北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道百年粉砕──教師たちの怨念はこうして生まれた

「北海道百年」に対して反対の拳を挙げた道歴教協の教師たち。実は最初から「北海道百年」に反対していたのではありません。昭和41(1966)年に当時の佐藤栄作首相が発表したある国家事業が彼らを刺激しました。「北海道百年」反対はその流れだったのです。

 

■粉砕の本丸は「明治百年」

道歴教協の教師たちは最初から「開拓」そのものに対して否定的だったのでしょうか? 実はそうではありません。一般開拓農民、小作農民など「労働者階級」の開拓には好意的でした。
 
そもそも道歴教協の教師たちが「北海道百年」に警戒感を抱くようになったのは、昭和41(1966)年3月に、当時の佐藤栄作内閣が昭和43(1968)年に国家行事として「明治百年祭」を行うことを表明しことがきっかけです。
 
道歴教協は「北海道百年」よりも、この「明治百年」に強い反発を示しました。背景となるのは「建国記念日」──。
 
現在「建国記念日」は戦前の「紀元節」と同じ日にちで行われています。「紀元節」は戦後すぐにGHQによって廃止されました。サンフランシスコ講和条約によって占領が解けると復活運動が起こり、保守系の政党が国会に法案を提出するものの、野党はこれに強く反対、審議未了で廃案となることが繰り返されました。
 
昭和36(1961)年は、サンフランシスコ講和条約によって日本の独立が回復してから10年にあたる節目の年です。佐藤栄作首相は、何としてもこの年に「建国記念日」を制定したいと強い決意をもって臨みました。
 
こうして昭和35(1960)年の後半から36年にかけて「建国記念日」が政局の最大テーマとなったのです。
 
昭和41(1966)年3月、佐藤首相は2年後の昭和43(1968)年に国家行事として「明治百年祭」を行うことを宣言します。首相としては明治維新から百年経ったことを国民に意識してもらうことで、建国記念日制定につなげたいという思いがあったのでしょう。
 
そして6月、佐藤首相は一計を案じて、日本の国が成立した事実を記念する「建国記念の日」を設ける法改正案を提出し、その日にちは政令によるものとしました。「建国記念日」ではなく「建国記念の日」としたところがポイントです。
 
建国を祝う記念日は世界のどの国にもありますから、野党も正面から反対できず、法案は成立しました。聖徳太子が憲法17条を制定した日など、さまざまな提案があったそうです。
 
いずれにせよ、この法改正により国会議決を要しない政令によって「建国記念の日」を決めることができるようになりました。労働組合を中心に「紀元節復活反対」の運動は高まりましたが、同年12月「建国記念日審議会」は「2月11日が相応しい」と答申。そのまま現在の2月11日が「建国記念日」となりました。
 

■「北海道百年」は「明治百年」の地方版

この政局をことのほか強い関心を持って見つめていたのが、歴教協の教師たちです。
 
少しでも「戦前」の匂いのするものに敏感な彼らにとって、神武天皇即位日に由来し、占領軍の命令で廃止された「紀元節」と同じ日に行われる「建国記念の日」は、焼きごてで心臓を貫かれるようなものです。
 
ましてこの年の7月には、教育課程審議会が「神話」の復活を盛り込んだ「小学校教育課程の改善案」を答申したから大変です。
 
教師たちは何度も集会を開き、ストライキを打って、反対をアピールしました。しかし、教師たちの願いも叶わず、建国記念日は紀元節の日に行われることになりました。
 
「神話」の復活も決まり、残されたのは「明治百年祭」のみ。これを許せば、明治維新を出発点として転げるように破局に向かった戦前の日本をもう一度繰り返すことになる──頑な歴教協の教師たちにそれ以外の未来が見えようはずはありません。教師たちの憎しみは「明治百年」に向けられました。
 
幸か不幸か、この昭和41(1966)年3月は、町村金五北海道知事が「北海道百年」の「事業実行方針」を発表した月です。記念式典、開拓記念館、記念塔、博覧会……と昭和43(1968)年の「北海道百年」の具体内容が初めて道民に示されました。
 
