[北竜]吉植 庄一郎 (中)
禁酒・禁煙、拓植会社「培本社」の創設
明治26年、吉植庄一郎率いる千葉団体は北竜に入植しました。そして吉村は現地で独身入植者の互助組織「培本社」を創設します。その運営はその開拓は極めて忠実に二宮尊徳の報徳思想に沿うものでした。
■自助組織「培本社」を設立
明治26年5月、吉植庄一郎率いる千葉団体が雨竜に入植しました。当初26戸とも言われていた入植者は実際には42戸にもなりました。
吉植は、二宮尊徳の報徳思想によってこれらの人々を率いました。『雨竜町史』は次のように伝えています。
吉植は、家族連れの人びとにはつぎつぎと小屋掛けを行なって開拓区域の分担をしたが、独身の青年、壮年たちを中心とし、自分も加わって1つのグループをつくった。
そうすることが開拓を成功させる道であるし、一つの企業体として有機的に活動することが良策と考えたからである。
農は国の大本なり、とは昔からわが国の国是となっていた。すなわち培うことが国本となるのであって、部落も村も培うことによって生まれるのである。国の富も文化も、一切が培うことに発足するのである。
開拓することは国の本を培うことであると彼は考えた。
それには、あらゆるかん難と戦っていく努力としんぼうが必要である。それに堪えられず、へこたれるようでは成功することはできない。まずもって酒と煙草は青年のためによくないし、それを求めることがこんな不便な土地では多くの時間と出費を要するので、それを禁止することが望ましい。
彼は皆にはかって賛成をえた。そして自ら率先垂範することを誓った。
かくて結成されたグループを「培本社」と名づけた。内容は合資会社とし、吉植が資本を出し、その他は労力出資を主として組織をつくった。そして貸し付け地の中50万坪を培本社で開拓することになった。[1]
このような吉植の考えでつくれたのが培本社です。開拓事業に投資し、開墾後の農場収益で配当を得る開墾会社は開拓期の北海道で多くつくられましたが、培本社のように入植後に入植者自身によってつくられた例は珍しいです。町史がいうようにこの培本社は報徳思想の具現化でした。
■最初は寮のような共同生活
同じ『雨竜町史』には千葉団体に12歳で家族の一員として参加した富井直さんの手記が掲載されています。
この町の歴史が、うやむやのうちに消え去ることを心配し、14~5年前から昔の記憶を整理して、ノートに書きとめている。文筆に縁の遠いこの古老が苦心して書き上げたノートは実に貴重なもの[2]
という記録です。富井直さんは昭和42(1967)年にお亡くなりになりました。
当時の状況は、アイヌ人が恵岱別川沿いに丸木舟に乗って魚を漁(あさ)り、又熊狩に来るのを見ることが性をあった。原野は雑草が密生し、樹林地は昼もなお暗い程で、熊の出没することもあったし、春から秋9月にかけては、蚊がたくさん発生して住民の苦しみはひととおりでなかった。
現在の和は,最初千葉県人が団体移住した土地である。明治26(1893)年に入植したのが本村における開拓の先駆である。
開拓の初期は、団体長吉植氏の計画に基づいたもので、道庁より土地貸し下げの許可をえて、団体を織原吉之助氏の農場と培本社の開拓地とに区分し、各事業計画を立てたのである。最初の入植は20戸とか26戸とか言われているが、道庁に提出した貸し下げ願いの戸数は42戸である。
移民の入地は明治26(1893)年5月17日で、最初は寮のような共同生活、草ぶきの粗末な小屋に住んで開墾に従事した。
しかしその中で独身者は個人の経営で開墾事業を完成することは不可能と考えられたので、独身者全部を集めて会社組織とし、培本合資会社と称して事業の進ちょくを期したものである。
もちろん家族持ちの世帯は団体を組織したが、事業は各個人経営で、1戸5ヘクタールずつの貸し下げを受けて開墾に着手した。[3]
培本社は独身入植者たちによる共働事業でした。
今北竜はひまわりのまち(出典①)
■禁酒を義務づける
現地で入植者自身によって作られた培本社にはいくつものユニークな特徴がありました。『北竜町史』に掲載された培本社規約から主要なものを拾い出してみます。二宮尊徳の興復社と比べても興味深いです。
第1条 本社は培本社と称し、同志の社員より成立する。
第2条 本社は北海道石狩国雨竜郡雨竜村貸下地50万坪を開墾し、混同農業を経営するをもって目的とする。ただし総会の決議を以て、補助事業として商店または工場を設くることあるべし。
第3条 本社存立期間は設立の日より満20カ年とす。ただし満期後といえども総会の決議を以て継続することを得るものとする。
第4条 本社員の責任は有限にして、社員の負担すべき義務は出資金額に止まるものとする。
第5条 本社事務所は雨竜村宇和に設置する。
第6条 本社資本金は金1万円とし、社員において金員または労力をもって分担出資するものとする。
第15条 社員は公義正道に順じ、誠実勤勉もって社業の大成を翼賛すべきはもちろん、酒を禁じ、行いを正しくして、あわせて地方風俗の矯正に勉むべきものとする。
