北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

道歴教協の誕生と岐路──教師はなぜマルクスに傾倒したのか

 

昭和43(1968)年の「北海道百年」に唯一反対の声を上げた道歴教協。北海道開拓史の排斥、アイヌ復興の中心団体として今も強い影響力を残しますが、この団体はどのようにつくられたのでしょうか。はじまりはたった一人の活動でした。

 

■8月15日 天地がひっくり返るほどのものであった

はたらくものの北海道百年史』は、北海道歴史教育者協議会=道歴教協の著作物ですが、「あとがき」の末尾に
 
なお、本書の執筆には井上司、山下国幸の二人があたった。[1]
 
とあります。
 
山下国幸──、道歴教協は長沼出身の小学校教師の活動から始まりました。
 
山下は昭和元年生まれ。長沼小学校を卒業後、深川中学校に併設されていた空知尋常小学校准教員養成所に入所。ここで半年間の促成教育を受け、昭和15(1940)年11月に代用教員となりました。この時14歳。以降、戦前戦後通じてを空知管内の各小学校の教員を務めました。
 
代用教員ではありましたが、歴史好きな山下は、歴史科旧制中学校教員資格の取得を目指して独学で歴史学の勉強に勤しみます。そして戦時下の国民学校で熱心な教師として教壇に立ちました。
 
いくつかの総合雑誌によって知った日本浪曼派のだれかれの評論や小説にのめりこみ、そこから大東塾という右翼結社にひきつけられるようになっていった。ここで私はまったく神がかり的歴史観を吹き込まれるのである。その結果がどんな授業になったかは、いまさのべるまでもない。[2]
 
そんな山下でしたから、日本の敗戦はとてもつないショックでした。
 
1945年8月15日のできごとは、わたしにとって天地がひっくり返るほどのものであった。私はまったく方向を失った。脱教師を考え、法律学の独学の勉強を始めたのもこの頃である。今にして思うと、戦後のこの数年間は、教師としてのわたしにとっては空白に等しい。その証拠にわたしは、この期間の教え子たちはほとんど記憶していないのである(戦時下の方は覚えているのに)。[3]
 

■わたしの生き方を決定づけてしまった

教育に対する情熱を失っていた山下が道歴協教運動に駆り立てられたのは、書店で手に取った一冊の本といいます。
 
私は、歴教協の存在を知ったのは、1952年の夏、26歳になったときのこと。たまたま書店で手に取った『日本歴史講座・第8巻・歴史教育編』(高橋磌一編)が結びの神になったのです。とくにその中の高橋論文「歴史教育論」には、魂がゆさぶられる思いがしました。[4]
 
「歴史教育者協議会」(全国歴教協)は昭和24(1949)年7月に結成された小学校から大学にいたる歴史を教える教師の全国組織で、昭和7(1932)年に結成された日本における最大の歴史研究学術団体「歴史学研究会」の「歴史教育分科会」から発展独立したものです。
 
高橋磌一は全国歴教協の初代書記長であり、協会旗揚げの功労者です。『高橋磌一著作集』全12巻が出版されるほどの著名歴史学者でした。『はたらくものの北海道百年史』に序文を寄せたのも高橋磌一です。
 
この頃、山下は教育現場から離れ、道教委の職員として空知教育研究所に勤務していましたが、『日本歴史講座』によって歴教協の存在を知ると、昭和27(1952)年10月、東京・お茶の水大学で開かれた全国歴教協第四回全国大会に駆けつけます。
 
「平和と愛国の歴史教育の具体的展開」というスローガンはいかにも新鮮であった。いままでわたしは数多くの研究会に出席しているが、このときはどの感動を味わった経験はそれ以後にはない。わたしはここで再度しびれたのだった。
 
求め求めていた末にこうやって二度もしびれたのだから、歴教協がそれからの後のわたしの生き方を決定づけてしまったとしても不思議ではない。二十九年を経ていまふりかえってみると、一九五二年の出あいはまさに運命的なものであったという気がしてくる。[5]
 