町村知事の発表が道歴協の教師たちを刺激しないわけがありません。
 
開拓地である北海道は、周年ごとに開拓の成果を披露確認するために大規模な記念事業を行ってきました。「北海道百年」は大正7(1918)年の「開道50年」の延長にあり、その50年後の昭和43(1968)年、「明治百年祭」のあるなしにかかわらず、同規模同内容で「北海道百年」は行われたでしょう。
 
しかし、北海道百年は明治百年祭の地方版である──教師たちにはそう見てしまったのです。
 
決戦の年の昭和43(1968)年1月、道歴教協の教師たちは「第13回会員総会・合宿研究会」を開いて、この年の活動方針を決めました。そこにはこんな文言がありました。
 
昨年の「紀元節」復活を受けて、政府は今年を「明治百年祭」(そして本道では「北海道百年」)の年とし、帝国主義、軍国主義の復活への一大思想攻撃をかけてきている。
 
とりくみの第一は「明治百年」が帝国主義復活のための〝国民精神総動員〟を狙うものであり、「北海道百年」が「明治百年」の地方版であってその補強の役割を果たすことを暴露することである。[1]
 
もし、この年に政府が「明治百年祭」を行わなければ、彼らも親の仇のような敵意を「北海道百年」に向けなかったでしょう。ひいては今「北海道百年記念塔」を解体撤去するという予算は通っていなかったにちがいありません。
 

■「明治百年」を吹き飛ばした「北海道百年」

昭和43(1968)年、はじめは「明治百年祭粉砕」を目標していた教師たちは、時計の針が進むにつれ、「明治百年」以上に「北海道百年」粉砕を叫ぶようになります。
 

 

明治百年記念式典(出典①)

 

政府の「明治百年祭」は、10月23日に日本武道館で行われた記念式典を中心に、「国立歴史博物館」の建設、「明治の森」の造成など、それなりの規模で行われましたが、「北海道百年」のスケールと熱狂はそれを遙かに上回るものでした。
 
この時代を知る道民で「明治百年」を覚えている人はおそらくいないでしょう。「北海道百年」のスケールが「明治百年」を吹き飛ばしてしまったのは、道民も道歴教協の教師たちも同じでした。
 
記念の年に入ると「北海道百年」に関わるさまざまな通知、案内、呼びかけ、要請が道歴教協の教師たちが教壇に立つ教室にも届き、彼らをイラつかせました。
 
昭和43(1968)年3月号の道歴教協の機関紙『北海道歴史教室』は「『北海道百年」関係資料」というページを設けています。
 
「北海道百年」記念事業に関する資料はかなりのものが出されていて各学校にも届けられていると考えられる。わたしたちにはこの種のものを軽視するよくない傾向があるが、これでは「明治百年」地方版としての「北海道百年」の意図をつかみ、これを粉砕していく上に大きな支障が起るだろう。その意味でできるだけ関係資料の要点を紹介していくことを続けたい。[2]
 
「北海道百年」関連のさまざまな発行物に批判を加える企画です。例えば北海道が発行した開拓功労者の伝記集『開拓につくした人びと』については
 
とりあげられた二十三人の人物は、一人の例外もなく独占資本家か、大地主、網元である。ここに『開拓につくした人びと』シリーズの性格が典型的に出ているといってよいだろう。しいたげられ、収奪され、搾取された人びとは捨てさられ、功成り名遂げた者のみが登場してくるのである。
 
また内容の面でも、伝記にありがちな痛弊(否定面は書かない。主観的な評価をしてその人物をもちあげる)が全巻をつらぬいているといってよい。[2]
 
という具合です。
 
会員教師が「北海道百年」に取り込まれることを防ぐ狙いと思われます。この企画は4号連続で続けられました。1959年の50号から2006年の185号まで「北海道歴史教室」を見ましたが、こんな企画は後にも先にもこれだけです。
 

■「北海道百年」に対する教師の反撃

次の現場レポートは「北海道百年」に同僚が取り込まれていく危機感を示したものです。
 
天皇奉迎とか「百年」スポーツ大会が各地でおこなわれ、さまざまな形の協力が動員されている。この百年問題をとらえて、協力拒否、百年の本質論争が各地でとりくまれている。しかし、「軍国主義ということはわかるが、旅費をくれる大会に楽しみ参加して何が悪いのか」という仲間も多い。
 
