第2章 歴史教師たち アイヌに肉薄する ②
転機となった道歴教協第14回白糠大会
巧妙に姿を隠しているのでアイヌ問題に詳しい識者でも存在が知られてしませんが、道歴教協がアイヌ問題に関わらなければ、アイヌ先住民族国会決議もアイヌ新法も生まれなかったでしょう。この歴史教師の集まりはどのようにアイヌ問題と出会ったのでしょうか。その原点も「北海道百年」にありました。
■副読本に道歴教協の影
前回、北海道の副読本『アイヌ民族:歴史と文化』と道歴教協『はたらくものの北海道百年史』の一貫性を指摘しましたが、この副読本は平成20(2008)年に高橋はるみ知事の指示によってかなり急いでつくられました。
同書の9人の編集委員のうち5人が小学校から大学までの元職、現職の教員。前白老町教育委員会教育長の古俣博之氏も長く中学校で教鞭[1]を執っていますから、6人が教員経験者です。
副読本の記述は、対象となる児童生徒の学力、社会科、国語本科カリキュラムとの整合性など、高い教育的配慮が要求されるため、現場の教師が執筆することがほとんどです。高橋知事がアイヌをテーマにした副読本の配布を急に思い立ったとき、アイヌ民族文化財団が相談した教育関係者が道歴教協に深い関わりをもつ者だったのでしょう。
『はたらくものの北海道百年史』が作られたのは昭和43(1968)年、副読本『アイヌ民族:歴史と文化』は平成20(2008)年、40年の開きがあります。執筆当時に道歴教協が理想郷として崇めていたソ連は崩壊し、ベルリンの壁は倒壊。〝理想郷〟の実態が明らかになりましたが、道歴教協の教師たちは、40年前に自らが著した『はたらくものの北海道百年史』について、何一つ疑うことなく聖書や仏経典のように今日まで引き継いできたのでした。
■アイヌ問題=部落問題
この道歴教協ですが、昭和28(1953)年の発足からアイヌ問題に取り組んでいたのではありません。同会がアイヌ問題を初めて組織的に取り上げたのは、昭和42(1967)年の第14回全道研究集会[2]。このとき「地域文化会」(第7分科会)で日高支部が「アイヌ問題について」という報告を行ったのが最初です。
道歴教協の「20年史」は
「全国歴教協は結成以来、未解放部落の問題を一貫して追求してきているが、その中で道歴教協はなぜアイヌ問題をとりあげないのかということが常に問われた」[3]
と述べています。この時代、アイヌ問題は部落問題と同列に考えられていました。高い組織力で全国歴教協の中でも存在感を放っていた道歴教協が、どうしたことかアイヌ問題から背を向けていたことは強い負い目でもあったようです。
なぜアイヌ問題から目をそらしていたのか──その理由を「20年史」は「原因の第一は、わたしたちの北海道史認識の弱さ、浅さである」[3]としています。昭和40(1965)年から42年にかけて道歴教協は共産党の影響下の団体なりますが、このことによって〝歴史認識の弱さ〟が克服され、アイヌ問題について向きあうことが可能になったと「20年史」は言いたいのでしょう。
そして「会員の大部分がアイヌ問題を自分たちの問題との関連でとらえることができずにいた」[3]と言っています。
道歴教協機関紙『北海道歴史教室 88号』(1968/1)に「第7分科会」の概要が載っていますが、「官製のアイヌ解放運動」「アイヌ解放運動の視点」「アイヌ解放運動の統一」と今ではほとんど見ることの無い「アイヌ解放運動」という言葉が盛んに使われています。この時の議論は、独自性を打ち出せないまま部落解放運動の理論をアイヌに置き換えただけだったようです。
■資本主義が倒れればアイヌ問題は解決されるのか
『歴史教室87号』(1967/7)には、この「第7分科会」に参加した向井豊昭の報告が掲載されています。
日本の商業資本が蝦夷地に進出してから、かれこれ300年は経過する。気の遠くなるほど長い年月にわたって、アイヌは執拗に、民族性を去勢されてきた。そして彼等は今、アイヌであることに嫌悪し、全き同化を願っている。
「いや、それは正しくない。民族としての誇りを持て」と言ったところで、それは外側からのかけ声である。
難しい。実に難しい。
しかし今、さしあたってどうしてもやらなければならぬ事は、アイヌの歴史を、きちんと指導していくことだろう。タコ部屋、友子、樺戸監獄、開拓農民─そういう北海道史との相関性の中で、アイヌ問題が、道民の問題であることを浮き彫りにせねばならない。
向井はこう述べた後に次のように本音を漏らしています。
ところで、今、ぼくは一つの疑問を持っている。資本主義社会がぶっ倒れたときに、アイヌ問題は解消されるのだろうか?