大会第一日の会員総会の席上で高橋碩一は全国的な組織状況について報告し、その中で「北海道がアナである」といいました。山下はそのアナを埋めることを約束。東京から戻った山下は、北海道から参加していた宮武慶一、徳田与次らと連絡を取り合い、全国歴教協の北海道支部結成に向け活動を始めます。
 

■「北大歴教協」と揶揄する声も

昭和28(1953)年4月、機関紙『北海道歴史教室』が発行部数50部で創刊されました。当時の会員には13名でした。以降、山下が一人で『北海道歴史教室』を編集、発行・発送する時代が続きました。
 
昭和28(1953)年年7月、山下は勤務する空知教育研究所の事業として東京から全国歴教協書記長・高橋磌一を呼ぶ講演会を企画しました。これに北教組が応え、函館から札幌、滝川、釧路、稚内をめぐる全道巡回講演会となりました。
 
高橋磌一の全道講演は昭和28(1953)年、29年、30年と連続で行わました。昭和28(1953)年7月、滝川市の明宛中学校で全国歴教協北海道支部が結成されます。この日にこの場所で行われた高橋の講演会に合わせたものでした。結成大会の参加者は20名足らず。小さな組織でした。
 
北海道支部発展の契機となったのは昭和54(1979)年8月、北海道大学で開かれた「第1回全道研究集会」でした。
 
第一回の全道研究集会を開くまでにはかなりのためらいがあった。「果して集まってくれるか」「資金がない」「人手がない」というなやみ。それにもまして心配なのは「歴教協の集会というに価する実践を組織することができるか」[6]
 
という中で行われましたが、
 
協力団体は北教組、北大教育学部、北大職組、歴研札幌支部、同小樽支部、北海道地方史研究会をはじめ約二十団体、参会者は当事者たちの予想をはるかに上まわる二百五十名。[6]
 
と、思いのほか多くの賛同を集めるのです。
 
この成功によって、すでに「支部」という実体ではないとして「北海道支部」は「北海道地方歴史教育者協議会」と名乗ることなりました。
 
成功の背景には、北教組と北海道大学の全面的な支援がありました。なかでも北大の支援は「北大歴教協」[7]と揶揄する声もあったほど強いものでした。道歴教協の初代会長は城戸幡太郎北大教育学部長、2代目会長の鈴木朝英も北大教育学部長でした。バランスを欠いているとしかいいようのない『はたらくものの北海道百年史』にも、当時の北大総長堀内寿郎が帯に推薦を寄せています。
 
道歴協教と北海道大学の強い結びつきは、後に述べる80年代の北海道における文化大革命の背景となります。このことは改めて検証したいと考えます。
 

『はたらくものの北海道百年史』(1968・労働旬報)の帯

 

■60年安保の中で

さて北大と北教組という教員社会では絶対的な影響力を持つ二つの組織からお墨付きをもらったことで活動は急拡大します。
 
昭和56(1981)年1月、札幌で開かれた第1回会員総会によっての組織改編を行い「北海道歴史教育者協議会」として名実ともに独立した歴史運動団体となりました。
 
この総会では機関紙として「北海道歴史教室」を年6回発行すること、地方にサークルを組織して、サークルから支部へと拡張することで組織を全道に広げること、他組織との連携教化、などが確認されました。昭和57(1982)年1月1日現在で会員数は244名を数えるまでになりました。
 
昭和33(1958)年10月、文部省は全国的な教育水準の統一を図るべく、学習指導の「試案」であった指導要領を「学習指導要綱」に改定して官報に告示し、これに法的拘束力を持たせました。
 
全国歴教協ならびに道歴協教は、文部省に強く統制されていた戦前の教育への回帰するものであると強く反対しました。さらに文部省が「道徳教育」、教師の「勤務評定」の実施を打ち出したことが、教員組織の強い反発を買います。
 
この前後、サンフランシスコ講和条約のともに結ばれた日米安保条約が最初の改定を昭和35(1960)年に迎えることから、安保条約反対運動がかつてない高まりを見せていました。こうした時代状況を背景に、指導要綱撤回、勤務評定導入反対を掲げて、昭和34(1959)年9月、日教組は初めての全国統一ストを行うなど、強い反対運動を繰り広げました。
 