われわれは百年問題をただ参加しない、参加させないだけにとどめるのでなく、子どもをこの現実の日本の課題をあり方をしっかりととらえさせるのが任務であろう。[4]
 
教師たちがいくら「北海道百年は国民精神総動員の再来だ」と叫んでも、道民はいっこうに聞く耳を持ちません。そこで教師たちは考えました。
 
わたしたちは「明治百年」の地方版として進められている「北海道百年」にきびしい批判をもっている。いまつくりだされている「北海道百年」ブームを、政治的意図と操作ぬきに考えることはできない。
 
だがしかし、たんに反対し、批判するだけでこれを粉砕することはできないのではないか、批判も創造をともなってこそ真の批判になり得る、だから、北海道の大地に生きぬいてきたはたらく道民の百年の歴史を明らかにすることを通してこそ「北海道百年」の悪質なたくらみを具体的に粉砕することもできるのだ、とわたしたちは考えた。[5]
 
こうして道歴教協は、真実の歴史を明らかにすべく、機関紙「北海道歴史教室」を5月(90号)、7月(91号)と連続発行し、その中で「人民の北海道百年」という大特集を打ちました。なかでも90号は、A5版81ページという創刊以来の増大ページ。それを2500部という「道歴協運動史上最大の部数を発行」しました。
 
この2号わたる特集「人民の北海道百年」に加筆修正がおこなわれてつくられたのが『はたらくものの北海道百年』なのです。
 

■反対集会は全道4箇所で220人

さて、道歴協はまさに組織の総力を挙げて「北海道百年反対」を呼びかけました。その叫びに道民はどう応えたのでしょうか? 「北海道百年」に対する反対運動はどのようなものだったのでしょうか? 『北海道歴史教室92号』1968/10では各地の反対運動の模様を特集しています。
 
●官製『北海道百年』反対労働者・市民集会(札幌)
北海道憲法会議は九月一日、札幌市自治会館ホールで「官製〝北海道百年〟反対労働者市民集会」を開いた。集会には労働者、市民百二十人があつまり、北海道キリスト者平和の会橋本左内氏、北大助教授田中彰氏(歴教協会員)が講演を行った。[6]
 
●日中友好交流座談会(帯広)
日中友好協会帯広支部では、九月二日、帯広市で「日中友好交流座談会」を開いた。この会は「北海道百年」が一見はなやかなムードのうちに道民に軍国主義思想をうえつけるものであることをみぬき、正しい北海道の歴史を知って日中不再戦運動の意義を理解しようとするもので、あらかじめ会員が調査してきた、十勝における中国人や朝鮮人の強制連行の事実を確かめあい、討論をおこなった。[6]
 
●ただひたすらに生きてきた庶民の百年を考える集会(北見)
九月十西日午後、北見市で「ただひたすらに生きてきた庶民の百年を考える集会」が開かれた。これは、北教組北見市支部、高教組北見支部、北見民教、北見民主教肯が共催したもので六十人をこえる参加者あった。[6]
 
●「明治百年」「北海道百年」に反対する集会(室蘭)
九月二日午後六時から、室蘭市東町支所において「明治百年」「北海道百年」に反対する集会が開かれた。主催は北教組室蘭支部、高教組室蘭支部、歴教協室蘭サークル、四十人の労働者・市民が参加した。[6]
 
こうした文書では、多少数字を膨らませても賛同者が多いことをアピールしたくなるものですが、全道3会場の入場者合計は220人。帯広の「日中友好交流座談会」は人数が書かれていませんが、多数の参加者を集めたようには思えません。(そもそも帯広のは「北海道百年」の反対集会なのでしょうか?)
 

■「無視」された恨み

道歴教協の他にどのような団体が「北海道百年」に反対したのでしょうか?
 
