あがりの本間某の住宅で、土地が三町歩ほどついている。春になっても、もし、上川の土地の貸下げがはかどらなければ、せめて、この畑地を作りながらでも、貸下地を探そうという腹であった。
 
冬中の仕事といえば、伐木ぐらいのもので後は鉄砲撃ちでもしながら、馬追にいることは、関谷との関係を一そう近づけ、どうかすると馬追の開墾地の仕事を一切おいかぶされる危険があった。その上お浪との結婚問題も、のっぴきならなくなりそうだし、一方、なにか、おちかのそばで一冬を送るということは不安な気持でもあったのだ。
 
明治九年に建てられたこの屯田兵の住宅はもうかなり古びている上に、どういうわけか、とっつきの十畳間には六枚の畳しか敷いてなくて、奥の八畳にはまるで畳がなかった。多分、家主の本間が、札幌の町で小さな飲食店をはじめるとき、畳、建具は店子持ちという北海道の貸家の習慣で、そのおぎないに持って行ってしまったものらしい。
 
瀬沼も、運平も、仕方がないから、床板の上をカタカタと下駄ばきのまま歩くのだ。屯田兵屋だけに、床板も、根太もしっかりしているから、安普請の貸家のように、危っけはないものの、なんだかまるで家の中に住んでいる気分がない。どうかして、暖かい日などは、土間の土がぐちゃついて下駄につくから、床の上は泥だらけだ。
 
関谷の家から借りてきた少し穴のあいたストーブに太い薪をくべて、炊事と保温と両方に使っている。鍋から荼腕、庖丁の類まで、みんなおいねからの借りもので、二人が買ったのは箸と箒ぐらいのものであろう。
 
瀬沼は、炭礦鉄道会社の台車乗りをしていて、一日置きに帰って来る。夕方帰って来ると、時折は飯を食って出かけてしまう。行く先は薄野にきまっていたが、二三時間で、十時というときちんと帰って来て、すました顔でまた飯を食った。彼はこれを健康法だと称している。この点運平と瀬沼とでは、かなり考えが違っている。秋月の持っている妙な感傷癖は、瀬沼にはない。彼は女を飯茶碗ぐらいにしか考えていないらしい。
 
今日は瀬沼の帰って来る日だから、とおもうと、運平はやはり愉しい。珍しく狸小路で牛肉を一斤買って、玉ねぎと蒟蒻(こんにゃく)の紙包みをぶらさげている。水に濡れた蒟蒻の包みは少し歩いている中にすぐかちかちに凍ってしまった。
 
二月の雪道は、石のように硬く、うっかり下駄などで歩こうものなら、一たまりもなくあおむけに転ぶばかりだ。陽の沈んだ空はからりと晴れて、ガラス張りのようなもろい明るさである。去年の十一月から電燈のついた市内には、ところどころ街燈がともされ、少しずつ光をましていた。
 
運平は、この薄暮の時刻が一ばんいやであった。おおかたは、空腹時でもあるからだが、妙にこころがうすら寒くて、人が恋しくなってくる。だから、瀬沼の帰る日は、なんだか無邪気にうれしいのだった。
 
薄野へ行く角を反対に西に曲がると、本願寺の大きな建物で、道は、そこから急に暗くなっている。雪道の幅もひどくせまくなって、時折鈴をならしながら後から追い越して行く馬橇をよけるためには、つまご(藁の靴)を荒雪の中につっこまなければならぬのだった。
 
「お晩です。すみませんね」
 
と、声をかけて馬を追ってゆく者もある。
 
みんな白く凍った息をはき、厚い防寒具にくるまって、体を円くしている。運平も、せっせと歩いているので、体はぽかぽかと暖かだったが、目や鼻の中の水分が凍ってゆくのか、変に目の中がしばしばするし息をすう度に鼻腔がくっつくような感じだ。
 
ときたま、秋月たちの家による郵便配達夫は、なぜか、鼻下に立派な髭をたくわえていたが、ある吹雪の日に、囗をおおうような髭の先に、六七分の氷柱をぶらさげていたことがある。吐いた息が防寒具の衿にこもって、そんな珍現象を呈したものらしい。運平は、そのことを思い出すと、自分の鼻の下をこすってみたが、別に氷柱はさがっていなかった。
 