アイヌの中にある階層分化。アイヌ間の差別──そして富む者をも、富まざるものをもひっくるめた、アイヌそのものへの差別──こういう複雑な差別の意図を、どう解きほぐせばいいのだろう。解きほぐした時、その意図を操るものは、すべて資本主義ということにやはりなるのだろうか。
このように向井豊昭の報告には、資本家階級と労働者階級の階級闘争という共産主義思想の中にアイヌ民族をはめ込むことのできないもどかしさ、とまどいが素直に語られていました。[4]
■歴教協教師を勇気づけた新聞投稿
次の契機は昭和43(1968)年の「北海道百年」です。
保守反動の総領である町村金五北海道知事が主導する「北海道百年」は、彼等にとっては戦前の国民精神総動員運動の再来であり、10・21スト参加者に厳しい処分を下した恨み骨髄の怨敵に手痛い打撃を与えるためにも、何としても粉砕しなければならないものでした。強大な敵との〝歴史戦〟を戦い抜くために、たとえ生煮えであったとしてもアイヌ問題は貴重な手駒だったのです。
昭和43(1968)年は年明けから北海道は「北海道百年」ムード一色に染まり、断固粉砕を叫ぶ道歴教協教師は孤立を深めていきます。5月13日、敗走を続けていた教師たちを強く勇気づける一通の投稿が新聞に掲載されました。
多くの困難を乗り越えて今日の北海道の繁栄の基礎を築いた人たちの努力には敬意を表わします。また北海道百年を機会に先人の労苦をしのぶことはけっこうなことと思います。
しかし北海道百年を記念して建設する百年塔のその土台の下の北海道の土には、われわれアイヌ人の流した悲しい血がしみわたっていることも忘れないでほしいのです。[5]
弟子屈の20歳のアイヌ女性が北海道新聞に投稿した「読者の声」。それは、四方を敵に囲まれ教師たちに向け垂らされた一本の蜘蛛の糸でした。
■転機となった白糠研究集会
昭和43(1968)年7月、道歴教協の「第15回全道研究集会」が白糠町で開かれます。「北海道百年」の最中に開かれたこの大会は、道歴教協の歴史の中でも極めて重要な意義を持つ大会となりました。
昭和41(1966)年の「10・21スト」が強い社会的な批判を浴びたことを受けて、道歴教協は広がりを地域に求めますが、釧路歴教協は年明け早々から農民組合、民青(日本民主主義同盟)、新婦人(新日本婦人の会)など共産党系の団体を総動員して実行委員会を組織し、前哨戦として2月に「第1回白糠労農大学」を開催しました。この白糠集会は教員以外の参加を認めた最初の大会となったのです。
7月31日に白糠小学校で開かれた大会には350名が参加。うち教師以外の農民、父母は7~80名に及んだといいます。大会は代表的な共産党系の歴史学者・犬丸義一による「『明治百年祭』と日本人民の近代百年」と題した講演から始まりました。
労働者階級の団結を強化し、人民の統一を発展させることができたならば、日本の軍国主義化の方向を阻止し、新しい平和と独立と生活向上をはかるたたかいが成功するということを、歴史の発展法則が示している。[6]
と犬丸は発言して参加者を鼓舞しました。
■第3代会長・井上司の台頭
続いて副会長の井上司が登壇し、基調報告を行い、「『明治百年』『北海道百年』『国防教育』のなかで、人民の歴史をほりおこし、現在の国民のあらゆる階層の人々の苦しみを環につなぐ運動で、この『百年祭』と対決しよう」と呼びかけました。
この井上司は『はたらくものの北海道百年史』の執筆者の一人です。
井上は昭和元(1926)年に秋田県仙北郡に生まれ、昭和26(1951)年に北大経済学部を卒業、札幌東高の教師を務めました。昭和33(1958)年の全国歴教協第11回集会で「日清・日露戦争、条約改正を通じて日本の国際的地位が向上した」と主張する尾鍋照彦(お茶水女大教授、文部省指導要領作成委員、歴教協会員)と論争を繰り広げたことで一躍有名になります[7]。また昭和41(1966)年には明治図書の『現代の高校教育13』に論文が掲載されています[8]。道歴教協きっての論客でした。
共産党が道歴教協に影響力を強める過程で、小樽商科大学の浜林正夫が会をリードしますが、1967年に浜林が東京教育大学に転出すると、浜林に成り代わって副会長となり、道歴教協をリードしていったのが井上司でした。