北教組も加わる道内労働組合の連合組織「北海道労働組合協議会(全道労協)」の『全道労協運動史』(1989)を見ても、労働組合の「北海道百年反対」は見いだせません。それどころか
 
北海道開拓100年を記念して、厳しい風雪と闘いながら北海道開拓の礎を築いた数え切れない人々を讃え、これを記念すると共に、新しい未来への展望を象徴する造形的記念碑の健立を図るために「風雪の群像をつくる道民の会」が結成され、全道労協は副会長に星野議長をおくり社会党道本部と協力しながら、傘下組織を通して各市町村の人口に1人当たり、1円を乗した大衆カンパ活動を実施して積極的に協力の結果、翌四五年五月、旭川市常盤公園に〝風雪の群像〟が建立された。[7]
 

昭和47年9月、風雪の群像を視察するソ連訪問団(出典②)

 
と、「北海道100年」に協賛するため組織を挙げて「風雪の群像」を建てたというのです。この「風雪の群像」は後にアイヌ差別の象徴として大きな問題になりますが、建てたのは全道労協と傘下の組合であったことを覚えておいて下さい。
 
「北海道百年」は道歴教協の教師たちとって初めて経験する「疎外感」だったのではないかと思われます。
 
これ以前のさまざまな反対運動で、彼らは何度も敗北しますが、まわりには市民団体、労働組合の〝仲間〟がいました。しかし、私が見るところこの「北海道百年」に面と向かって反対の声を上げたのは道歴協の教師とその仲間の一部だけのようです。
 
「北海道百年」から5年後の道歴協の20年史『民族の課題にこたえる─社会科教育の創造・道歴協の20年』は、「開道百年反対運動」を振り返るページの中で「北海道百年祝典」をこんなかたちで紹介してします。
 
そして九月二日『北海道百年記念祝典』が、天皇・皇后出席の下に札幌市で挙行された。この日、朝日新聞は6頁をつぶす『北海道百年特集』を、北海道新聞もまた5頁をつぶした『開道百年特集』をやった。
 
その後「ようこそ天皇・皇后両陛下」「厳粛に北海道百年記念祝典」「風雪百年のあゆ承」「のびゆく北海道」を内容とした『グラフ北海道百年』が、北海道新聞社より刊行された。これもまた道が意図した方向で忠実に報道され、人民の立場に立った科学的な北海道百年の歴史は無視されている。
 
「百年、百年とさわいだのはお役所だけで、そこには真にこれまで北海道を開拓し、骨と血と汗で今日の北海道を築き上げた民衆のと歴史は忘れられていた」(田中彰)。この観点が一貫してつらぬかれていたのである。[8]
 
ことさら新聞報道にこだわった、この文章に、仲間と信じていたマスコミに裏切られた寂しさ、「北海道百年」から疎外された悔しさが見え隠れします。
 
道歴教協の教師たちは、おそらく研究熱心で真面目な先生が多いのでしょう。普段から「先生」と呼び合い、子どもたちに〝正しさ〟を教えることを職業としてる彼らです。昭和60(1985)年代の左翼運動が最も盛り上がった時代のなかで、「批判」「反感」という反応には慣れていたとしても、「無視」という反応にいたくプライドを傷つけられたのではないでしょうか。
 
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い──。この年を境に「北海道百年」で味わった屈辱感を怨念に変えて、教師たちは北海道開拓そのものに矛先を向けるのです。
 
 

 


【引用出典】
[1]北海道歴教協・1968年活動方針『北海道歴史教室89号』1968/3・道歴協・24p
[2]同上15p
[4]石川浩「第3分科会報告 近代史─「明治百年」「北海道百年」と人民の百年史・『北海道歴史教室92号』1968/10・道歴協・16p
[5]北海道歴教協編『はたらくものの北海道百年史』1968・288p
[6]「『北海道百年』に反対して各地で集会」・『北海道歴史教室92号』1968/10・道歴協・27p
[7]全道労協運動史編集委員会編『全道労協運動史』1989・全北海道労働組合協議会・848p
[8]『民族の課題にこたえる 社会科教育の創造を目指して─道歴協の20年』1973・北海道歴史教育者協議会
 
【写真出典】
①「明治150年」公式サイト > 主な取組 > 「明治100年」の際の取組 
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/portal/torikumi-meiji100.html
②旭川市図書館・北方資料デジタルライブラリー 
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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