北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

第2章 歴史教師たち アイヌに肉薄する ①

決戦の1968年、教師たちはアイヌを〝発見〟する

 

昭和41(1966)年に「10・21スト」で、初めて授業を放り投げるストライキを決行した歴史教師たち。当然のこととして、地域から激しい非難と強い処分を受けます。自分たちの活動を正当化すべく始めたのが「人民の歴史のほりおこし運動」でした。この中からアイヌが歴史教師たちに〝発見〟され、北海道百年記念塔は教師たちの攻撃の象徴となっていきます。

 

■ストを正当化する「人民の歴史のほりおこし運動」

北海道開拓排斥の原点として昭和43(1968)年に発行された『はたらくものの北海道百年史』と、これを書いた北海道歴史教育者協議会=道歴教協という集団について見てきました。
 
佐藤内閣が打ち出した「建国記念日」の制定に反発した歴教協が、関連行事として「明治百年祭粉砕」を打ち出し、北海道では明治百年の地方版として北海道百年に反対の声を上げたという経緯でした。
 
その背景にはソ連の核実験をめぐって起こった総評・社会党と共産党の対立がありました。社会党の離反を受けて、共産党は教育界での勢力を確保しようと道歴教協への働きかけを強め、やがて完全に影響下に置きます。そして社会党・総評が北海道百年に協賛の姿勢を示すと、対抗措置として道歴教協は批判姿勢を鮮明にしました。
 
加えて昭和41(1966)年に「10・21スト」という大規模な教員のストライキが起こります。教師が授業を投げ出した初めてのストライキでした。当然のこと、これに参加した教師たちには厳しい処分が加えられますが、激しい逆恨みが町村知事に向かい、知事が主導した北海道百年を何としても粉砕してやろうという怨念が燃え上がります。
 
一方、子どもたちを放り投げた「10・21スト」に対して、地域から激しい非難が寄せられます。道歴教協は地域対策を行う必要性を痛感し、地域の歴史から人民労働者の立場に立って資本家階級と戦う自分たちの正当性をアピールする工作を「人民の歴史のほりおこし運動」として始めました。
 
こうした経緯から生まれたのが『はたらくものの北海道百年史』です。
 

■北海道は日本帝国主義の内植民地

同書は北海道百年を粉砕するための思想爆弾であるとともに、教師たちの組合活動、社会活動を正当化する弁明書もありました。『はたらくものの北海道百年史』で「10・21スト」はこう語られています。
 
支配階級のイデオロギー攻撃は、教育の中にもっとも系統的につらぬかれる。軍国主義・帝国主義の復活のなかで、北海道の教育労働者のたたかいも、きびしくなった。(中略)
 
軍国主義教育の強化の中で、教育条件と生活をおびやかされた教師の怒りは一九六六年、一○・二一闘争として燃え上がった。それはまた、アメリカのベトナム侵略反対の政治課題と結合した。「闘わざる北教組」は結成以来はじめての午後授業カットの実力行使をうった。[1]
 
支配階級の攻撃は教育現場にもっとも強く表れるからこそ、教育動労者たる教師は先頭に立って戦ったのである──という言い分です。自分たちの行動を正当化するため〝支配階級の攻撃〟をグロテスクに描く必要がありました。
 
そうした中で、開拓は日本帝国主義の北海道の「内植民地化」という北海道開拓を攻撃する理論が作られていきました。
 

■道歴教協はアイヌをどう描いたか

さて、『はたらくものの北海道百年史』の目次をもう一度見てください。北海道の開拓史を扱った第1章は次のようなものでした。
 
第1章 北海道開拓のいしずえ
Ⅰ 日本資本主義の「内国植民地」
Ⅱ 囚人労働
Ⅲ 屯田兵
Ⅳ タコ部屋=土功部屋
Ⅴ 炭鉱の飯場制度
Ⅵ 人柱の上に 
 
勘の良い方ならば「アイヌがない?」と不思議に思われたでしょう。
 
もちろん、同書でアイヌも取り扱われています。「第1章 北海道開拓のいしずえ・Ⅰ日本資本主義の『内国植民地』」の書き出しはアイヌから始まります。
 
和人がやってくるまで、エゾ地はアイヌ人の天地であった。アイヌ収奪の地と化したエゾ地人は原始的な狩猟をつづけ、原始共同体的な生活をいとなんでいた。
 
一三世紀ごろから和人の移住がはじまり、やがて商業資本も流入すると、〝平和〟であったエゾ地にも大きな変化があらわれた。エゾ地にあらわれた武士団はアイヌ人を収奪し、その反を弾圧し(たとえば一五世紀中ごろのヨシャマィンの乱」)、一七世紀には幕藩体制の一翼となって、エゾ地を日本封建社会のなかに組みいれた。
 
