北方有事と本府遊郭の狭間で
明治3(1870)年2月、樺太開拓使が置かれ、黒田清隆が北海道開拓使の次官のまま、樺太専任となって樺太の責任者となりました。薩摩藩士として黒田の寵臣であった堀大主典(史実では堀基)は、嘉永7(1854)の日露和親条約によって「日露雑居」の地となっていた樺太に渡って現地の実情を視察しますが、そこはすでにロシアが跳梁跋扈していました。
一方、仙台岩出山支藩の家老として伊達邦夷(史実では邦直)の移住計画の責任者であった阿賀妻謙(史実では吾妻謙)は、開拓資金を調達するために開拓使の石狩番所の建設工事を請け負うことを考え、堀大主典を通して受注に成功しました。さまざまな問題を乗り越えた番所の棟上げ式を迎えたとき、阿賀妻は樺太から戻ってきた堀大主典に呼び出されました。
そして阿賀妻が堀大主典から聞いたのは、樺太におけるロシアの蛮行と、樺太放棄論に傾きつつある上司・黒田清隆への得満でした。史実では明治5(1872)年頃の情景です。かつての堀大主典は勝者である官軍の大官として敗者である阿賀妻には上から目線でしたが、樺太から戻った堀大主典は、北方から迫るロシアの脅威を肌で感じ、それを止めるための北海道開拓の重要性を強く認識したのでしょう。開拓使主導の移民事業の多くが失敗に終わる中で、困難を推して前進を見せる阿賀妻たちをたのしもしく思ったようでした。
潮目の代わりを見た阿賀妻は、この機をとらえて岩出山住民の第2回移住に対して開拓使の後押しを依頼しました。二人が話し合っている最中に、阿賀妻を訪ねて岩出山家中の若者・高倉祐吉、そして堀大主典を尋ねて土建の請負師が同時にやってきました。
この節では、開拓使判官岩村通俊がすすめる本府札幌のまちづくりの様子と、それを複雑な思いで見る堀大主典の様子が語られます。
第三章
(六)
その窓下をすッと隠れたものがあった。
堀大主典がそれを見咎めた。灰色がかった彼の顔に目に見えてかッと血の気がのぼったのである。はたしてその人影が彼をこんなにむかむかさせたのか——それは彼自身にも判らなかったが、多くの仕事に取り囲まれた人間には、どうにも抑えることの出来ぬ焦立たしさが、つまらぬことをきっかけに駈けぬける一瞬がある。
彼は噛み付くようにどなった。かつての日、争闘のために鍛えたあの強い声が咽喉からとびだした。
「だれかッ!」
手ごたえはあった。相手はその怒号に射すくんでその場に佇立した、——そういう感じが伝わって来た。
跳びあがるほど驚いたのは出張所の役人たちであった。血なまぐさい日の思い出はそんなに遠い昔ではなかった。刀にかけて正邪を決する習慣もうしなわれてはいなかった。椿事は随所に突発する可能性があった。そして、責任上まッ先にとびださねばならぬのは彼らであった。刀の下げ緒をばらッとなびかせて駈けだしたのである。
「誰か?」
「はア」と相手はしゃがんでいた。
逃げも逆らいもしなかった。引戸の前の埃ッぽい土の上に膝をついて、出て来るものを待ち受けていたのだ。ま上にはひろびろとしたあかるい空があり、地の上は蒼黒く、窪み窪みからは夜がひろがっていた。
「なにものじゃ?」
「はい——」と彼は顔をあげた。
置き去られた夕焼けが、仰向けたそのものの顔をうす闇のなかに照しだした。若ものであった。ふっくらとした頬の感じがひどくさわやかに見えた。
「伊達家の若者じゃな」
記憶をたどるようにしていた役人は、見下してそう云った。税庫の工事場で見かけた顔であったから。
「はい、それがし高倉祐吉と申します」
「なにか、用か」
「はい、ご家老さまに」
「ご家老?——阿賀妻どのか、はいれ」
暗くなった家のなかでは使丁がランプの灯を入れていた。彼はのびあがって、それを堀大主典の前に吊した。人々の顔は黄ばんだ光に染めだされた。
使丁は身をひきながら、大主典に顔をよせて耳打ちした。