右手にせまる藻岩の山の上に、大きな宵の明星が光りはじめて、この山鼻の兵屋までの道のりはかなり遠かった。運平は、今朝は少し早く家を出て、新琴似の製線場に繩掏いの内職があるというのをききに行ったが、住み込みの職工に限ると断られて帰って来た。
 
午後になって、また、道庁の殖民課に寄ってみたが、例のとおりはっきりしたことはわからず、上川以外に貸下地がありはしないかとたずねてもみたが、そんな予定地はまだ発表されないと、けんもほろろに断わられた。
 
役所の仕事は、運平が考えるほど、急にははかどらない。貸下地の出願をした当人は、一日ぼんやりしていれば、一日だけ自分の生涯の仕事が遅れるようで気が気ではないのだが、官の方にしてみれば、数多い願書の整理をし、本人の身もとを調べて貸下げようというのだから、そう早急には許可のおりようはずもないのだ。
 
たとえ雪中であっても許可が下り次第、上川へ入地するつもりで待機していた運平も、二月の声をきくと、急に心がせいてきた。三月になればそろそろ雪解けが近い。未開地に入地するには、この季節をえらぶのが一番よいのだ。開墾費を多額にかけることを許されない運平は、なにがなんでも、早春のうちに入地して、早くに予定の四千坪を開墾(ひら)いてその年の食糧だけでも収穫したいのだった。
 
そうして、ひとまず上川を根拠地として、事業拡張の計画もたてたい。渡道以来一年の日月を便々と待ちつづけたとおもうと、運平は自分の気の利かなさがさらけ出されたようないやな気持にもなり、また、当局では、移住者を歓迎するような宣伝をしているくせに、その実、有力者の手づるでもある団体移住者や、または、資本の大きい開拓事業には、どんどん土地を貸下げながら、運平達のような単独で、しかも、あまり資本の背景を持たぬものは、とかく忘れられ勝ちなことが業腹だった。
 
冬の間ぼんやりしてもいられないので、運平は、山鼻の兵屋を借りるとすぐ、貴実園という表札をかけて、夜は、屯田兵の子弟に、漢字を教えることにした。近所の子供が十人近くも集まって来るので、運平は毎夜、暗いランプの下で十八史略や日本外史を読んでやっている。
 
話上手な運平の講議はなかなか面白いとみえて、弟子はふえる一方なのだが、日中はどうにも体をもてあつかいかねる。それに、たとえ本家の新助か金はいくらでも出してやるとはいっても、出来るだけ開墾費用は自分でも用意して置きたいと思っていたので、馬追での僅かな給料も運平は大半は手をつけずに残していた。
 
無償で貸下げられるとはいっても、やはり先立つものは金であった。だから昼間の内職に、家で繩綯い仕事でもあるならとそんなことまで考える運平だった。
 
入口の南京錠をはずして滑りの悪い戸をあけると、真暗な家の中で、何かガタゴトと大きな音をさせて床板の上をかけまわっている。運平は、このときまで、土間の隅を仕切って、飼っておいた豚の仔のいることを忘れていた。
 
あっ、奴ら囲いを出たのだな、そういえば、今朝出がけに野菜の切れっぱしを少しやっていっただけなのだから、腹を空かしてとび出したに違いない。運平は、豚共が外に出ないように、あわてて後の戸を閉めた。
 
マッチをすって、ランプに灯をつけてみると、部屋の中は惨憺たる有様だった。床板の上は勿論、畳の上まで泥と飯粒でこねかえされ、ところどころにはやわらかな糞がふみにじられていて、足のふみ場もない。運平はややしばらく、うす黄色いランプの灯で照らし出された部屋の中を、茫然と見ているばかりだった。
 
豚の仔は二匹、あるかないか分らぬ目をして、ブウブウいいながら鼻をおたがいの体にぶっつけ合って床板の隅にまごまごしている。ストーブの横におろしてあった鍋のなかには、朝炊いた飯が七分目ぐらいは残っていたのだが、二匹でみんな食ってしまったらしい。飯のちらかった中に鍋蓋がころかっている。
 
この豚の仟は、これでも残りものでもやって大きくなれば、生活のだしにはなると瀬沼が知り合いの家からもらってきたものであったが、自分たちさえあまり満足な食事をしない二人のことだから、仔豚達はいつも餓えていた。
 
