北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[北竜]吉植 庄一郎 (上)

 

吉植庄一郎(出典①)

 

報徳思想を継承し、北竜に「和」を興す

 

荒廃した農村を豊かに再生させた二宮尊徳の報徳思想は北海道開拓者精神の基底である──という話を続けています。前回、むかわ町の二宮について紹介しましたが、今回は北に飛んで、報徳精神で北竜町字和を開いた「培本社」社長・吉植庄一郎を『雨竜町史』(1969)より紹介します。
 

 
千葉県下総に生まれた庄一郎は、幼い頃から水害に苦しむ地域の人々を見て育ち、この苦しみから人々を救いたいと青年期から二宮尊徳の思想に傾倒していました。二宮尊親が報徳思想の理想を体現するために十勝平野の豊頃に入ったのと同じ考えで北竜に入りました。
 

■庄一郎、北海道に楽土の建設を志す

千葉県の印旛沼一帯は、水利に恵まれ江戸時代から米どころとして知られていました。一方で水の溜まりやすい低地であり、3年に1度は水害に襲われるといわれるほど住民は苦しめられていました。
 
江戸のはじめに、印旛沼近傍の佐倉惣五郎が領民の窮状を訴えて将軍に直訴し、重税廃止という願いは聞き届けられたものの、直訴という重罪を犯したとして家族ともども処刑されるという悲劇がありました。『地蔵堂通夜物語』として歌舞伎や講談にもなり、かつては国民的な物語でした。
 
慶応元(1865)年に比較的裕福な農家の長男に産まれた吉植庄一郎もそんな血を引いているのでしょう。以下は『北竜町史』の紹介です。
 
千葉県印旛郡埜原(やはら)村(後本埜村と改名)は水害で有名な村であった。徳川時代から利根川水系と印旛沼の治水が叫ばれていたが実現されず、父祖伝来、水禍の苦しみを続けて来たのである。
 
吉植家は、祖父以来、治水運動の主唱者であり、庄一郎の父庄之助は県会議員で、つねに治水問題で苦闘を続けていた。
 
こうした村民の苦悩を幼少の時から見て来た吉植庄一郎は、何とかして理想の新天地を発見して、楽土を築きたいものと考えていた。
 
彼はまだ28才で英気に満ちあふれていた。父母の反対を押し切って千葉県知事藤島正憲に北海道移住の計画を進言して、北海道長官宛に長文の紹介状を書いてもらった。
 
明治25(1892)年8月、吉植は紹介状を懐にして北海道長官北垣国道を訪問し、雨竜村に150万坪の貸し下げを受けることができたのであった。[1]
 

■千葉団体38戸、結成

町史には書かれていませんが、吉植庄一郎は幼少期から学業に優れ、明治13(1880)年に旧制千葉中学(明治11(1878)年創立)に入ると、成績優秀で飛び級によって明治17(1884)年に卒業しています。その後、私塾を起こし、村の小学校の校長となりました。
 
少年時代から二宮尊徳の思想に親しみ、校長の立場でも報徳思想を普及する立場を続けていましたが、教職との両立に困難を覚え、明治22(1889)年24歳になった年に報徳運動に専念するため学校を辞めます。
 
そして帝国禁酒会を創設し、機関紙「光」を発行するなど、禁酒運動を通して報徳思想の普及に励んでいました。
 
この吉植庄一郎が北海道移住を決断した直接のきっかけは明治25(1892)年、印旛沼を襲った明治期最大の水害でした。二宮尊徳も豊かな農家に生まれながらも水害により一家離散の苦しみを受けています。吉村が報徳思想に傾倒していったのもこの「水害」という共通項なのでしょう。
 
彼は喜び勇んで、織原吉之助等と共に探検したのは、エタイベツ川中流から上流にかけた地帯(現在の三谷、稔、恵岱別)であった。下流の方は華族組合が占有していたから、残された肥沃地は、そこしかなかったのである。
 
そこには、アカダモ、ヤチダモの原生林が昼も暗い程に密生していた。大きな蕗(ふき)が傘のような葉をひろげていた。彼はそうした植物の葉をいくつも採集し、草原の萩やすすぎの茎も抜きとって郷里へのみやげとした。
 
彼はまず父母の同意をうるために、北海道で集めた幾多の資料をひろげ、ここに新天地を開拓する希望を仔細に述べたので、父母も彼の熱意に動かされ、ついに移住を許したのであった。
 
彼は村内で北海道探検の発表演説会を開き同志を募った。しかし容易に賛同する者がなかった。彼は身内や親戚の者を説いてまわり、ともかくも38戸の団体を結成することができた。中には北海道へ分家独立しようとする独身の青年が7人もいた。[2]
 

■小屋掛けの日──移住記念日

かくて明治26(1893)年5月、開拓団一行は村民多数に見送られて、江戸川を下り、行徳に出て、横浜から乗船、小樽に上陸、北海道炭鉱鉄道株式会社の汽車で空知太駅に下車した。当時は空知太以北はまだ鉄道がなかった。あとは徒歩で、新十津川、雨竜を経てエタイベツに着いたのであった。
 
これより先、吉植は小屋掛けの先発隊をつれて入地したが、後藤喜代治が華族組合解散の事実をしらせ、別な土地を選定してはどうかと助言してくれたので、出願地をエタイベツ川下流地方(現在の培本社「和」一帯)に変更した。
 