しかしながら、昭和35(1960)年、日米安保条約は自然承認され運動は敗北。教師が強く反対した「指導要綱」にも法的拘束力を与えられました。
 

■子どもたちの生産労慟の科学的認識をどう育てるか

組織を挙げた運動の敗北を受け、道歴教協は深刻な反省に迫られます。
 
委員会はこれまでの批判活動の欠陥に反省を加え、「指導要領改訂には、かくかくの政治的意図がある」とか「これこれは間違いである」「これを伏せていることは、こう誤りを書いていることと同じである式」の教育政策批判から一歩前進して、〝現場的、実践的〟批判活動を行おうと申し合わせた。
 
「文部省をケナシ、胸のリュウインを下げた」だけでは反動の波は防ぎきれるものではない。これまで会員が日常活動でつみあげた実践をもって対決してこそ邪魔物は除去できるのだと考えたからである。[8]
 
すなわち、文部省にただ反対するのではなく代案を示さなければならない──と教師たちは考えたわけです。文部省に代わってどのような観点で子どもたちに歴史を教えていくか──道歴教協の教師たちは考えました。昭和36(1961)年度の「道歴教協活動方針」には、
 
『社会科において、子どもたちの、生産労慟の科学的認識をどう育てるか』のテーマこそ、民主教育の中核社会科教育の焦点である。[9]
 
としています。
 
共産主義思想の始祖・ドイツの哲学者カール・マルクスは、持つ者と持たない者の争い、資本家階級と労働者階級の階級闘争が歴史を動かす原動力と考えました。歴史を動かすのは、人間の英雄的な活躍ではなく、経済=物の変動と考えたことで、マルクスの歴史観は唯物史観とも呼ばれます。
 
「道歴教協活動方針」に言う「生産労慟の科学的認識」とは言葉を変えたマルクス主義・唯物史観でした。
 

■唐突な方針提示 戸惑う現場

昭和35(1960)年の「60年安保」まで、道歴教協の活動は良くも悪くも戦後GHQが戦後民主主義改革として打ち出した教育改革の枠内で行われていました。
 
ところが、この年を境に「生産労慟の科学的認識」=マルクス主義・唯物史観を活動方針の中心に据えたことで、道歴教協の活動は急速に政治色を強めていきます。
 
しかし、この方針導入には、かなり強引なものがあったようです。
 
「生産労働」を一九六○年の基本テーマとした理由について、北歴教51号は、次のように述べている。
 
「私たちは、いつまでも改訂指導要領批判の段階にとどまってはいられない。批判とともにこれまでの研究成果を整理し創造的な研究に歩みを進めなければならない。これこそが〝教育課程の自主的編成〟であると私たちは理解している。それではどこから手をつけるか、ここにうかんできたのが社会科教育の基本的な問題である。〝生産と労働についての科学的な認識をいかにして育てるか〟という主題であった」
 
この記述からは〝批判的研究〟から〝創造的研究〟へと前進した事実はわかるが、なぜ創造的研究の視点に「生産と労働」を据えたのか、「生産と労働」がどうして社会科教育の基本的問題なのか、「生産と労働」をどう社会科の内容化するか、などの点はかならずしも明確ではなかったといえよう。この点の不明確さが、その後の研究のすすめ方に大きな問題を残すこととなった。[10]
 
以上は「道歴教協10年史」の記述ですが、〝代案〟としてなぜ「生産と労働」=マルクス主義・唯物史観だったのか、明確でなかったと述べています。
 
実際に道歴教協会員には強い困惑があったようです。次の記述は昭和35(1960)年「道歴協教第7回研究集会」の様子を伝えるものですが、執行部が打ち出した方針に、会員が戸惑う状況が示されています。
 
山下国幸が「生産、労働に視点をおいた教科書研究」とそれぞれ提示した。教育一般と労働、経済学的概念、教科書研究の進め方などについては理解されたが、社会科教育の基本的問題としての「生産・労働」の意義「生産・労働の内容化」などについては依然としてモヤモヤしたものが残り、各分科会の討論も散発的なものに終った感が深かった。[11]
 