こうして成立した松前封建制の経済の基礎は漁業であった。これに本土からやってきた場所請負商人が寄生した。松前藩と特権商人はアイヌ人を徹底的に収奪した。
 
アイヌ人は漁場の労働力として、あるいは人夫として強制的に狩り出され、その妻や娘を和人にうばわれた。コタンは荒れ、解体された。日本人との交易は徹底的なゴマカシだった。
 
たまりかねたアイヌ人はいたるところで反撃に立ちあがったが、氏族的に分裂し、生産力の低いアイヌ人の抵抗は、和人支配者によって一つ一つふみつぶされていった。一七世紀後半の「シヤクシャインの乱」以後、アイヌ人は大規模な反撃をおこす力をうしなった。
 
こうして一九世紀のはじめには二万六○○○人余りもいたアイヌ人が、明治初期には一万九○○○人弱に減る(やく六○年間で三○%の減)という異常な状態がうまれた。
 
エゾ地の封建制は、このようなアイヌ人収奪と、本土から出かせぎにくる漁夫にたいする搾取と収奪を基礎に〝江差の春〟は江戸にもない豊かさをほこっていた。[2]
 

■開拓は飢えでしかなかった

以上が幕藩時代の記述です。明治ともに北海道開拓が始まると──。
 
土地私有の概念が未成熟であったアイヌ人の土地は〝無主の地〟ということでほとんどが御料地にくりいれられた。(中略)
 
天皇制政府はこうしてアイヌ人の土地をうばった。アイヌ人は昔から鹿をとり鮭をとっていた土地を追われ、川で鮭をとると「密漁」とされ、山の木を伐ると「盗伐」とされた。
 
さらにぞくぞくとはいりこんできた和人猟師は鹿を濫独した。政府は場所請負制度を廃止し、アイヌ人をそのくびきから解放はしたのだが、かれらの生活の基礎となるものを何もあたえようとはしなかった。
 
これらの結果がアイヌ人に何をもたらしたか……。それは飢えでしかなかった。一八八三年(明理から八四年にかけて十勝地方では十数名のアイヌ人が餓死した。生き残った者も、いったん捨てた鹿の骨を煮てその汁をすすり、鮭や鹿の皮を食い、沼の氷を割って貝を採るという状態におちいった。
 
これにたいして政府のやったことは、少しばかりの土地をアイヌ人にあたえて農業をやらせるということだけであった。
 
アイヌ人は自分たちの士地をとりあげた政府から、おめぐみとして猫の額ほどの土地をなげあたえられた。しかもそのわずかな土地さえも、役人や地主たちによってかってに山奥の不毛の地とすりかえられ、悪徳商人によってだましとられた。[3]
 
と語られていきます。
 
実はこの記述は、驚くべきことに40年を経て(副読本初版の発行は平成20年)今全道の小中学生の配布されている副読本『アイヌ民族:歴史と文化』の記述とほとんど同じなのです。
 

■はたらくものの北海道百年史と副読本

具体的に対比させてみましょう。上段が『アイヌ民族:歴史と文化(小学生版)』34-35pの「6 北海道の『開拓』とアイヌ民族」、下段が『はたらくものの北海道百年史』です。
 


1850年ころ、北海道のほとんどの場所に、アイヌの人たちが住んでいました。しかし、1869年に日本政府は、この島を「北海道」と呼ぶように決め、アイヌの人たちにことわりなく、一方的に日本の一部にしました。そして、アイヌ民族を日本国民だとしたのです。
 
しかし、日本の国はアイヌ民族を「旧土人」と呼び、差別し続けました。
 
日本の国は新しいきまりを作って北海道を「自分の土地」として、使いはじめました。原始林を切り開いて、町や道路、港をつくり、汽車を走らせたのです。これを北海道の「開拓」と言っています。
 
1877年に作った「北海道地券発行条例」で『アイヌの人たちが住むところは、いろいろな事じ情じょうに関係なく、しばらくの間、すべて官有地に入れます。』と決めました。
 