第17条 社員破廉恥罪を犯し、またはその本分を欠き、もしくは本社の体面を毀損するがごとき不徳の行為あるときは、総会の決議を経てこれを除名する。しかしして除名せられたるものはすべての本社員たる権利義務を失うものとする。
第20条 本社役員は総会において社員中より公選する。
第21条 役員の任期は満3年とす。ただし満期後再選することを得る。
第22条 社長、監査役は無給とする。ただし社長に交際費として年額100円以上200円以内を支給するものとす。
第25条 役員はすべて本社に対し誠実にその職務を尽すべき責務を有する。ゆえに天変地異その他避くるべかざる人事損害を除くほか、役員の怠慢過失より起りたる損害は、その出演金額内において弁償の責任あるものとする。
第26条 本社純益の配当は次のごとくこれ定む。
1 100分の70 出資配当額
1 100分の15 種立金
1 100分の5 禁酒義金
1 100分の10 賞与
第27条 前条の積立金および本社所有の土地建物等財産の全部は、本社解散のとき、その10分の1を特に功労ある社員に贈与し、其の10分の9を出資の額に応じて各社員に分配するものとする。
第28条 総会は定期総会と臨時総会の二つとし、社長これを招集する
第29条 定期総会は毎年1月これを開く
第30条 社長の意見または監査役の請求、または社員5名以上の請求ありたるときは臨時総会を開くことを得る。
第32条 定期総会においては前年度の会計決算を検査し、またその翌年度の会計予算を定め、または役員選挙および事業方針の決定等重大なる社務を審議するものとする。
第37条 成年未満の社員は発言の権利を有するも、投票をなしまた決議の数に入ることを得ず。[4]
面白いのは6条、資本金はお金だけでなく「労力」=働くことでも資本として認めてくれました。15条では「禁酒」を定めています。この条は報徳精神が強く示されたものと言えます。議決権はないものの未成年者にも発言権が与えられていたところにも若い世代を大切にする姿勢がうかがえます。
社員は出資を限度に責任は有限であり、事実上、社長の吉植庄一郎がすべての責任を負いましたが、無給でした。この事業が吉植の営利を目的にしたものではないことわかります。もっとも、社長には年額100円以上の交際費を与えており、吉植庄一郎が道内政財界で活躍する資金となりました。
■毎朝1時間、二宮尊徳の話を続けた
実際に培本社はどのように運営されたのでしょうか。『北竜町史』によれば、まさに吉植庄一郎による報徳思想の実践でした。
作業は1週6日間で、日曜日は休んだ。吉植は、若い社員たちを励ます上にも、また教養をつける上にも、時には毎朝1時間づつ、二宮尊徳の話を続けた。
報徳精神が開拓の精神に生きてこそ、原始林も畑となり、かつ人間としての生き甲斐もあると信じていたのであった。
そして作業が終了して夕食が終わると「反省の時間」というのを設けておいて、吉植自ら反省し、若い社員たちから一日のすべてについて批判を受け、社員たちも社長にならって反省をした。
これは非常に受けもよく、お互に励まし合って社規が守られ、開墾成功へと一層力も心も注ぐことができたといわれている。
社規では酒を禁じていたが、煙草も禁じてそれを実行したのであった。当時禁酒禁煙による開墾というので、社会的にも高く評価されで、この人びとの実務の状態を視察に来る者も多かった。とくに若い学生たちのなかにも評判がよく、北大の前身札幌農学校の学生たちが多数視察に来たということである。[5]
そして前述の富井直さんは培本社での開墾の日々を次のように振り返っています。
当時団体員は、掘立小屋に住み、道路は、草を刈り分けて通行した。作物は主作として菜種、小豆(開墾後5、6年は菜種が主作なり)水田のない時代だから、自家食樋として大麦、小麦をつくったが、土地が肥沃で、どの作物も生産があがった。その頃汽車は空知太まで,そして空知太から当地までの道路も非常に悪く,いまでは想像もされないぐらいであった。
そして草原地は、新十津川(原註:尾白利加の町村農場であろう。当時町村金弥は馬耕の権威であったし、華族組合農場の解散によって交付された洋式農具を所有していた)から開墾の指導者を迎えたり、馬力を雇い入れたりして、3頭びきで大部分の開墾をなしとげた。
移民の食糧は、初年度は団体長から配給されたが、翌年からは各人自給自足としたので、大麦やいなきびを常食とした。
いま思い出して実に涙ぐましいのは移住当時の団体の申し合わせ事項である。すなわち貸し下げ地の付与を受けるためには容易ならぬ努力を必要とするというので、5カ年間の禁酒、禁煙を誓ったのであった。[6]
【引用参照出典】
[1]『北竜町史』1969・95-96p
[2]同上88p
[3]同上89p
[4]同上97-98p
[5]同上98-99p
[6]同上89-90p
【画像出典】
①北竜町ひまわり観光協会公式サイト>http://hokuryu-kankou.com/sightseeing.html