運平はやっとのことで、二匹を土間の仕切の中に追い込んだが、奴らだって、腹が空けば仕方がない、とあきらめて掃除にかかった。
 
暗がりで足もとの悪いうえに、井戸端はこぼれ水で鏡のように凍っている。やっと手桶に汲んだ水を裏口から運んで来てみると、だれか土間に立っていた。運平は、瀬沼が帰ったなと思ったが、それは、関谷のお浪だった。
 
「やあ──」
 
「おるすかと思いましだけど、いらしったんですか」
 
お浪は、この頃流行しはじめた角巻という毛布のようなものをぬいで、あがりばなにおくと、紫縮緬のおこそ頭巾をそっと頭からはずして、ちょっとなまめいた仕草で髪に手をやった。 
 
「いや、大変なところを見られましたな」
 
「どうしたんですの? これは、まあ──」
 
お浪は、座敷の中を見まわしてあきれた様子だ。運平は、こんなところをお浪にみられたのが気恥ずかしかったが、ままよと思って掃除を手伝ってもらった。甲斐々々しく裾をはしょって、畳をふきはじめたお浪の赤い長襦袢が、殺風景な部屋の中で、なまめかしく運平の目をひいた。
 
どうやら座敷がさっぱりすると、お浪は姉の家からことずかって来たからと、何か重箱に入れた煮ものらしいものを出したが、
 
「あら、そうそう、御飯がないのですわね」
 
と、上目使いに、ストーブの火をもしつけている運平をみて笑った。
 
「豚の奴らがみんな平らげてしまいましたよ。惜しいことをした」
 
「お米といできましょうか」
 
「いや、いいです。なあに造作もないんです」
 
運平は、お浪にそんなことをされるのが、どうにも、間の悪いおもいで早く帰ってくれればいい、こんなところに、瀬沼でも帰って来たら、どんなことをいわれるか知れたものではないと、気が気ではないのだった。
 
お浪を貰ってくれないかとは、其の後も再三おいねにせつかれている。つい二三日前も、あまりしつこくいわれて、断る口実もなくなり、まあ郷里の兄がいいと云い、瀬沼が承諾したらと、言葉をにごして帰って来た。勿論、兄にも瀬沼にも、何とか理窟をつけて断ってもらうつもりなのだが、瀬沼には、どうかすると、お浪が好きなのじゃろうと、時折、変にからかわれているので、いまだにいいそびれて、そのままになっている。お浪をみると、運平は、今夜にも兄に先まわりの手紙を書かなければ、大変なことになるぞとあわててしまった。
 
だが、お浪も、このはなしは知っているはずなのに、あまりぎこちなさそうな様子もないのは、やっぱり瀬沼のいうように、もう男を知っている女の図々しさなのだろうか、と、運平は、お浪のものごしの中から、その真偽をかぎとろうとしたが、湯あがりのような肌をしたお浪の体からは、相変らず妙にそそられるようなものしか感じられなかった。
 
ストーブが燃えはじめると、運平はだまって、しばらく前の小さな窓から赤い焔のちらちらするのを見ていたが、この家にたった二人でいるのだということが、妙にはっきり意識されて、いらいらしだした。
 
「さて、失敬して米をといできます」
 
運平は唐突に立ちあかって、土間におりた。
 
「あの、私も、もう帰りますわ」
 
お浪も、さすがに、間の悪そうなものごしで帰り支度をはじめた。なにか、残り惜しいような気持はあったが、運平は救われたおもいで、暗い外へ出て行くお浪のすらりとした後姿を見送った。
 