このきまりで、アイヌの人たちは、それまで住んでいた土地も取り上げられたのです。そして、その土地は和人にあたえられていきました。[4]
 

土地私有の概念が未成熟であったアイヌ人の土地は〝無主の地〟ということでほとんどが御料地にくりいれられた。【『はたらくものの北海道百年史』32-33p】

 


また、それまでの、アイヌの人たちの文化や習慣に対して「やってはいけない」「変えなさい」と命令したものがいくつもあります。
 
◆イレズミをしてはいけない
◆耳かざりをしてはいけない
◆川でサケを取ってはいけない
◆和人風の名前に変えなさい
 
そして、狩かりや漁が中心の生活を、農業中心の生活に変えて、日本語を使うようにと言いました。「和人と同じような生活をしなさい」ということです。これを「同化政策」と言います。[5]
 

『アイヌ民族:歴史と現在-未来を共に
生きるために』36p

日本の国が行った北海道「開拓」によって、北海道に和人がどんどん移うつり住むようになりました。鉄道や道路がたくさん作られ、住みやすくなったからです。しかし、和人にとっても原始林を切り開き、道路を作る仕事はたいへんなものでした。そこで、空知や樺戸や釧路にあった刑務所にいる囚人たちを働かせることもありました。
 
和人の人口が増えると、アイヌの人たちの生活が苦しくなりました。それまで、アイヌの人たちはサケやシカを食料としていましたが、そのサケ漁が禁止され、シカ猟もやりにくくなったからです。
 

天皇制政府はこうしてアイヌ人の土地をうばった。アイヌ人は昔から鹿をとり鮭をとっていた土地を追われ、川で鮭をとると「密漁」とされ、山の木を伐ると「盗伐」とされた。【『はたらくものの北海道百年史』32-33p】

 


さらにぞくぞくとはいりこんできた和人猟師は鹿を濫独した。政府は場所請負制度を廃止し、アイヌ人をそのくびきから解放はしたのだが、かれらの生活の基礎となるものを何もあたえようとはしなかった。
 
1880年ころには、多くの和人のハンターがシカ猟をして、シカをとりすぎたり、大雪でシカが死んでしまったため、シカが急に減へってしまいました。このころには、サケ漁も禁止されていたこともあって、アイヌの人たちは、狩かりや漁の生活では生きていけなくなりました。[6]
 

これらの結果がアイヌ人に何をもたらしたか……。それは飢えでしかなかった。一八八三年から八四年にかけて十勝地方では十数名のアイヌ人が餓死した。生き残った者も、いったん捨てた鹿の骨を煮てその汁をすすり、鮭や鹿の皮を食い、沼の氷を割って貝を採るという状態におちいった。【『はたらくものの北海道百年史』32-33p】 


 

『はたらくものの北海道百年史』33p

そこで政府は、アイヌの人たちを「助けよう」と、「北海道旧土人保護法」を作りました(1899年)。その第1条は、次のようなものです。
 
『北海道のアイヌで、農業をする者には…土地をただであたえる。』
 
アイヌ民族を「助ける」と言っても、ずっと続けてきた狩りや漁が中心の生活から、農業中心の生活に変えさせようというものだったのです。しかし、「ただであたえる」と言った土地が畑に向かないところだったり、急に農業をしようとしても、うまくできなかったため、土地を取り上げられることもありました。[7]
 

これにたいして政府のやったことは、少しばかりの土地をアイヌ人にあたえて農業をやらせるということだけであった。
アイヌ人は自分たちの士地をとりあげた政府から、おめぐみとして猫の額ほどの土地をなげあたえられた。しかもそのわずかな土地さえも、役人や地主たちによってかってに山奥の不毛の地とすりかえられ、悪徳商人によってだましとられた。【『はたらくものの北海道百年史』32-33p】

 


 ご一読のように、序論から結論にいたる文章構成はまったく同一で、取り上げている項目も一緒です。〝似ている〟というレベルを超え、他方は他方の要約であり、他方は他方の詳細になっています。
 
紛れもなく副読本『アイヌ民族:歴史と文化』は『はたらくものの北海道百年史』を継承しています。
 
両者はおよそ40年の開きがありながら、この一致はどういうことでしょうか? しかも片方は共産党の強い影響下にあり、マルクス主義を信奉する、全体から見ればほんの一握りの教師集団が編纂した本であり、片方は公益財団法人アイヌ民族文化財団という交省ならびに道の認可を受けた団体が編纂したものです。
 