井上司は『北海道歴史教室 100号』(1970/10)のなかで、
社会発展の原動力は、生産力の発展であり、これは生産者を中心とする人民の自然との闘い─生産闘争でかちとられてきたものです。だが決してこれだけで労働に目を奪われてはなりません。生産力の発展に不可欠な用具を含む生産手段が、非性生産的な支配階級に独占され、生産手段を有じない直接生産者(奴隷・農奴・労働者)がその支配の下で、血と汗の階級闘争をくりかえすことと固く結びついています。[9]
と述べています。どういう思想の持ち主であるのか、瞭然でしょう。
白糠大会は、井上司が基調報告を行ったことで道歴教協の次のリーダーであることを鮮明にした大会としても転機でした。
なお元北大教育学部長の鈴木朝英に代わって、井上司が正式に同会第3代会長に就任するのは1977年の第22回道歴教協会員総会です。この総会で山下国幸、そして本連載の主人公・小池喜孝、さらに『コタンに生きる』の著者で、後の釧路アイヌ文化懇話会の会長・松本成美が副会長に就任しました。[10]
松本成美は長く白糠中学校の教員を務めていました。決戦の年昭和43(1968)年の重要な大会が白糠で開かれたのもの、松本成美の存在があったからでしょう。
松本成美がそうだったように、80年代90年代に道歴教協の指導者はこぞってアイヌ支援者運動のリーダーに転身するのですが、井上司も1981年に『教育の中のアイヌ民族』(あゆみ書房)を執筆編纂し、アイヌ教育の専門家なります。この本は、北海道のアイヌ教育、副読本「アイヌ民族:歴史と文化」の基盤ともなっていますので、いずれ詳しく紹介します。
■アイヌ問題を正面に
道歴教協白糠大会は、二人の講演の後、7つの分科会に別れた討論に移りました。アイヌ問題はこの中の第7分科会「民主主義と生活の破壊──アイヌへの差別、農漁村、炭鉱への生活破壊」で活発に議論されました。道歴教協機関紙「北海道歴史教室 第91号」(1968/7)掲載の大会報告によって、どのような議論が展開されたか見ましょう。
まず、十勝支部の飛岡久が基調報告として
特にこの分科会ではアイヌの問題を正面にすえて取りあげたい。つまり労農提携の中で、アイヌの問題を歴史発展の中でも、また現実の生活破壊の中でもとらえていきたい。[11]
と発言。続いて釧路支部の館忠良が
「明治百年」「北海道百年」が叫ばれているが、そこには多大の血税がつぎこまれ、何を基準として祝おうとしているか問題である。「輝やかしい百年」の影にその犠牲としての「アイヌ問題」「未解放部落の問題」「基地問題」等があり、特たアイヌ問題を深く調べていくとき、「明治百年」「開道百年」の矛盾に対して目かくしの状態ですごすことはできない。わたしたちはアイヌの人々が、いかに虐げられてきたか、その歴史的事実を知ることが必要である。[11]
と述べて、「未解放部落の問題」によって「明治百年」に対抗していく全国歴教協に対応して、北海道は「アイヌ問題」によって「北海道百年」に対抗していく立場を明らかにしました。
さらに日高支部の瀬川博が登壇し、
本年は第一にアイヌに対する差別の実態を明らかにすること。第二に開道百年ということで、先住民であるアイヌの生活を破壊してきた為政者の友人民的な歴史に対する人民の立場から北海道史のとりあげ方、さらたは日本の中たどう位置付けるか。第三にはアイヌ問題は生活を守るたたかいの中でとらえていかなければならないが、そのための解放運動の展望たついて。[11]
と論点整理を行いました。
これらの発言からも、5月13日の『アイヌを忘れないで北海道百年におもう』というアイヌ女性投稿の影響の大きさが見てとれます。
■方向性を決定したアイヌのおばさん
3人の基調報告を受けて全体討議に移ったとき、戦後のアイヌ民族支援運動のなかで最重要な出来事が起こります。全日自労に所属する「アイヌのおばさん」が起ち上がり、道歴教協の取り組みの方向性を決定づけるのです。
「道歴教協30年史」は
アイヌ系婦人のが「地域」の分科会で、「アイヌ問題の解決のための階級的観点」の方向を示したのも特徴的であった。こうして白糠集会は組織・研究の面で道歴教協の新しい方向を開く集会となった。[12]