この頃、昭和38(1963)年、道歴教協の会員は全道で600名を超えていました。社会科、歴史科の研修組織としては道内最大となり、純粋に勉強のため、政治的・思想的な理由以外で参加していた教師も多かったのです。
 
執行部が急速にマルクス主義に傾斜していくと、大会参加者は昭和39(1964)年第7回大会450名、昭和40(1965)年第8回大会350人と急減していきました。
 
この時期、全道集会の開催も大きな困難に直面していた。道歴教協の全道集会は、第三回以来ずっと札幌市以外で開かれてきた。運動の全道的発展を考えるならば当然のことであった。だが、六五年に登別集会をもったあとは、地方で開くメドがつかなくなっていた。
 
それは前述の、道教委・地教委などのアカ攻撃、置接的には会場校を貸さないという攻撃がきわめて激しくなったこと、再建または新たに結成された支部の力がまだ十分に育っていなかったことなどによる。[12]
 
第7回大会を最後に道教委は後援から外れ、道は広報で大会を紹介することを拒否します。多くの学校で大会参加が研修会として認められず、教師は自費での参加となりました。
 

道歴教協会員現勢図(出典①)

 

■岐路に立たされる道歴教協運動

この急速な会員減の背景には、この頃急速に進んだ社会党と共産党との離反もあったようです。
 
昭和36(1961)年8月、ソ連が核実験を再開したことでソ連に批判的な社会党・総評系と日本共産党が対立。昭和40(1965)年から広島の原水爆禁止世界大会は社会党系の原水禁と共産党系の原水協とで分裂して行われるようになります。労働戦線でも昭和37(1962)年、全国自治労ならび全道労協は支持政党の社会党一本化、共産党排除を決めました。
 
『北海道歴史教室62号』で、標茶サークルの松本成美は「<主張>厳しい現実うごき ─反共思想と皇国史観─」と題して投稿していますが、中にこんな記述もありました。
 
ちなみに松本成美は、昭和52(1977)年に現代史出版会から発行された『コタンに生きる──アイヌ民衆の歴史と教育』の著者として、70年代から80年代にかけて北海道民衆史運動ならびにアイヌ復興運動の中心人物として活躍します。
 
○なぜ共産党を統一戦線から排除しなくてはならないのか。
○なぜ社会党だけを支持するこどが全労働者の統一戦線をつくることになるのか。
○総評の決定のいかんによって日教組の方針の正しさを立証することにどうしてもならない。
 
このような歴史的なみかた、論理的な考え方をぬきにした思考方法が、大衆の意識の成長をねじ曲げ、今日の緊急を要する平和・独立・民主主義の達成をさまたげている。[13]
 
「60年安保」の後、昭和43(1968)年の「北海道百年」を前に「道歴教協は、組織的、理論的にも新たな試練」[14]に立たされたのです。
 
 

 

 


【引用参照文献】
[1]北海道歴史教育者協議会編『はたらくものの北海道百年史』1968・290p
[2]山下国幸「随想 今ここに─歴教協とわたし─『北海道歴史教室139-140号』1981/7・北海道歴史教育者協議会・68p
[3]同上69p
[4]同上69p
[5]同上69p
[6]北海道歴史教育者協議会『社会科教育の科学化をめざして─道歴教協の10年─』1963・11p
[7]同上14p
[8]同上27p
[9]道歴教協「1961年度活動方針」『北海道歴史教室58号』1961/4・北海道歴史教育者協議会・3p
[10]北海道歴史教育者協議会『社会科教育の科学化をめざして─道歴教協の10年─』1963・29p
[11]同上30p
[12]北海道歴史教育者協議会『民族の課題にこたえる社会科教育の創造─道愛国主義=国際主義の人間形成道歴教協の20年─』1973・33-34p
[13]松本成美「<主張>厳しい現実うごき ─反共思想と皇国史観─」『北海道歴史教室58号』1961/10・北海道歴史教育者協議会・1p
[14]北海道歴史教育者協議会『民族の課題にこたえる社会科教育の創造─道愛国主義=国際主義の人間形成道歴教協の20年─』1973・22p
【図版出典】

[6]北海道歴史教育者協議会『社会科教育の科学化をめざして─道歴教協の10年─』1963・38p
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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