[北竜]吉植 庄一郎 (下)
北海道でまたもや水害に 庄一郎 政治を志す
吉植庄一郎の報徳思想による北海道開拓は、さまざまな困難に遭いながらも、着実に進展していきました。ところが明治33(1898)年、石狩川の氾濫が開拓地を襲います。このことが庄一郎に政治の道に進むことを決意させるのです。
■開拓は忍耐の連続
吉植庄一郎という英邁なリーダーと報徳精神によって千葉団体ならびに培本社の開拓は、着実に進められていきました。培本社の開拓の様子を伝える『北竜町史』は昭和44(1969)年、かの「北海道百年」の年に編さんされました。町史の次のような記述は今は失われてしまった北海道開拓の誇りを伝えるものです。
昔の開拓は大きな忍耐の連続であったといえる。
のこぎりとおのとくわとかまだけが開拓の武器であった。農具であった。当時とすれば、それ以上の道具がなかったからでもあろうが、トラクターで開拓する今日の農法から顧みて、よくやったものだと驚嘆せざるをえない。
しかも千古斧欽(ふえつ)を入れざる原始林と取り組んで、耕し、種子をまいていったのである。気象、風土にたいする知識も対策もなく、ただがむしゃらに伐り開いていったようにも思える。体力とともに大きな精神力によったものであろう。
そのゆえに開拓は必ずしも予定の成功をおさめたとはいわれない。北海道史が物語る殖民政策には幾多の失敗や非難、やり直しがあった。それらの積み重ねが今日の建設にたどりついたのである。
その大きな流れの中にあって、個人の生活は犠牲となっていったが、封建社会にあっては、それ程にも問題にされず、これを以て国土をひらく者の誇りであり、農民道であるとされていたのである。アメリカ人が西部の辺境を開拓したフロンテア精神と、北海道開拓の精神とは相通ずるものがあったのである。[1]
■米国式農法を取り入れて機械力を応用した
明治10(1877)年代から20年代の開拓者は、先進的なアメリカ式農業によって北海道の開拓に挑もうというアンビシャスを抱いていました。吉植庄一郎もそうした新農法の信奉者でした。馬の力を活用した農法で北竜の大地は拓けていきました。
さて村の人びとはどんな作業をしていたのだろうか。和も渡辺農場も、三谷農場も、見渡す限り伐り開かれた後には、黒く焼け残った木の株が、まるで黒外套の兵隊がならんでいるように立っていた。その間を人びとはくわで耕して行った。
培本社では農耕馬も買い入れた。農耕馬といっても俗にいうドサンコ馬である。ちょこちょことあせりなが小走りに歩く癖があるので、プラオをつけたが、なかなか満足に歩いてくれない。おまけに馬を使うコツを知らない者ばかりであったので、馬よりも馬を使う人が苦労した。それでも3頭引きなのでみごとに起こしていった。
次にカルチベーターや播種機などの米国製の農具が入って来た。米国式農法を取り入れて機械力を応用した。土地は非常に肥沃であったから、作物はよく生育し、あまりできすぎて稔らぬものさえあった。
ジャガイモは5升芋ともいわれ、1株で5升も収穫があったと言われる。昔の芋は丸くなく徳利のように長かった。6~70筒で1俵もあるほど大きい芋が穫れた。小豆はつるのように伸び、収量も多かった。とくに菜豆(さいとう)類はよくできた。麦類もよく成長し、黄金の波を打って稔った。笹を焼いた跡には、そのまま菜種をまいた。亜麻も実によく伸びた。
肥料というものはほとんど考えられなかった。作物のでき過ぎを防ぐ嬢ために、過りん酸石灰が使用されるようになったのもずっと後のことで、ほとんど無肥料栽培であった。[2]
■マラリヤが常に開拓者たちを悩ました
順調そうに見える培本社の開拓ですが、現代の私たちには想像も出来ない苦労の積み重ねでした。特に動物の害に入植者は悩まされました。
蚊が非常に多く、口も眼も開いていられないほど群がっていた。これにはすべての人びとが苦しめられた。朝、畑に出る時は、麦わら帽子の上にぼろを束ねて火をつけ、そのくすぶる煙で蚊の群がるのを防いで仕事を続けた。最も困ったことは便所である。尻をまくって側からうちわであおいでもらったという。蚊が多いせいか、おこり(マラリヤ)が常に開拓者たちを悩ました。
秋になると熊が出て農作物を荒らすことも度々あった。この付近には、人を襲う悪な熊はいなかったようであるが、熊のために命を失った人の話はいたるところにあって危険極まるものであった。
夕方になると石油の空きかんを叩く音が村中やかましいほど響いた。焚火をして熊よけとした。しかし朝起きて見ると、家の前に熊のふんがまだ温かさを保っていたり、鋭い足跡がべたべたと畑についていたりして、人びとをぞっとさせることも多かった。
畑の熊の被害が多いからとて、樹木から樹木へ横木を取り付け、高くやぐらを組んで、篠原常吉・吉植森次郎等が鉄砲を持って夜中、がんばることも幾度かあったが、そんな時は熊は姿を見せなかった。[3]