たとえそれが共産主義思想であろうとも、言論の自由が認められた日本では研究・発表するのは自由です。しかし、現在の日本社会でおよそコンセンサスの得られない特定の主義思想に基づく歴史が、国や道のアイヌ政策に取り入れられ、学校で無条件で教えられている。
 
あまつさえ、本来ならばそうした思想からもっとも遠いはずの自民党道政によって、道民が共有すべき歴史に位置付けられてしまっている──となれば明らかに問題であると言わなければなりません。
 
なぜそうなったのか? その経緯を解き明かすことがこの連載の目的です。
 

■そして北海道百年記念塔が憎しみの対象に

さて、最後になぜ「北海道百年記念塔」が北海道150年の年に解体撤去が決まったのか。その出発点もこの『はたらくものの北海道百年史』にあることをお話ししましょう。同書267pの「おわりに」をお読みください。
 
わたしたちは、はたらく道民の百年の歴史を追ってきた。そして百年の歴史の歴史の証言もつ意味について考えてきた。
 
おわりにいま一度、歴史の証言を聞いてみようではないか。
 
『……きびしい自然条件の北海道に渡り、多くの困難をのり越えて今日の北海道の繁栄の基礎を築いた人たちの努力には敬意を表わします。また北海道百年を機会に、先人の労苦をしのぶこともけっこうなことと思います。しかし、北海道百年を記念して建設する百年塔のその土台の下の土には、われわれアイヌ人の流した悲しい血がしみわたっていることも忘れないでほしいのです』
 
この若いアイヌ女性の訴えを、わたしたちはどううけとめたらよいのか。
 
支配者の「栄光の百年」は、土地をとられ、魚を奪われ、差別と貧困におとしいれられたアイヌ人にとっては「屈辱の百年」であったのだ。その悲しみに真に共感し、ともに手をとって解放のために立ち上がることのできるものは、いま「記念塔」を建てようとしているものたちではない。[8]
 
それは、われわれ道歴教協である──と言いたいのでしょう。
 
原文は北海道新聞の昭和43(1968)年5月13日号の「読者の声」に寄せられた『アイヌを忘れないで北海道百年におもう』と題した子屈町在住、当時20歳のアイヌ女性の投稿でした。
 
ことしは北海道百年祭が道民の大きな関心事となっているようですが、私はこの行事になかなか興味を持てないのです。なぜならば私はアイヌ人だからです。私たちの祖先は明治以前からいろいろな形で圧迫を受けてきました。
 
そしてこの進歩した今の世の中でさえアイヌの若い男や女が結婚しようとすると何かと障害となるケースは珍しくありません。また同じこの北海道に住み、いっしょに蟇らしていながら、いまなおアイヌ人を低く見る人のいることも事実です。
 
むろんきびしい自然条件の北海道に渡り、多くの困難を乗り越えて今日の北海道の繁栄の基礎を築いた人たちの努力には敬意を表わします。また北海道百年を機会に先人の労苦をしのぶことはけっこうなことと思います。
 
しかし北海道百年を記念して建設する百年塔のその土台の下の北海道の土には、われわれアイヌ人の流した悲しい血がしみわたっていることも忘れないでほしいのです。[9]
 
憎き町村金五、憎き北海道百年を粉砕してやろうと、組織を挙げて『はたらくものの北海道百年史』の編纂を進めていた最中に掲載された「読者の声」に、道歴教協の教師たちは小躍りしたことでしょう。
 
この投稿を書いた弟子屈の女性はたちまち発見され、〝アイヌ詩人〟として80年代のアイヌ復興期に民衆史運動のアイドルとなりました。
 
そして、北海道百年記念塔は、投稿が『はたらくものの北海道百年史』に取り上げられたことで、アイヌ民族差別、開拓排斥の象徴となっていくのです。
 
 

 


【引用参照出典】
[1]北海道歴史教育者協議会編『はたらくものの北海道百年史』1968・労働旬報社・255p
[2]同上30-31p
[3]同上32-33p
[4]アイヌ民族:歴史と現在編集委員会『アイヌ民族:歴史と現在-未来を共に生きるために-<改訂版>』2018・34-35p
[5]同上35p
[6]同上36-37p
[7]北海道歴史教育者協議会編『はたらくものの北海道百年史』1968・労働旬報社・267p
[8]北海道新聞朝刊/1968/5/13

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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