月が出ているのか蒼ざめた雪の風物はガラス細工の透明さで静まりかえっていた。
 
瀬沼は、その夜、かなり更けてから帰って来ると、
 
「おい、こら、秋月、さあ貴公開墾した土地を一町歩よこせ」
 
もう床に入っている運平の蒲団をいきなりひっぱいて馬乗りになった。
 
「なんだ、どうしたんだ」
 
運平は、とろとろしかけたところを起こされて、その上、小柄なくせに力自慢の瀬沼に押えられたのだから、息もつけず、はねのけようともがいている。
 
「三十路まで浮世はなれし、などと悟ったようなことをいうたくせに、なんじゃい、馬鹿野郎」
 
相手は、ぎゅうぎゅう上からしめっける。ははあ、関谷のところで何か聞いて来たなと察した運平は、
 
「止せよ、息がつけんじゃないか、訳をいえばわかるんだ。は、はなしてくれよ」
 
と、息をはずませながらなだめる。
 
「よし、それじゃあ釈明させてやる。だが、約束は約束だぞ」
 
相手は勝ち誇った様子で運平をはなすと、部屋のまん中にぶら下げたランプの芯を太くして、ストーブの前に胡座をかいた。
 
「ひどい奴だ、人の寝入っているところを、いきなり暴力に及ぶなんて──」
 
「ひどいもんかい。貴公こそ僕に無断で女房を貰うつもりなんじゃろう」
 
「ハハ……。君、関谷へ行ったのか?」
 
「そうさ、そうしたら、いきなり姉さんがな、硯箱を持って来おって、さあ、手紙を書いてくれというんだ。秋月さんの小田原の兄さんのところへ書いてくれ、今度、妹のお浪を貰ってもらうことにした。秋月さんは、瀬沼さんと、郷里のお兄さんが承知なら貰うと、たしかにおっしゃったんだから、勿論、瀬沼さんだって否やはありはしないでしょう、というんだ。おい、お浪さんが大変な御執心だってじゃないかい、奢れ、おごれ」
 
「それで、貴公、手紙を書いたのかい?」
 
「書いたさ、いやも応もない。まるで強制執行だからな。まったく径しがらんよ、秋月君も大が悪
くなったなあ」
 
「そりゃ大変だ!」
 
「なにが大変なもんか、おいねさんと、ぐるになって人を利用したくせに」
 
瀬沼は、どうやら本気で気を悪くしているらしい。だが、ほんとに瀬沼が郷里の兄に手紙を書いたときくと、運平の顔からは笑いが消えた。
 
「冗談じゃあない、ほんとうに書いたのかい?」
 
「書かせられたんだよ。おいねさんのいうとおりそのままさ。関谷宇之助氏の義妹お浪さんは、なかなか才色兼備の得難い婦人だ、当人同志も気が合っている様子だし、関谷方でも運平君を見込んで切に望んでいる。僕としても、大賛成だから、二人一緒にして、新しい事業にすすませた方がよかろう。ことに開墾地の生活は、女手がないと不便だし、秋月君もいくら堅い人でも過失ということもあり得ることだから、このような植民地では今の中に身をかためらるるが肝要と存ぜられ候ってことを、姉さん、なかなか要領を得た文章でいうんだよ。僕は、それを筆記したようなもんじゃ」
 
「そうか──」
 
唸るようにいったきり、運平は唖然として腕組をしたまま、次の言葉が出ない。
 
「いけなかったのかい?」
 
相手が真剣な顔をしていつまでも黙っているので、瀬沼も少々気になりはじめた。石油が無くなったらしくご二分芯のランプは、ジイッと音を立てて、少し芯が燃え、やがて消えてしまった。窓からのぞいている軒の氷柱が月光をうけてきらきら光っている。雪の反射で、戸外は、輝くばかり明るい。
 
運平は、ランプをさげて土間に下り、一升瓶から石油をつぎたした。これは、とんでもない手違いになったぞ。と、頭の中で次の方策を考えながら、マッチをすった。それから、石油箱を横にした代用机の上の、むき出しの硯と筆を持って来て瀬沼のわきに置いた。
 
「さあ、すまんが、もう一度手紙だ」
 
運平は、巻紙を押しつけるように瀬沼の膝にのせていった。
 
「なんだ、また手紙か、今夜はどうかしよるぞ」
 
「関谷の姉さんには僕も参った。どうにも、もう断りようがなかったんだ。実をいうと、あまりうるさいから、小田原の兄貴に、きっぱり断わってもらおうと思ってたんだ。ほんとうは、君にも反対してもらうつもりだったんだが、君は、いつもお浪さんのことでからかうもんだから、つい、言いそびれていたんだよ」
 
「そうか──案外、君も気が弱いんじゃのう」
 
「女だけは苦手だ」
 
運平は苦笑した。
 
「だが、お浪さんは、ちょっと、色っぽくって、いいなあ」
 
「うん──しかし、女房はやっぱり郷里の者を貰うよ。東北の者は、食いものが口に合わない」
 
「しゃれたことをいうなよ」
 
二人はたあいなく笑いながら、手紙の文句を考えはじめた。
 
 

 

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