とこの発言の重要性をとりあげています。
これほど重要な発言を行った「アイヌのおばさん」について、いろいろ調べましたが、未だ名前が出てきません。『北海道歴史教室』に習って「アイヌのおばさん」で失礼します。一体どのような発言だったのでしょうか。「北海道歴史教室 91号」(1968/7)はこう報告しています。
討議は、過去の歴史の中で、また現実の生活の中で、偏見、差別、貧困等が起こっているが、いったいこれをどう考えたらよいのかという点に集中した。
全日自労のおばさん<アイヌ人>は「私たちは」差別の問題以前に〝明日をどう生きるか〟という切実な生活上の問題がある。〝生活のためた手をつなぐことが先ず大事でなですか〟と発言した。
かれらの貧困は、日本独占資本、絶対主義皇制、地主制の収奪搾取忙よってもたらされたものであり、「明治百年」「北海道百年」はそのことの美化にほかならない。これ対し、アイヌ問題の解決の展望は労慟者、燐民のたたかいの連帯のなかでのみ発見することができる。
アイヌのおばさんはいった。
「私たち全日自労に組織されている人たちには差別などないのです。それは生きるためにぢ互いが助けあっているからです。私たちアイヌの問題を階級的観点でとらえていくことがアイヌを解放していく道です」と。[11]
■アイヌ問題を階級的視点で捉える
この「アイヌのおばさん」の発言は、大変なインパクトを道歴教協の教師に与えました。
道歴教協は共産主義思想に基づき、革命こそ国民の大多数を占める労働者階級を解放する道だと信じる団体ですが、この発言を聞くまで全国歴教協に習って被差別部落の中にアイヌを位置付けて運動を進めていました。しかし、被差別部落とアイヌの違いは明らかで、はたして同列に扱ってよいのか、教師にも自信が無かったのです。
そうしたなかで、アイヌから「階級的観点でとらえていくことがアイヌを解放していく道」という発言があったことで、〝アイヌの問題も革命によって解決するんだ〟と安心を得ることができのでした。
共産主義革命によってすべての問題は解決する──と考える彼等にとってこの提起は大きなものでした。この発言に自信を得て道歴教協はアイヌ解放運動の活動の中心に据えて強力に進めます。その影響力は副読本「アイヌ民族:歴史と文化」に見られるように、今もアイヌ行政に強く残っています。
道歴教協は存在を巧みに隠していること、2000年代に急速に組織としての力が衰えたことから、アイヌ問題に詳しい識者でも関わりを知る者は少ないのですが、もし彼等の存在がなければ、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」も、昨年の「アイヌ新法」もなかったことは確かです。
そうした意味では、戦後のアイヌ民族復興の原点を求めると昭和43(1968)年の新聞投書と白糠での「アイヌのおばさん」ということができるかもしれません。ウポポイの「国立アイヌ民族博物館」はまだ見ていませんが、今日のアイヌ民族復興の最大の立役者として展示のなかで顕彰されていることを期待します。
【引用参照文献】
[1]北海道新聞朝刊地方版・2003/05/09
[2]道歴教協『地域に根ざす社会科教育を目指して─北海道歴教協の30年─』1987・18p
[3]道歴教協『民族の課題にこたえる歴史教育の創造を目指して─道歴教協の20年─』1973・29p
[4]向井豊昭「第7分科会(その2)」『北海道歴史教室 NO87』1967/7・道歴教協・3p
[5]北海道新聞朝刊/1968/5/13
[6]犬丸義一「講演主旨」」『北海道歴史教室 NO92』1968/10・道歴教協・2p
[7]道歴教協『民族の課題にこたえる歴史教育の創造を目指して─道歴教協の20年─』1973・16p
[8]同上32p
[9]井上司「成果に学び更に発展を」『北海道歴史教室 NO100』1970/10・道歴教協・2p
[10]道歴教協『地域に根ざす社会科教育を目指して─北海道歴教協の30年─』1987・149p
[11]飛岡久「第7分科会報告」『北海道歴史教室 NO91』1968/7・道歴教協・31-34p
[12]道歴教協『地域に根ざす社会科教育を目指して─北海道歴教協の30年─』1987・22p