■パン食を唱導し、みずから実行した
開拓史を指導したケプロンは、北海道では積雪寒冷の北海道で米作は無理であり、小麦を主体とした農業を推奨し、このため主食も米からパンに変えるように指導しました。吉植はその指導に忠実に従い当時では珍しくパン食を主体とし、培本社の人々にも勧めていました。しかし、多くの移民はやはり米が食べたかったようです。
そのころはまだ米作はほとんど見られなかった。米は内地から移入されたので、開拓者たちの口に入るのは容易でなかった。屯田兵は国からの給与を受けていたので米に対する不自由はなかったが、自由移民には薬のような価値があり、米の食える農民になるには実に程遠いことであった。
培本社では病人でない限り米は食べられなかった。それではどんなものを日常食べていたか、ほとんど自給自足であって、調味料としての味噌、醤油、砂糖、塩のようなものだけ買っていた。特別な食糧もないのが一般の生活状態であった。[4]
この農場の指導者、吉植庄一郎はきわめてを米国式酪農方式に置き、生活様式もそれに進歩的なで、農業経営の理想順応したものにしようとした。クリスチャンであったかどうかはつまびらかでないが、外人の牧師、神父がよく培本社を訪問したというし、吉植みずからはある期間、パン食を続けたとも伝えられている。[5]
千葉団体の団体長吉植庄一郎はパン食を唱導し、みずから実行したこともあり、これら首脳部の人たちの間には、北海道の農業を米国風に改めようとする道庁の指導方針について行こうと努めた形跡はある。しかし小作農家は大部分、米を最後の目標としていた。[6]
現在は北海道を代表する米どころ(出典①)
■決して子弟を文盲にしない
入植者が新天地に定住し、第2の故郷とするためには、生業である農業の確立のほかに、教育や衛生などの環境も整備しなければなりません。団長の吉植庄一郎はことのほかこのことに気を配りました。そのことが培本社開拓の成功につながっています。
どこでも開拓地にはいって、最初に悩んだのは教育機関と医療機関であった。明治26(1893)年といえば、深川、滝川、沼田等の現在の都市が、まだできていなかったし、30キロメートル以内に医療機関は全然ないという状態だった。
吉植団長は、このことを計算に入れて、医師の免状を持っている鈴木完爾を団員に加え(この人は培本社の社員に名を連ねていた)て移住したが、この土地に長くとめておくことはできなかった。鈴木医師は、間もなく新十津川の製麻会社に招へいされ、嘱託医として赴任したのである。[7]
病人が出れば、新十津川に鈴木莞爾が病院を開いていたので、22キロメートルの道をそこまで行って診療を受けたり、薬を貰いに行ったりしたものである。[8]
入地に当たって人びとが最も心をなやましたのは子弟の教育であった。吉植庄一郎が団体員を募集した時、第1に責任をもって学校を建設、決して子弟を文盲にしないという確約を要求された。当時はようやく学問のすすめが徹底し、農民といえども無学、文盲をこの上ない恥としたものである。困難な開拓事業のかたわら、培本社の寮で青年たちを助手とし、冬期間読み書きを教えた。[9]
明治26(1893)年秋入植後間もなく、団員の希望により、和35番地3に木碑を建て、天照皇大神、八幡大神2柱の神を合祀して、この地方の開拓守護神とした。この木碑が和神社のはじまりである。[10]
冬期間、何をしていたかというに、吉植は滝川に運送店を設置して、滝川、旭川間の運搬業務を経営した。冬ともなれば、培本社の人びとは馬そりをもって、この業務につくことになっていた。当時はまだ鉄道がなかった。そうすることによって農産物の輸送もでき、かつ現金収入をあげることができた。[11]
■農村確立のためには、政治を改善する必要あり
このように模範的な発展を遂げた吉植庄一郎の培本社開拓ですが、団長のには開拓を取り巻く状況にさまざまな不満や意見があったのでしょう。自分たちが置かれた状況を改善するには政治を変えるしかないと、北海道新聞の前身「北海タイムス」を立ち上げ、さらに国政に打ってでました。
そのうえ、この人は、農村の確立を期するためには、政治を改善する必要があり、政治的実効をおさめるためにはまず言論の世界に実力を示す必要があると考えて、東武らとともに北海タイムスを創刊し、おおいに北海道の拓殖を論じた。[12]
吉植庄一郎が北竜を出て札幌で「北海タイムス」を立ち上げようとしたのは、またしても明治31(1898)年に村を襲った石狩川の大水害でした。そもそも吉植が北海道にわたったのは、故郷印旛沼の水害でした。次は北竜町ホームページの「吉植庄一郎伝」からです。