堀は目を剥いた。なに?——と聞きなおすのだ。
「ふン、よろしい」と彼は声に出して大儀げに云った、「ここに通すがいい」
使丁はおそれ入ったという風に腰をかがめて去った。十三等出仕のあの下役人は、連れて来た高倉祐吉を前におしだすのであった。
「ご前だ」
そう云われてお辞儀をしている少年を彼らは見おろしていた。戸外でなされたその者らの会話は、みんな、うすい板壁をとおして手にとるように聞えた。今更問いただすべき筋合いのものでもなかった。それ故、それぞれの思いに堕ちている大人にとってこの少年の出現は心をみだすほどの注意もひかないのであった。悪びれもせず、勿論臆した風もなく少年は隅の方に控えていた。誰も何とも云ってくれなかった。こちらから云いだすことも出来なかった。この席の人々と彼の間はあまりにかけ離れていた。
口を利こうにも声が出ないのである。あるじである堀が何か一言云えばすべては済むのだ。そうすれば阿賀妻は自分に用があるというその子に向って、どうした?——と尋ねることも出来る。だが彼らの心は別のところに向いていた。灯影のとどかぬ隅の方に小さくなって、そして呼吸をひそめるような圧迫にかたくなっていると、高倉は自分の存在が消えるような気がした。
すぐに用のある他の者が現われた。
さきほど使丁にそう云わせた街の仕事師の連中が、あちらの部屋からがやがや喋ってはいって来た。
堀は真正面にそれを見つめていた。それで、卓をへだてた向い合せのその席まで近づく間には、しーんと静まった。やって来たのはこの土地の請負師であった。うす絽の羽織をひっかけていた。じろじろと見つめられると草履の音もしのばせるような遠慮を示した。陽焼けした大きな顔に浮べた愛そ笑いが横から見ると嘲笑いに見える。
「なんだ?」
「実はさきほどサッポロから立ち戻りまして」
木椅子をひきよせて、そのうちの重だった一人がそう云って腰をおろした。
「サッポロがどうした?」
「いや、えらい景気でした。三日見ぬ間の桜かな——と云うが、だんな、変りました」
「あたり前だ。それがどうした?」
「そうぽんぽん、すげなく云わないで下さいよ。堀のだんな、実は、ね」
彼らはそこで、なぜか揃って阿賀妻の方を見た。尤も、ながくは見てはいなかった。視線をひるがえして含み笑いをして、そして云った。
「だんなはこちらとご昵懇らしいので、実はあちらでお話のすむのを待っていたのですが、しかし、こいつは今度は、是非ともやつがれどもに落札して貰いたいと思いまして、ね」
「なんだ、何の話だ?」
「どうも話しづらい。どうも、その、——こちらのお武家がそばに居られるんでね」
「かまわん」と堀は眉をしかめて大きな声をだした。
「そうですか、武士は相見たがい、なんて、それだけは今回は勘弁しておくんなさい。実は東京楼の普請でさ」
「何だ、その東京楼というのは」
「柄にも無い、恥かしがって。だんな、わしがこの耳で間違いなく確めて来たことです、だんな——」
「拙者は知らん。何を聞いて来た?」
「云ってもようがすか。そりゃアもう無理も無えことです。官員さまだって人間だ、女けが無くちゃアやって行けますまい、それは何だ、かあいい奥方は郷里に残して、海山千里——どうなるかわからねえお国のはてで仕事をなさるんだ。官員さまには懐しい東京楼というあれを建てて、そこに美女を囲おうって云うんだから、なかなかひらけたものですね。——その東京楼の普請を請負わして貰いたいと思ったもんで、堀のだんなが見えられとると聞いてあわててとんで来たわけです。どんなものでしょう?こう云っちゃ何ですが、サッポロに集まった渡り職人どもにはこいつはちッとばかり大仕事かと思いますね。さ、さ、そういうことは、旦那の方が百も承知でしょうが、そこで、実は」
「きさまら、バンナグロ街道の狐にでもたぶらかされたのじゃろう」