土地が広く、地味も肥沃であることが認められた。そこで先発隊の大工富井三右衛門、稲葉忠右衛門等が立木を伐って小屋掛けを行なった。現在培本社の林仁三郎宅の所である。
 
一行が小屋にはいったのは5月17日で、後この日を培本社の人びとは移住記念日とし、神社の春の祭日として家業を休み祝ったものである。[3]
 

■北竜町字和に込められた聖徳と尊徳の精神

吉植庄一郎が率いる千葉団体が入植した地は、庄一郎自身によって「和」(やわら)と名付けられます。この「和」という地名にこそ北海道の開拓の精神が示されています。『北竜町史』はこの命名の場面をあえて加藤愛夫の小説から引用しています。
 
ちなみに加藤愛夫は、明治35(1902)年に北竜に生まれ、上京して早稲田に学んだ詩人です。昭和7(1932)年から岩見沢に居を移し、「北方文芸」を創刊、北海道文学界の重鎮として活躍しました。
 
その加藤が郷土の英雄を描いたものです。太古の聖徳太子から始まり、江戸期の二宮尊徳に受け継がれた心が、明治にこの北竜で実を結びました。謹んでお読みください。
 
「和」という地名は吉植庄一郎の命名によるものである。加藤愛夫の物語『開拓』のなかに、次のように述べられている。
 
貸付地一帯の地名は、川の名と同じく「エタイベツ」と呼ばれていた。
その「エタイベツ」とは、どの付近までが呼ばれるかは不明であった。
 
ばくぜんと川に沿ってさかのぼった地帯を移住民たちも認めていたのであるが、このアイヌ名をもって第二の故郷の名とするには異論があった。
 
「いくら北海道の山の中へ移住したからとて、エタイベツという地名じゃこまる」
 
織原吉之助は炉の火をつつきながら、吉植に話しかけていた。
 
「そのことは、ここを選定した時から俺も考えていた」
 
吉植は答えた。
 
「みんなも希望している内地の村の名をとってつけた方がいいと思う」
 
「新十津川のように、新埜原とつけるか、それともただの埜原はどうでしょう」
 
文衛も横からいうのだった。
 
「俺もそう考えたことがある。みんなも故郷の村名には未練もあり、愛着もあるわけで最もいいと思う。
 
村名というものは、どこでもそれぞれ理由があるので、漫然とつけられたところはないようだ。例えばエタイベッというアイヌ名でも、アイヌにとっては立派な理由から呼ばれたものと思う。
 
ただわれわれが、この地の開拓者として原名じゃピンと来ないから、われわれにふさわしい地名を求めるわけなのだ。そこで俺が地名の名付親になってもよいかね。どうだね」
 
「それは異議がないだろう。あまり変な名をつけちゃこまるが……」
 
織原は義兄の顔を見ながら笑った。
 
「文衛君もいいかね」
 
「いいです」
 
「それじゃ今夜、全部そろったところで発表しよう」
 
その夜、炉火のほとりで、談笑ににぎかな移住民たちの顔を見ていた吉植は、ちょっと座り直して声をかけた。
 
「さて話中突然だが、この土地に字名をつけたいので、私の話を聞いてください」
 
静かに、静かに──と叫びながら皆は吉植の方へ向いた。
 
「この地には、エタイベツというアイヌ名がついているが、これでは皆さんも異議があるので、いまわれわれにふさわしい地名をつけたいと思う。僭越であるが、私が団長として名付け親の任務を果たします。
 
そこで皆さんが夢にも懐かしい故郷の村名『やわら』をつけたいと思います。すなわち『雨竜村字やわら』となるのですが、その表わしかたを『和』と書くことにいたします。
 
なぜ、にこの『和』をあてたかというに、聖徳太子の憲法17条の第一条に曰く、
 
和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。人みな党あり。またさとれる者少なし。ここをもって、あるいは君父にしたがしたがわず。また隣里に違う。しかれども、上和(かみやわら)らぎ、下睦(しもむつ)びて、事をあげつらうに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
 
とあります。われわれが新しい天地を開拓し、村を建設するには、先ず何よりもこの和の精神が第一と考えられます。
 
太子ご存世中の日本は、皆さんも知っているとおり、国の内外は非常事態であって、ばつ族互に反目抗争し、私利、私欲にはしって君父にしたがわず、国政を乱しつつあったのでして、太子が時へいを正し、国体の本義をお示しになって、群臣百僚をお戒めになったのが、つまり憲法17条のご制定となりました。
 
まずはじめに和を以て尊しとせられ、治世の根本理念とせられたのであります。私は、まことによい字名と思い、この『和』の字を当てました。
 
二宮尊徳先生も『人道は和を以て本とする』と述べられています。
 
『この道盛んなればすなわち国家は富み、この道衰ふれば則ち国家は貧しい。いわく、何を道といふか。人道これである。いわく、何を人道といふか。相生じ、あい養い、あい救い、あい扶ける。これである』
 
と教えられて、『君民、貧富おのづから和することによって聖世の治』とせられています。
 
もっと『和』について解釈を与えればたくさんあるでしょうが、私の考えたことは以上に基づいています。この地われらの第2の郷土を明日より『和』と呼ぶことにいたします。
 
一同は拍手した。[4]
 

 


【引用参照文献】
[1]『北竜町史』1969・北竜町・91-92p
[2] 同上・92p
[3] 同上・92-93p
[4] 同上・94-95p

①北竜町ポータル運営協議会『北竜町ポータル』

北竜町の歴史 ><北竜町史資料> 郷土の先覚者・吉植庄一郎(著:森山 昭)https://portal.hokuryu.info/pioneer

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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