やっと安定した生活が得られたかと思えた北海道開拓団を再び生活苦のどん底に落とす出来事が起こります。明治31(1898)年、庄一郎が33歳の頃に起きた、石狩川の氾濫を中心とした北海道大水害です。
「水害はどこまで俺たちを苦しめれば気が済むんだ・・・」
印旛沼の水害から逃れてやっと新天地の開墾が軌道にのったばかりの庄一郎にとって、治水問題は改めて逃れることのできない生涯の課題と考えさせられた事件でした。
この大水害の被害は、雨竜村の移民団のみならず、北海道全域の開拓民の生活をも根底からくつがえすような大災害でしたので、庄一郎は、札幌の大地主や商工会議所の名士を集めて上京し、時の政府の内務大臣板垣退助に陳情しました。
そして、窮状を強く訴え、当時のお金で救援費300万余円もの大金を引き出すことに成功したのです。
「ああ、これで多くの人々が救われるのだ・・・」
庄一郎は、ほっと胸をなでおろし、共に力を合わせた多くの人々に心から感謝したのでした。
このできごとをきっかけとして、庄一郎は、北海道在住の地主や有力者との関係を深め、「北海道有志倶楽部」を設立し、開拓してまだ未整備な北海道の町をよりよくしていく商工会議所の活動に目覚めていきます。
例えば、北海道拓殖銀行の設立運動・治水事業の進捗や開拓の速成・自治制の創立などを目標に掲げて活動していきました。
そして、明治32(1899)年35歳の時、「北海道時事新聞社」を興し、自ら社長となり新聞業をはじめます。また、明治35(1902)年37歳の時には、北海道にある他の2紙と合併し、「北海タイムス新聞社」の理事に就任しました。この時、実に約6万部をも発行し、当時としては北海道一の大新聞社でした。[13]
■南米の日本人移民の様子などを視察
さらに新聞発行による言論活動だけでは十分ではないと吉植庄一郎は国政に打ってでます。その直接のきかっけは明治38(1903)年に南米を訪問し、同地にわたった日本人移民の様子を視察したことでした。帰国後、より政治の中心に近い故郷印旛沼に活動拠点を移し、衆議院議員の立場から開拓民の立場に立った提言を行いました。
庄一郎の政治活動は、明治32(1899)年の「北海道立憲政党札幌支部」に加したことから始まります。翌年、「立憲政党札幌支部」と「北海道有志倶楽部」を合同し、「政友会支部札幌」を設立しました。
明治36(1903)年、38歳となった庄一郎は、突然北海タイムス新聞社の理事を辞職して南米チリに約半年間をかけて海外渡航することになります。
政府と北海道庁からの派遣により、藤島正健とともに南米と日本との貿易の様子や南米の日本人移民の様子などを視察することになったからです。
その帰りには、パナマ運河を経てアメリカのニューヨークにも訪れ、日本人の移民の生活を見聞しました。このとことが、その後の庄一郎の政治活動にとっては大変貴重な経験となりました。
帰国と前後して、千葉県選挙区から立憲政友会衆議院議員として立候補した庄一郎は、弱冠39歳の青年議員として初当選を飾ります。
議会における庄一郎は、特に農業政策でめざましい活躍をしました。農業の保護・農政の改革・開拓の進捗・帝国経済政策・産業政策などに、これまでの経験を生かして議会へ提案したり、議決をうながしたりする活動を行っています。外国からきた穀物に輸入税を課して、農業を保護する政策を現実化させるなどのことも行っています。
また、新聞社を経営した経験から、予算関係にも詳しく、毎年のように予算委員となり、政友会を代表してたびたび問に立ったと『本埜村誌』(1916年発行)に記してあります。その後も、政務調査委員となり、いろいろな法案の成立に力をつくしました。
その後、庄一郎は、海外移民の保護問題や米の専売制度等に力を尽くし、明治37(1904)年の初当選から昭和8(1933)年5月の衆議院選挙で落選するまで、実に連続九回の当選を果たし、27年間の議員活動における数々の業績を残し引退しました。
そして、父庄之輔が長く守ってきた故郷の本埜村下井の実家に戻り、静かに農業をしながら晩年を過ごしています。[14]
こうして吉植庄一郎は昭和18(1943)年3月10日、波乱に満ちた生涯を終えました。
【引用参照文献】
[1]『北竜町史』1969・101-102p
[2] 同上102-103p
[3] 同上103p
[4] 同上104p
[5] 同上104-105p
[6] 同上352p
[7] 同上621p
[8] 同上103p
[9] 同上505-506p
[10] 同上749p
[11] 同上106p
[12] 同上108p
[13]「14]北竜町ポータル 日本一を誇るホタルの里『<北竜町史資料> 郷土の先覚者・吉植庄一郎(著:森山 昭)』 https://portal.hokuryu.info/pioneer
①https://ja.wikipedia.org/wiki/北竜町/北竜町三谷