「冗談いっちゃいけません。ほんとにご存じないんですか、こいつア驚いた。ちゃんと地割りまで出来とりました」
「どこに地割りしたと?」
「官宅地からずっと南にはずれて、本願寺街道に寄ったところでしたな。わたしらはこの脚で歩いてみましたね。本陣の裏にあたりますかね。秋田屋の前を南に出たところで、あれはそう、何というか——」
はなし手はちょっと眼をつぶるようにして見て来たサッポロの地形を思い描くのであった。それは説明するまでもない明白な地形であると思うのだ。だから彼には、ははア、ああ、あれか——そうくだけて出ない相手を、まだ白っぱくれているとしか取れなかった。それもそうだろうと彼はくすぐったい笑いを頬に浮べて、わかい役人を見おろすように眺めていた。彼らもまた遊女屋を必要と考えるならば、威張っていても、その限りでは同じ人間で、そこえらの若い衆と大した異いはない。
「へへへ、だんな?——焦らせないですっぱり云って下さいよ」
「それが、拙者まったく知らんのだ」と堀はふくれ面で云って、ちらりと傍らの阿賀妻に眼をやり、「お茶——」と叫んだ。
「おい、お茶をくれんか」
使丁の部屋にとどろくように猪首をひきのばしてどなりつけた。けれどもこうなっては、太ったその仕事師はびくつかなかった。返事をそらされても臆せずにやにや笑った。そして、彼はまたふと阿賀妻の存在に気づくのだ。彼のひろい顔は、あぐらをかいている大きな鼻のまわりに不快げな小皺を集めていた。話の調子に乗った彼は、そのときまで、ことりとも音立てぬそのものを度忘れしていた。無視していた。
だが、その間じゅう横からじろじろ眺められていたような気がした。ま近かに見る昔のさむらいは、それが政府の前には彼らと同じく、今はなんらの権力も無いと知っていながら、恐れるのは、もしかしたら抜くかも知れぬ帯刀だけであった。一日々々と、ひとりでに軽んじる気持になっていた。
殊にこういう多勢で向い合ったときには、もはや歯牙にかけるほどのものでも無い。ふふん——と彼は鼻で笑った。堀大主典が何かそれに遠慮していると見て取った彼は、そのためにも更に傲慢なものごしを取らねばならぬ衝動に駆られるらしかった。じろじろと四辺を見まわして、はしゃぐように彼は云った。
「何ですぜ、だんな。——何でもこの企ては、判官どの直き直きのお指図だそうでしたね。もっぱらそういう噂がたかかったが、なあ?」
彼のうしろに控えていた仲間は、「そうとも、そうとも——」と笑いながらうなずいた。
「よろしい、わかった」
堀はそう云ってぷいと立ちあがった。
彼は持って来さしたお茶などはどうでもよかったのだ。見向きもせずにぬッと立ちはだかって、ぬけぬけと語るそういう連中に向い、最後の威たけだかな一喝をくらわせねばならぬ必要を感じた。内心では、聞いたことは事実にちがいないと次第にはっきり信じられて来たのだ。彼の胸には、サッポロの彼らの使庁を采配している岩村判官の得意げな顔が見えるようであった。
その男の感じたこと、考えたことが直ちに施設となるような、その場あたりの脆弱な方針が目に見えて来る。羞かしいのだ。今は対等に、いや、支配者として臨んではいるが、数年前の社会では、とにもかくにも一藩の家老として立てられていた阿賀妻の前で、こういう話は、微禄の前身をさらけだすような羞恥であった。
「オロシャの蚕食」といい、「蝦夷の鎖鑰」といい、つまりは「北門の開発」という言葉だけの美しさを、どう、どこから解決してよいのか。これという見当もついていない有様である。取りあえずサッポロ本府の建設と二三の道路の開鑿、——そしてその次には、遊女屋の設置を計画しなければならないような考えで進められていたのか。
成りあがりの役人どもは、妻子を郷里において単身のりこんで来ていた。貧乏そだちの彼らには、与えられた権力と、賄われる俸禄がふいに気持を奢らしていた。開拓の方針に沿って、じっくり腰をおちつけ、新たな土地に埋もれようとは思いも及ばなかったのだ。漁夫や職人の出稼ぎ根性と気持は通じている。彼らには、酒も女も必要不可欠であったろう。見えぬところで、未来のために、地についた努力を致そうという心構えは、時勢が替って、被支配の位置に追いおとされた阿賀妻らの心情になっていた。出世の一段階とでも考えて出向いて来た人間が一人でもあったか。
「阿賀妻どの」と堀は低い声で云った。
「はあ——」
呼ばれて目をあげた阿賀妻は、見おろしている堀大主典のかなしげな眼を見た。それは不思議な——お互いの腹のなかでうんうんと領きあう了解の目つきであった。
「やっぱり、しかし、黒田さんは傑いですよ。そうお思いになりませんか?」
「そうのようですなア——」
「カラフトの問題をのぞけば、ですがね」
彼はそう云ってめずらしく笑った。厚い唇のおくに小さな白い歯がちらちらと見えた。
「あの人だけは心の底から北海道のことを考えていますよ——」と堀はつづけた、「追って、メリケンから連れて来た教師どもが調査にまいるはずですが——とにかく、こうしてはいられない。馬だ、馬だ」
堀大主典は下役のものに向って顎をしゃくった。
「馬の用意は出来たか。牽いて来てくれ」
彼は、矢立と書類をポケットに押しこんだ。
「これからサッポロにお帰りですか?——」と仕事師はうかがいを立てた。戸外は暮れていたのだ。
「月がある」と堀は云った。
「お伴をさせて貰いましょう」
「ふン、きさまらと同行したら、何をされるかわからん」
「まさか——だけど、だんな」
「わかっとる。入札はその方どもの自由だ、本府の金穀課が扱うじゃろう」
それでも彼らは黙らなかった。今は公然と顔をよせあつめて私語しあうのであった。この好機を、黒田長官さんの呼吸のかかったという羽振りのよい堀大主典の口添えによって有利にとらえようとする——そういう場合の、あくまで無作法にずうずうしい商人のつら構えに変っていた。
堀は卓の前を行ったり来たりして馬の来るのを待っていた。洋服に草鞋ばき、一本の脇差を腰におとしたといういでたちで両腕を胸に組んでいた。彼の心は、しばらく留守にしたサッポロに向って急いでいた。
阿賀妻は腰をあげながら云うのだ。
「堀さん、身どもも一度あちらに出向かねばならぬかとも考えておりますが」
「あちら?東京?それに越したことは無い」
彼は直ぐさまそう答え、壁に近づいた。そこに立てかけてあったものを取りあげた。銃であった。その筒を握って、彼はすらりとした銃床を阿賀妻の目の下につきだした。話しごえがぴたりと消えた。
「メリケン仕入れの最新式、レミントン」
「なアるほど」
「もと込めです。手にとって調べてみて下さい」
「おッと——これは軽い、なるほど、なるほど」と阿賀妻は遊底を動かしてみて床尾を肩に構えてみた。その方向の戸の前に彼は高倉祐吉の白い顔を見た。彼はちょっと眉をひらいて上体を動かし、あてどない覘いを定めながら云った。
「うちの安倍誠之助はどうしておりましょう?——」
「うん、そう、あの仁の妻子をねえ——」と堀は立ちどまって、「——便船で、冬の来ぬうちに送りとどけにゃなりません。が、拙者は不日東京にまいるとすると」
「いや、心強い」
阿賀妻は銃のことをそう云った。がちんと引金をおとしてそれを堀に返した。彼は立って来て高倉祐吉をのぞき込み、
「欲しいのう——われらもこういう武器を」
少年はどぎまぎして、くゎッと熱くなるような喜びにふるえた。じきじき同輩のように話しかけてくれたのだ。
「馬がまいりました」
彼はそう云って戸をあけた。みんなは立上った。がやがやとそちらに向って歩きだした。
「それからご家老——」と高倉は阿賀妻の前にとびだした。もう何でも自由に口が利けそうであった。ちょっと、と、わきにひっぱって行って、彼ははっきり云うことが出来た。
「松岡さまが、お待ちしております、と」
「何かあったのか?」